| No11066 悪魔ちゃん、こんばんは〜
わたしがわからなくてあたふた悩んでることは、まったく気にしなくていいよ!
悪魔ちゃんが、石を投げ入れ、波が広がる その波は、わたしに新しい知見を届けてくれる。 わたし自身はそう感じてるよ。アリガト ギブアップも、したくなったら、もちろんするから、わたしに関しては大丈夫だよ〜(^_^)v
中島義道先生は哲学に対してと〜っても深く理解してる先生だと私は思ってるよ。 本人が深く理解しすぎてて、文章に、繋がりの表記がなされてないだけで、 きちんと哲学的な論理は、中島先生の頭の中では、理路整然なものになってるのかなと、私は想像してるよ。 また、厳しそうな先生(イメージ)だから、表記する必要はないと思われてるのかもと想像したりもするよ。
ごめんね、ちゃんと投稿してなかったけど、悪魔ちゃんとの話題になった文章以外のところで、カント哲学でも 『フェノメノン』という単語が使われているところもあるんだ。 超越論的な論理学の第三章の題名が 『すべての対象一般を感覚的な存在(フェノメノン)と叡智的な存在(ヌーメノン)に区別する根拠について』 なんだ。
まだ読めてないところなんだけど、目についたところを引用するね。
カントの文章(中山元先生訳) 『このように現象における対象を積極的な意味で、〈感覚的な存在〉フェノメノンと〈叡智的な存在〉ヌーメノンに分けたり、世界は感覚の世界と知性の世界に分けたりすることはまったくできない。 ただし概念を感覚的な概念と知性的な概念に分類することはできる。』 B312あたり 『純粋理性批判3』p246より引用
もう一つ カントの文章(中山元先生訳) 『ライプニッツは現象をすべて物自体だと考えた。そして現象を叡智的なもの『インテリギビリア)とみなし、純粋な知性の対象とみなした(しかし現象の像は混乱したものであるために、これにフェノメノンという名前を与えた。』 B320あたり、同本p261より引用
また、初版には、 カントの文章(中山元先生訳)※[ ]は中山先生による補注。 『現象は、カテゴリーによって統一された対象という観点からは、フェノメノン[感覚的な存在]と呼ばれる。』 A249 同本p309より引用
とあって、違うかもだけど、一つの存在としての対象として意識するとき、フェノメノンという語を使うのかな?と思ったよ。違うかも??
リンクされないかもやけど、コトバンクさんの記事『カント哲学の基本概念』から引用するね。 https://kotobank.jp/word/カント哲学の基本概念-1614457 『現象と物自体(げんしょうとものじたい)、フェノメノンとヌーメノン Erscheinung, Ding an sich ; Phänomenon, Noumenon 感性を通して与えられる経験的世界は、実在のありのままの姿を示すものではなく、感覚に与えられた多様な素材が、人間の認識主観のア・プリオリな直観形式である空間、時間と、同じくア・プリオリな思考の形式である範疇(カテゴリー)によって整理構成されたところに生ずるものにほかならない。すなわち、それは、「物自体」ではなく「現象」である。現象は、感性的認識の対象として「フェノメノン」の世界であり、超感性的な純粋知性の対象としての「ヌーメノン」の世界のあり方については、人間の理性は、理論的にはなにもあずかり知らない。したがって、カントによれば、超感性的世界についての認識としての形而上(けいじじょう)学は理論的学としては成立しえない。』
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