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■11090 / inTopicNo.61)  悪魔ちゃんへ
  
□投稿者/ pipit -(2021/02/17(Wed) 21:39:08)
    こんばんは。
    カント哲学は、本当に多解釈なんだよ。だから、私は実際に自分でカントの文章を理解したいと思って、、、苦戦してる(^^;;

    第二版書き換え問題も、カントの意図は変化してない、と、解釈している解説も、私の理解ではたくさんあると思っている(解説文章もわたしには難しいよ(T-T))

    感性と悟性なんだけど、カント自身はどちらも大事、どちらも優劣つけれない、みたいなこと言ってたよ。

    『この二つの能力の特性を比較してみても、どちらが勝ってるとも言えない。感性なしでは対象が与えられないし、知性なしでは[対象を]思考することができない。』
    B76あたり 中山元先生訳『純粋理性批判2』p19より引用

    ここから(も)私見書くね。

    カントは感性と悟性という二つの幹は、わたしたちに知られていない一つの根から出てる、って言ってたよね。

    『この二つの〈幹〉とは感性と知性[=悟性]であり、これらはおそらくまだわたしたちには知られていない一つの共通の〈根〉から生まれてきたものである。感性によって、わたしたちに対象が与えられ、知性によってこの対象が思考されるのである。』
    B29あたり 中山元先生訳『純粋理性批判1』p63より引用

    わたし、この〈根〉が、生きるためという気持ちなんじゃないかと今は思ってるん。

    だから、感性も悟性も、機能の面でどちらかが統制として優先的に働いたとしても、価値としては等価、ってかんじになんとなく捉えてるん。

    私は、顕在意識や、エピソード記憶を作る機能として、『純粋理性批判』を見てるところがあるん。

    生に有利な認識を作るために備わっている人間の能力の分析、そんなかんじにみてるところもあるん。

    また私の捉え方は変わっていくかもやけどね。
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■11081 / inTopicNo.62)  Re[14]: phenomenon,現象
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/02/17(Wed) 19:07:18)
    ■11079、pipitさま、ファイノメノン、ありがと。
    現象学における「phenomenon(現象)」については、ハイデガーの『存在と時間』のなかで書いてある。かなり長いんで、休みの日にそれタイピングしてWhatのところで見ることにするね。
引用返信/返信 削除キー/
■11080 / inTopicNo.63)  Re[13]: カントにおける感性と悟性との関係
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/02/17(Wed) 18:55:07)
    ■11071
    >実は悟性が感性にちょっかい出してた、<
    っていうpipitさまの直観、わたしもそんな感じがしてるんだけど。

    『行動の構造』で、メルポンはこんなことを言ってる。

    【‥‥カントの「超越論的感性論」の意味は、だいたいこのようなものである(33)。だが、この批判主義的態度は暫定的なものでしかありえないはずであり、『純粋理性批判』の第二版がそれを示している。実際われわれは、「〔感性〕に与えられたもの」と「〔悟性によって〕思考されたもの」との関係とか、純粋感覚ともいうべき〈惰性的な「物」〉に対する意識の作用とか、また「触発」と認識の関連、感覚的意識と悟性的意識の連関などをどう考えたらよいであろうか。そのように反省してみると、カントにおいては、結局のところ、感覚的と言える意識は存在せず、「感性論」と「分析論」の分裂とか、所産的意識といったものは存在しないことになってくる(34)。…‥認識の〈質料〉は、意識の自己反省に際して、意識によって設けられる極限概念となり、もはや、認識を構成するものではなくなるのである。だが、そのときから、知覚は「悟性的認識」の一変種となり、またそれのもっている積極的な面から言えば〈判断〉となるわけである。】

    (33)原注:「超越論的感性論」は、〈経験内容〉ばかりではなく、ついには〈空間形式〉それ自身をさえ、人間の構成した〈偶然的なもの〉にもとづけているほどである。

    (34)原注:よく知られているように、『純粋理性批判』の第二版は、〈感性〉から「形式的直観」、つまり「超越論的感性論」の言う「われわれの触発される仕方」を奪って、それを〈悟性〉に与え、また〈超越論的想像力〉の三段の綜合――を放棄して、意識のすべての水準‐−それは抽象的分析によってのみ区別される――に「我思う」が現前してるということを、第一版よりもいっそう明らかにしようとしているのである。

