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■11317 / inTopicNo.25)  日記
  
□投稿者/ pipit -(2021/03/06(Sat) 00:26:43)
    客観の元要素となる客体

    物自体としての客体、と、現象としての客体、の二種を考えられるとしたら

    現象としての客体、が、人間にとって客観に妥当するものであり、
    物自体としての客体を考えているとき、それは主観的なものになってしまう、

    みたいな感じが『純粋理性批判』の構図かな?と予想しました。

    予想が違ったり、予想が当たっててもどんでん返しとかあったり、』実践理性批判』では違う論理が登場したり、とかありそうですけどね。

    まあ、いいかげんな日記ということで。おつかれさまです、おやすみなさーい

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■11316 / inTopicNo.26)  悪魔ちゃんへ
□投稿者/ pipit -(2021/03/05(Fri) 22:51:42)
    こんばんは〜

    No11296に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > >真偽や賛否はともかく、カントの言いたかったこと<
    > っていうところがpipitさまにあるからわたしここにきやすいのかも。<
    > pipitさま、お邪魔しま〜す。<

    悪魔ちゃんと話すのはとてもおもしろいよ、いつもありがとう。
    この前も、新鮮な発想で面白かったな〜
    相手が自分に自らを示してるなんて発想、教えてくれてありがとう!


    > ニーチェって、「客観的に妥当」っていうことをだいじにしてるようにわたしには見えるんだけど、<

    そういう印象は、わたしはないけどなぁ(^◇^;)
    実は、みたいな?
    実はそうやった、なら、おもしろいけど


    >カントはどういう意味で「客観」っていう語をつかってるのかしら?
    >
    > いつも聞いてばっかでごめんね。
    > 気が向いたときでいいよ。<

    いつも楽しいし、勉強にならなかった覚えがないから、こちらこそ気にしないでね。

    ただ、、、悪魔ちゃんは難しいところ聞くんだよ〜

    ごめん、カントの、はまだ勉強中で正確にはわからないんだけど、
    今の私としては、客観とは『主観抜きを仮定して描かれる象』かなぁ。難しい。

    岩井拓朗 さんと言う方の
    『客観的世界を経験するとはどういうことか ―『純粋理性批判』第二類推についての考察―』
    という論文があるんだけど、

    //philosophy-japan.org/wpdata/wp-content/uploads/2016/05/b0c506bdaa5854a7f66c074cbfee5018.pdf

    はじめに、で、
    『『純粋理性批判(以下『批判』)』でカントは私たちが知覚に基づいて行う認識活動を「経験(Erfahrung)」と 呼び、それが客観性に関与することを強調する1 。そして彼はそうした経験の成立条件を考察している。では カントはこうした考察によって何を明らかにしようとしているのか。
    P・F・ストローソンはカントの狙いが、客観的世界についての経験という考えが成立するための条件を明 らかにすることだと指摘した2 。例えば私たちは知覚を通じて、犬が移動したことや、部屋に本棚が複数ある ことなど世界に関して様々なことを知ることがある。その際に私たちは、自分達の知覚とは独立に存在し得る 事態を目の当たりにしたと考えるだろう。例えば自分たちが見ていなくても犬は移動したと考えるのであり、 私たちは自分達が客観的なものを経験したと考えるのである。カントはこうした理解の成立条件を考察してい るというのがストローソンの指摘である。』
    という岩井さんの文章が載ってるんだけど、

    それから、もう少し後に、
    『主体は客観的な世界を経験することにおいて、単に世界に対応した何 らかの表象を手にしているだけでなく、そうした表象が客観的なもの、つまり自分が知覚しなくても存在した であろうようなものに関わっていることの理解に到達する。』
    とかも、今のわたしの客観のイメージと似てる感じがしてます。

    あとは、共有の可能性を備え持つもの、かなあ、客観のイメージ

    ちゃんとわからなくてごめん!
    機会があったら、客観を意識してカントの文章を読んでみるね
    おやすみ〜(^ ^)☆彡
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■11296 / inTopicNo.27)  Re[44]: コトバ
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/03/05(Fri) 18:46:07)
    >真偽や賛否はともかく、カントの言いたかったこと<
    っていうところがpipitさまにあるからわたしここにきやすいのかも。

    pipitさま、お邪魔しま〜す。

    ニーチェって、「客観的に妥当」っていうことをだいじにしてるようにわたしには見えるんだけど、カントはどういう意味で「客観」っていう語をつかってるのかしら?

