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Re[13]: 意識の綜合とその分節
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□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/04/17(Sat) 19:06:38)
| わたしにおいて、「人」というのは分類されたもの。そして「人」をゲシュタルトとして見ます。 「意識(精神)」というのも人において分節されたもの。そしてこれもゲシュタルトとして見る。 〈統一的・全体的構造をもつ移調可能な一つの意識〉っていうことになるのかな。
フッサールは、〔総合を意識の原形式〕とし、〔総合〕を〔流れ去る多様の統一〕としている。 たしかに、〔流れ去る多様の統一〕のようにわたしには思えてる。 たとえば、わたしがいまこうして文を打ち込んでいたり、ただ座って窓の外を眺めているときでさえ、そこには〔流れ去る多様〕があって、それらが〔統一〕されてるんだと思う。でもこういうのっていちいち意識してない。だから〔無意識の働きにも比せられる〕、になるんだと思う。
そして、フッサールは意識の「総合」を、まず大きく二つに分節していて、〔受動的総合〕と〔能動的総合〕。
ゲシュタルトとして見る、ということで重要なのは、ただ分ける(分節)するだけに留まるんじゃなくて、その分節されたものが相互にどのように関係していて、統一的・全体的な一つのものとして機能しているのかを見ることでなんで、ようするにその分節したものの“相互関係性自身”を見ることによって全体を見てゆこうとしてるんじゃないかっわたし見てる。
No11697に書いたように、メルロは【相互に作用しあっている出来事】とか【神経系には全体的な出来事しかない】などと言っている。
(fd-1)では、「内的時間意識」「キネステーゼ」「自我」「自我極」「地と図」「分化」、などの用語が出てきている。 これらについて見ていって見ることにしま〜す。
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