    これはカントのをメルが見て、っていうことになるんだけど、じっさいカントの『純粋理性批判』第二版ではどうなってるのかな〜?って。

    それと同書の訳注に、カントの有名な言葉として、
    〔直観に与えれれる多様な表象が総合されて、〈一つの経験〉ないし〈一つの認識〉となるためには、それらの表象が「我思う」に関係づけられていなければないない。〕
    って書いてあるんだけど、このへんもどうなのかな?って。

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■11079 / inTopicNo.64)  現象について山口裕之先生の本から
□投稿者/ pipit -(2021/02/17(Wed) 16:04:05)
    『語源から哲学がわかる事典』山口裕之先生著、日本実業出版社、p215から引用します。
    ※ギリシア語は引用できていません。

    『(略)
    phenomenonの語源は、ギリシア語の「ファイノメノン:」である。
    語源も何も、そのままの音写である。
    これは、先に説明した「ファンタシアー:表象」(205ページ)と同じく、動詞「ファイノー:光を当てる、現れさせる」に由来する。
    ファイノメノンはファイノーの中動・受動分詞なので「現れたもの」ということである。
    英語ではappearanceと訳される。
    (略)』
    p215より引用
引用返信/返信 削除キー/
■11072 / inTopicNo.65)  Re[11]: カント的〈現象〉
□投稿者/ pipit -(2021/02/16(Tue) 20:27:28)
    > 以上は感性論での現象の記述について、ですが、次に論理学での現象についての記述を見ていこうと思っています。<

    道中(?)、カントの真理観などにも、なんとか、触れていけたらと思っています。
引用返信/返信 削除キー/
■11071 / inTopicNo.66)  カント的〈現象〉
□投稿者/ pipit -(2021/02/16(Tue) 20:23:00)
    みなさまこんばんは。
    まずはじめに、超越論的感性論の中に出てくる、カントの現象の定義と、御子柴善之先生の解説を引用します。

    ただ、カントの認識論は、感じたもの(超越論的感性論にて考察)を考える(超越論的論理学にて考察)、という手順みたいなので、この定義は、超越論的論理学にいたって変化していくかもしれません。
    実は悟性が感性にちょっかい出してた、という、どんでん返しの可能性もないではありませんしね。
    感性論の次は、論理学内での記述を見ていこうと思っています。

    とにかくカントは、わかりにくくてわかりやすくてわかりにくくてわかりにくい、不思議な感触です。

    現象の超越論的感性論での定義を引用します。

    カントの文章(御子柴善之先生訳)
    『ある対象が表象能力に及ぼす影響が、私たちが対象によって触発される限り、感覚である。
    感覚によって対象に関係するような直観を、経験的という。
    経験的直観の未規定な対象を現象という。
    (A19f./B34)』
    『カント純粋理性批判』御子柴善之先生著、角川選書、p88より引用

    御子柴善之先生の解説※ドイツ語の記号は引用できていません。
    『こころには、個別的表象(この書物の直観)も一般的表象(書物一般の概念)も意識されます。
    その点で、前の引用で「こころ」と呼ばれたものが、この引用では「表象能力」と呼ばれています。
    この表象能力に対して触発によって引き起こされる結果が「感覚(Empfindung)」です。
    眼前の書物が大きければ、広がりの大きさが感覚され、それが鮮やかな赤色であれば、その色が強く感覚されます。
    このような感覚によって対象に関係するとき、その直観は経験的(empirisch)です。
    このような、経験的直観によって与えられる対象が「現象(Erscheinung)」です。
    私たちは年じゅうさまざまな自然現象に見舞われます。
    日照りや台風、地震や火山の噴火など。
    それらはつねに感覚を介して直観されます。
    もっとも、私たちは、そうした自然現象を、これは台風であり、あれは地震であると概念を用いて認識します。
    そうした概念によって規定されていない対象が「現象」なのです。
    仮に適切な概念が見当たらない自然現象に遭遇した場合、私たちはまさに「現象」がそれとして与えられていることを意識することになります。』
    同本p88.89より引用

