□投稿者/ おくたがわ -(2021/02/15(Mon) 12:20:52)
| ■No11030に返信(pipitさんの記事) こんにちは。 皆さんの投稿を読んで私も中島さんの「真の現れ」という表現にひっかかっていたのですが、引用のおかげで少し整理できた気がします(気がするだけかも)。
>〔現象の両義性 >だからカントの場合、実は現象は二義的である。運動学のようなカテゴリーを適用した客観的妥当世界のみが現象であるわけではない。もうひとつ、夢や幻のみならず、私の目や耳に触れるある印象や私の舌に感じられる味わいや、私の手に触れる感触等々、いわゆる主観的現象もまた現象である。 (中島義道)
>『純粋理性批判4』中山元先生訳、p20 >すなわち真理も誤謬も、また誤謬に導く仮象も、判断のうちだけに、すなわちわたしたちの知性と対象の関係のうちだけにおいて発生しうるのである。 認識が知性の法則と完全に一致した場合には、誤謬というものは存在しない。 さらに感覚能力の描いた像のうちにも、誤謬というものは存在しない(そこに判断は含まれないからである。』
誤謬がないケース(現象)1 感覚能力の描いた像のうちにも、誤謬というものは存在しない(そこに判断は含まれないから) = 夢や幻のみならず、私の目や耳に触れるある印象や私の舌に感じられる味わいや、私の手に触れる感触等々、いわゆる主観的現象
誤謬がないケース(現象)2 『認識が知性の法則と完全に一致した場合』 = 運動学のようなカテゴリーを適用した客観的妥当世界 −このレベルで法則に一致しない=誤謬がある場合が「仮象」
中島さんが「現象」の二義としてこのようなことを考えているのはたしかではないかと思います。(カントの方の文章についての私の理解には間違いがあるかもしれませんが…)
一つの推測として、この両者を中島さんは「真の現われ」と表現したのかな、と。
最初私は、判断後に「仮象」でなく客観的に妥当とみなされるケースの「現象」にだけ言及したのが「真」という言葉かと思ったのですが、 中島さんの『現象は、カントにおいては積極的に経験内の「真の現れ」という意味を受け持つことになる』という表現は円運動の話へ続き、 >円運動の上に座標を組むと、その座標においては外界の運動は反対の方向の円運動として知覚されるであろう。しかし、もしそれを真の実在的運動であるとみなすなら、そのときはじめて「仮象」が生ずるのである。言い換えれば、そう見なさないとき、円の外の観察者にとっての円運動も円の上の観察者にとっての反対方向の円運動も、ともに現象である。<
こうなって、判断前の「現われそのまま」を「現象」とするという話に続いているわけなので、判断後に真とされた「現象」だけを念頭に「真の」と表現したわけではない気が。
ただ… 真理も誤謬も判断後にのみ存在するとカントは書いているのに、判断前の「現われそのまま」(誤謬はあり得ない)という部分を含めて「真」という言葉を使うのは変な気もします。 『経験内の「真の現れ」』というのは中島さんの独自解釈・表現なのか、カントの言葉の訳なのか。そして、訳の場合「真の」というのは、どういう言葉の訳なのかとか気になります。
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