    いつも聞いてばっかでごめんね。
    気が向いたときでいいよ。


引用返信/返信 削除キー/
■11294 / inTopicNo.28)  コトバ
□投稿者/ pipit -(2021/03/05(Fri) 18:20:52)
    まあ、勝手に思うことですが、

    カントの、単語の選び方などの言語センス?はかなり独特で

    本人はそのつもりないんだろうけど、周りには伝わりにくいんじゃないかなーと思いました。

    多分、カント本人は、めっちゃ伝えたいと思ってるとは思うんだけど。。。

    と妄想してみました。

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■11293 / inTopicNo.29)  論理学は分析論と弁証論に区分される
□投稿者/ pipit -(2021/03/05(Fri) 18:03:26)
    B87あたりの英訳です。
    中山先生本では2巻のp37
    『第四節 超越論的な論理学は超越論的な分析論と弁証論に区分される』の箇所です。
    分析論(真理の論理学)に@、弁証論(仮象の論理学)にAの記号を挿入しておきます。

    IV. Of the Division of Transcendental Logic into Transcendental Analytic and Dialectic.

    (略)

    @That part of transcendental logic, then, which treats of the elements of pure cognition of the understanding,
    and of the principles without which no object at all can be thought,
    is transcendental analytic, and at the same time a logic of truth.

    (略)

    @→ANow, as it ought properly to be only a canon for judging of the empirical use of the understanding,
    this kind of logic is misused when we seek to employ it as an organon of the universal and unlimited exercise of the
    tanding,
    and attempt with the pure understanding alone to judge synthetically,
    affirm, and determine respecting objects in general.
    In this case the exercise of the pure understanding becomes dialectical.

    AThe second part of our transcendental logic must therefore be a critique of dialectical illusion,
    and this critique we shall term transcendental dialectic(略) as a critique of understanding and reason in regard to their hyperphysical use.

    This critique will expose the groundless nature of the pretensions of these two faculties,
    and invalidate their claims to the discovery and enlargement of our cognitions merely by means of transcendental principles,
    and show that the proper employment of these faculties is to test the judgements made by the pure understanding,
    and to guard it from sophistical delusion.



    最後らへんの、two faculties は、悟性(知性)と理性のことを指してると思っています。
    中山先生は、『知性と理性』と訳されています。
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■11292 / inTopicNo.30)  Re[41]: 試金石
□投稿者/ pipit -(2021/03/05(Fri) 17:03:22)
    前に本文や、解説読んでても、

    基準(カノン)であって、道具(オルガノン)ではない、などの文章の意味がわからなかったんですけど、
    真偽や賛否はともかく、カントの言いたかったことがようやく私の中で輪郭持ち始めた感じです(^^;;
引用返信/返信 削除キー/
■11291 / inTopicNo.31)  試金石
□投稿者/ pipit -(2021/03/05(Fri) 16:59:01)
    カントの純粋理性批判には、時々『試金石』という単語が登場します。

    今の段階での私見書きます。

    論理学を、@分析論とA弁証論に分けて論述して、

    @【分析論では、(客観に妥当するという意味での)認識の資格を備えてるか否かを見分けるための『試金石』を見出すことを目的とする。
    この『試金石』は、用途とすれば、《基準》ということ。そのことから、分析論は『真理(認識と対象の一致)の論理学』とも言える。】

    A【本来《基準》である『試金石』を、《道具》として誤用するもの(に対しての批判をも含め)を、カントは弁証論と名づける。カント的弁証論は『仮象(まやかし、認識と対象の不一致)の論理学』と言える。】

    ここらへんの記述の英訳を後でコピペします。

    『試金石』をwikiで調べました。参考に抜粋引用します。

    『試金石(しきんせき)とは、金の品質を計るために用いられる主に黒色の石英質の鉱石の別称。一般的には、緻密な粘板岩であり碁石などの材料として用いられる那智黒石を指す[1]。

    使用方法

    試験標本と、金品位が既知である手札金・手本金と呼ばれる金純度が異なる指標となる金の棒を数本石の上にこすり線を描き、その色を比較する。金自体は、王水と呼ばれる硝酸と塩酸の混合物でのみ常温で溶解し、単独の酸には溶解しない。その一方銀や銅といった他の不純物は濃硝酸でも溶ける。この違いを利用して、金の純度をはかる。さらに詳細に測る場合は微量の濃硝酸で条痕を洗い、残り具合を見て判断することもある。

    熟練者であれば%(パーセント)オーダーの品位を鑑定することが可能であり、実際に江戸時代の金座で鑑定を担当した役方(やくがた)による鑑定品位は、現在の近代的化学分析による分析値とほとんど一致している[2]。

    前述のような特徴から簡便に検査が行えるため、現在においても簡易試験用に用いられることがある。』


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■11289 / inTopicNo.32)  Re[29]: 超越論的論理学!知性の働き
□投稿者/ pipit -(2021/03/04(Thu) 23:58:17)
    カント的知性の復習