    以上は感性論での現象の記述について、ですが、次に論理学での現象についての記述を見ていこうと思っています。

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■11070 / inTopicNo.67)  おくたがわさんへ
□投稿者/ pipit -(2021/02/15(Mon) 22:50:00)
    こんばんは、ありがとうございます♪

    No11064に返信(おくたがわさんの記事)
    > >『純粋理性批判4』中山元先生訳、p20
    > >すなわち真理も誤謬も、また誤謬に導く仮象も、判断のうちだけに、すなわちわたしたちの知性と対象の関係のうちだけにおいて発生しうるのである。
    > 認識が知性の法則と完全に一致した場合には、誤謬というものは存在しない。
    > さらに感覚能力の描いた像のうちにも、誤謬というものは存在しない(そこに判断は含まれないからである。』
    >
    > 誤謬がないケース(現象)1
    > 感覚能力の描いた像のうちにも、誤謬というものは存在しない(そこに判断は含まれないから)
    > =
    > 夢や幻のみならず、私の目や耳に触れるある印象や私の舌に感じられる味わいや、私の手に触れる感触等々、いわゆる主観的現象
    >
    > 誤謬がないケース(現象)2
    > 『認識が知性の法則と完全に一致した場合』 = 運動学のようなカテゴリーを適用した客観的妥当世界
    > −このレベルで法則に一致しない=誤謬がある場合が「仮象」<

    おお!すごくわかりやすくなります o(^o^)o


    > 一つの推測として、この両者を中島さんは「真の現われ」と表現したのかな、と。
    >
    > 最初私は、判断後に「仮象」でなく客観的に妥当とみなされるケースの「現象」にだけ言及したのが「真」という言葉かと思ったのですが、
    > 中島さんの『現象は、カントにおいては積極的に経験内の「真の現れ」という意味を受け持つことになる』という表現は円運動の話へ続き、
    > >円運動の上に座標を組むと、その座標においては外界の運動は反対の方向の円運動として知覚されるであろう。しかし、もしそれを真の実在的運動であるとみなすなら、そのときはじめて「仮象」が生ずるのである。言い換えれば、そう見なさないとき、円の外の観察者にとっての円運動も円の上の観察者にとっての反対方向の円運動も、ともに現象である。<
    >
    > こうなって、判断前の「現われそのまま」を「現象」とするという話に続いているわけなので、判断後に真とされた「現象」だけを念頭に「真の」と表現したわけではない気が。
    >
    > ただ… 真理も誤謬も判断後にのみ存在するとカントは書いているのに、判断前の「現われそのまま」(誤謬はあり得ない)という部分を含めて「真」という言葉を使うのは変な気もします。
    > 『経験内の「真の現れ」』というのは中島さんの独自解釈・表現なのか、カントの言葉の訳なのか。そして、訳の場合「真の」というのは、どういう言葉の訳なのかとか気になります。<

    本当、言葉の難しいところですね。
    誤謬がない、ということで、真が前提、とか?
    全然知らないのですが、龍樹さんなどの領域の問いになるのかなぁと思いました。

    先生わかりにくいです、と、中島先生に訴えたら、めっちゃ怒られそう(イメージ)と思いました(^^;;

    ちょっとまた御子柴善之先生の本も読んで、カントの文章もみてみて、わかったことあったら書き込みますね

    哲学書って、謎解き書みたいなところもありますね(o^^o)♪

引用返信/返信 削除キー/
■11069 / inTopicNo.68)  だれのせい?
□投稿者/ pipit -(2021/02/15(Mon) 22:39:05)
    こんなにややこしく感じるのは、、、


    つまりはカント先生のせい !!!

    と思うわたしでありました。。。
引用返信/返信 削除キー/
■11068 / inTopicNo.69)  Re[11]: 中ちゃんの
□投稿者/ pipit -(2021/02/15(Mon) 22:33:43)
    No11066
    悪魔ちゃん、こんばんは〜

    わたしがわからなくてあたふた悩んでることは、まったく気にしなくていいよ!

