□投稿者/ pipit -(2021/02/14(Sun) 12:59:05)
| マジモンさん、こんにちは〜 とりあえずあだ名の一つは、『ケーニヒスベルク(地名)の時計』だったそうですね。 カッコいい呼び名なのか否か、判断分かれそうですね〜
悪魔ちゃん、ありがとう〜 固定化された概念を私は持つとこやったよ、やっぱまだまだまだまだやな〜
ニ義性のうちの一つを表現してるような箇所は、カントの文章で見つけられたんよ。 でも、もう一つを表現してるような箇所、確かに私はそういう文章を見た気がするんだけど、まだ見つけられないんよ。 なんか、現象がわたしに現象として現れられるのは結局はカテゴリーによるみたいな意味に思えた文章やったと思うんやけど、、、 そこらへんが、悪魔ちゃんが書いてくれた、現象は真の現れ、の意味あたりの文章で、『純粋理性批判』にとってはめっちゃ大切な箇所かなと思うんやけど、まだ見つけきれない(>人<;)(見つけられないけど、あったと私は記憶してるんだ、文章はそのままではないと思うけど)
とりあえず、ニ義性のうちの一面と思えるカントの文章を引用しておくね。 中山元先生訳だよ。
カントの文章 『ましてや現象(エアシャイヌング)と仮象(シャイン)を同じものだと考えてはならない。 真理と仮象は、対象が直観されているかぎりでの対象そのものにあるのではなく、対象が思考されているかぎりで、対象について人間が下した判断のうちにあるからである。 だから「感覚は誤らない」と主張するのは正しいが、それは感覚能力がつねに正しく判断するからではなく、そもそもまったく判断しないからである。 すなわち真理も誤謬も、また誤謬に導く仮象も、判断のうちだけに、すなわちわたしたちの知性と対象の関係のうちだけにおいて発生しうるのである。 認識が知性の法則と完全に一致した場合には、誤謬というものは存在しない。 さらに感覚能力の描いた像のうちにも、誤謬というものは存在しない(そこに判断は含まれないからである。』 B350あたり? 『純粋理性批判4』中山元先生訳、p20より引用
、、、引用してて思ったけど、もしかしたら、最後らへんの、 >認識が知性の法則と完全に一致した場合には、誤謬というものは存在しない。< が、カテゴリーの適用された現象は、真の現れ、という意味とかぶる可能性もあると思えたけど、、、 しかも、別可能性として、そもそも、この文章の冒頭の現象=感覚能力によるものというのは私の思い込みの気もしてくるよ、、、、
、、、
こんなにややこしいの、カント先生のせいにしたい!!
兎にも角にも、現象は真の現れというフレーズについて考察することは、『純粋理性批判』においてめちゃめちゃ大切な予感してる。
思い込みはなくならないけど、悪魔ちゃんのおかげで、時々少しだけ気づくことがかなうよ。 本当ありがとう。
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