    悪魔ちゃんが、石を投げ入れ、波が広がる
    その波は、わたしに新しい知見を届けてくれる。
    わたし自身はそう感じてるよ。アリガト
    ギブアップも、したくなったら、もちろんするから、わたしに関しては大丈夫だよ〜(^_^)v

    中島義道先生は哲学に対してと〜っても深く理解してる先生だと私は思ってるよ。
    本人が深く理解しすぎてて、文章に、繋がりの表記がなされてないだけで、
    きちんと哲学的な論理は、中島先生の頭の中では、理路整然なものになってるのかなと、私は想像してるよ。
    また、厳しそうな先生(イメージ)だから、表記する必要はないと思われてるのかもと想像したりもするよ。

    ごめんね、ちゃんと投稿してなかったけど、悪魔ちゃんとの話題になった文章以外のところで、カント哲学でも
    『フェノメノン』という単語が使われているところもあるんだ。
    超越論的な論理学の第三章の題名が
    『すべての対象一般を感覚的な存在(フェノメノン)と叡智的な存在(ヌーメノン)に区別する根拠について』
    なんだ。

    まだ読めてないところなんだけど、目についたところを引用するね。

    カントの文章(中山元先生訳)
    『このように現象における対象を積極的な意味で、〈感覚的な存在〉フェノメノンと〈叡智的な存在〉ヌーメノンに分けたり、世界は感覚の世界と知性の世界に分けたりすることはまったくできない。
    ただし概念を感覚的な概念と知性的な概念に分類することはできる。』
    B312あたり 『純粋理性批判3』p246より引用

    もう一つ
    カントの文章(中山元先生訳)
    『ライプニッツは現象をすべて物自体だと考えた。そして現象を叡智的なもの『インテリギビリア)とみなし、純粋な知性の対象とみなした(しかし現象の像は混乱したものであるために、これにフェノメノンという名前を与えた。』
    B320あたり、同本p261より引用

    また、初版には、
    カントの文章(中山元先生訳)※[  ]は中山先生による補注。
    『現象は、カテゴリーによって統一された対象という観点からは、フェノメノン[感覚的な存在]と呼ばれる。』
    A249 同本p309より引用

    とあって、違うかもだけど、一つの存在としての対象として意識するとき、フェノメノンという語を使うのかな?と思ったよ。違うかも??

    リンクされないかもやけど、コトバンクさんの記事『カント哲学の基本概念』から引用するね。
    https://kotobank.jp/word/カント哲学の基本概念-1614457
    『現象と物自体(げんしょうとものじたい)、フェノメノンとヌーメノン Erscheinung, Ding an sich ; Ph&#228;nomenon, Noumenon
     感性を通して与えられる経験的世界は、実在のありのままの姿を示すものではなく、感覚に与えられた多様な素材が、人間の認識主観のア・プリオリな直観形式である空間、時間と、同じくア・プリオリな思考の形式である範疇(カテゴリー)によって整理構成されたところに生ずるものにほかならない。すなわち、それは、「物自体」ではなく「現象」である。現象は、感性的認識の対象として「フェノメノン」の世界であり、超感性的な純粋知性の対象としての「ヌーメノン」の世界のあり方については、人間の理性は、理論的にはなにもあずかり知らない。したがって、カントによれば、超感性的世界についての認識としての形而上(けいじじょう)学は理論的学としては成立しえない。』


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■11066 / inTopicNo.70)  Re[10]: 中ちゃんの
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/02/15(Mon) 20:33:28)
    中ちゃんの持ち出したの、わたしなんだけど。ごめんなさい。彼のもう、ムシして。こんなんで、あれこれ考えるのやめたほうがいいかも、っていうことを言いたくて。

    わたし気づいたの。
    彼、No11000で、〔ランベルトは「現象学」(Ph&#228;nomenologie)という用語をはじめて使用したとされるが、…〕の括弧内はここでは(Ph&#228;nomenologie)ってなっちゃうけど、aのうえの点々をなくしてphanomenologie、(phenomenonの学)ね。
    中ちゃんはランベルトの「現象学」(phenomenology)を持ち出してるけど、カントのが使ってるのは[Erscheinung]。
    語が違う!しかもランベルトのは「仮象」の学にほかならない、って言ってる。なにこれ?もう、めちゃくくちゃね。

    ほんとーに、ごめんなさい。

引用返信/返信 削除キー/
■11065 / inTopicNo.71)  Re[9]: 現象の二義性
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/02/15(Mon) 19:17:47)
    おくったがわさん
    わたしもね、■11064 のような感じがしてるんだけど、でもね、その前に、

    [Ercheinung](日訳で「現象」)のカントの意味、どのような意味でつかっているのかを、まず捉えることが必要じゃないかしら?
    あ、これはpipitさまにおまかせね。

    現象学の[phenomenon]も日訳で同じ「現象」。でもカントの用語は[Ercheinung]。違うよね(これpipitさとのやりとりで気づいた)。こういうことってわたし問題。

    ちなみに現象学事典によると、[Ercheinung]は「現出」って日訳されて、[phenomenon]の日訳は「現象」として日訳でも区別されてる。
    あとだしの日訳かもしれないけどね。






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■11064 / inTopicNo.72)  Re[8]: 現象の二義性
□投稿者/ おくたがわ -(2021/02/15(Mon) 12:20:52)
    No11030に返信(pipitさんの記事)
    こんにちは。
    皆さんの投稿を読んで私も中島さんの「真の現れ」という表現にひっかかっていたのですが、引用のおかげで少し整理できた気がします(気がするだけかも)。

    >〔現象の両義性
    >だからカントの場合、実は現象は二義的である。運動学のようなカテゴリーを適用した客観的妥当世界のみが現象であるわけではない。もうひとつ、夢や幻のみならず、私の目や耳に触れるある印象や私の舌に感じられる味わいや、私の手に触れる感触等々、いわゆる主観的現象もまた現象である。
    (中島義道)

    >『純粋理性批判4』中山元先生訳、p20
    >すなわち真理も誤謬も、また誤謬に導く仮象も、判断のうちだけに、すなわちわたしたちの知性と対象の関係のうちだけにおいて発生しうるのである。
    認識が知性の法則と完全に一致した場合には、誤謬というものは存在しない。
    さらに感覚能力の描いた像のうちにも、誤謬というものは存在しない(そこに判断は含まれないからである。』

    誤謬がないケース(現象)1
    感覚能力の描いた像のうちにも、誤謬というものは存在しない(そこに判断は含まれないから)

    夢や幻のみならず、私の目や耳に触れるある印象や私の舌に感じられる味わいや、私の手に触れる感触等々、いわゆる主観的現象

    誤謬がないケース(現象)2
    『認識が知性の法則と完全に一致した場合』 = 運動学のようなカテゴリーを適用した客観的妥当世界
    −このレベルで法則に一致しない=誤謬がある場合が「仮象」

    中島さんが「現象」の二義としてこのようなことを考えているのはたしかではないかと思います。(カントの方の文章についての私の理解には間違いがあるかもしれませんが…)

    一つの推測として、この両者を中島さんは「真の現われ」と表現したのかな、と。

    最初私は、判断後に「仮象」でなく客観的に妥当とみなされるケースの「現象」にだけ言及したのが「真」という言葉かと思ったのですが、
    中島さんの『現象は、カントにおいては積極的に経験内の「真の現れ」という意味を受け持つことになる』という表現は円運動の話へ続き、
    >円運動の上に座標を組むと、その座標においては外界の運動は反対の方向の円運動として知覚されるであろう。しかし、もしそれを真の実在的運動であるとみなすなら、そのときはじめて「仮象」が生ずるのである。言い換えれば、そう見なさないとき、円の外の観察者にとっての円運動も円の上の観察者にとっての反対方向の円運動も、ともに現象である。<

    こうなって、判断前の「現われそのまま」を「現象」とするという話に続いているわけなので、判断後に真とされた「現象」だけを念頭に「真の」と表現したわけではない気が。

    ただ… 真理も誤謬も判断後にのみ存在するとカントは書いているのに、判断前の「現われそのまま」(誤謬はあり得ない)という部分を含めて「真」という言葉を使うのは変な気もします。
    『経験内の「真の現れ」』というのは中島さんの独自解釈・表現なのか、カントの言葉の訳なのか。そして、訳の場合「真の」というのは、どういう言葉の訳なのかとか気になります。
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