    No11121に返信(pipitさんの記事)
    > まずは、一般論理学と超越論的論理学の区別を、自分の中ではっきりと理解したいのですが、そもそも、論理学って?で、カントの定義としては、
    > 『論理学は知性一般の規則の学である。』中山先生訳『純粋理性批判2』p20より引用
    > とありました。
    >
    > ではでは、カントにとっての知性って、なにもの?から読書をはじめてみます。
    >
    > (カントの文章)中山元先生訳。中山先生による補注[]は省略してみます。
    >
    > B93あたり。『純粋理性批判2』p50〜
    > 『すべての直観は、感覚的なものであって、触発によって生まれるが、
    > 概念は機能(フンクツィオン)によって生まれる。
    > わたしがこの〈機能〉という語で意味しているものは、心に思い描かれたさまざまな像を一つの共通の像のもとに秩序づける行為の統一的な作用のことである。
    > だから、感覚的な直観作用が印象の受容性に根拠づけられているように、概念の営みは、思考の自発性に根拠づけられているのである。
    > 知性はこれらの概念を、ただ判断するために使用することができる。
    > ところで直観を除くと、心に思い描かれたいかなる像も、対象に直接かかわるものではない。
    > これと同じように概念もまた、対象と直接にかかわることはない。
    > 概念が直接に関係するのは、対象についての像であり、これは対象とは異なるものである。
    > だから判断とは、対象についての間接的な認識であり、対象の像についての像なのである。
    > (略)
    > このようにすべての判断は、わたしたちのさまざまな像を統一する働きをする。
    > まず対象と直接にかかわる像が存在し、その上位に、その像とそのほかのさまざまな像を含む高次の像があり、これが対象を認識するために利用される。この高次の像において、ほかのさまざまな可能的な認識が、一つにまとめられる。
    >  ところでわたしたちは、知性のすべての振舞いを結局のところは判断とみなすことができる。
    > だから知性とはそもそも判断を下す能力と考えることができる。
    > すでに述べたように知性とは、思考する能力だからである。
    > 思考とは、概念によって認識する行為である。
    > (略)』

    おやすみなさーい (^^) ☆彡
引用返信/返信 削除キー/
■11288 / inTopicNo.33)  Re[39]: 構成
□投稿者/ pipit -(2021/03/04(Thu) 23:45:19)
    No11287に返信(pipitさんの記事)
    > 超越論的な原理論は、超越論的な感性論と超越論的な論理学に分別される。
    >
    > 超越論的な論理学は、分析論と弁証論に分別される。
    >
    > 分析論は、概念の分析論と、原則の分析論に分別される。<

    んーなるほど。

    カントにとっては、一般論理学を
    >General logic, then, resolves the whole formal business of understanding and reason into its elements, and exhibits them as principles of all logical judging of our cognitions. <
    知性の動き方の形式を各要素に分解分析した学ととらえたように、

    対象に人間がアプリオリに関わる領域での、内容を切り捨てない、知性の機能の形式の分解分析が、超越論的論理学の中の『分析論』で、その中でのカテゴリー(純粋悟性概念)の〈発見〉とその提示が、『概念の分析論』ということかなと思いました。

    『概念の分析論』と名付けてるけど、何かの概念を分析するということではなく、知性という能力そのものを分析することを目指す、とありますね。
    B91あたり。

    By the term Analytic of Conceptions, (略)I mean (略)dissection of the faculty of understanding itself, (略)We shall therefore follow up the pure conceptions even to their germs and beginnings in the human understanding, in which they lie, until they are developed on occasions presented by experience, (略)

    知性の機能に内蔵されている?概念たちを分別してみるんだね。

    変な略し方してるかもなので、略なしバージョンもコピペします。
    B91あたり?

    By the term Analytic of Conceptions, I do not understand the analysis of these, or the usual process in philosophical investigations of dissecting the conceptions which present themselves, according to their content, and so making them clear; but I mean the hitherto little attempted dissection of the faculty of understanding itself, in order to investigate the possibility of conceptions a priori, by looking for them in the understanding alone, as their birthplace, and analysing the pure use of this faculty. For this is the proper duty of a transcendental philosophy; what remains is the logical treatment of the conceptions in philosophy in general. We shall therefore follow up the pure conceptions even to their germs and beginnings in the human understanding, in which they lie, until they are developed on occasions presented by experience, and, freed by the same understanding from the empirical conditions attaching to them, are set forth in their unalloyed purity.

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■11287 / inTopicNo.34)  構成
□投稿者/ pipit -(2021/03/04(Thu) 23:03:26)
    超越論的な原理論は、超越論的な感性論と超越論的な論理学に分別される。

    超越論的な論理学は、分析論と弁証論に分別される。

    分析論は、概念の分析論と、原則の分析論に分別される。


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■11220 / inTopicNo.35)  Re[37]: 英訳文
□投稿者/ pipit -(2021/02/27(Sat) 10:59:37)
    No11219
    あ、投稿できますね(^O^)
    時々投稿を拒否されるのですけど、禁止ワードか、分量が多すぎるのか(パニチェさん、どうぞ気になさらないでください!なるがままで^_^)

    この英訳は、多分150年くらい前に出版されたものかな?
    J.M.D.Meiklejohnさんによる英訳です。

    11219の訳で、おもしろく感じたのは、the whole formal business of understanding and reason という箇所で、悟性と理性のすべての[フォーマル ビジネス]という単語で訳されてたところです。

    中山元先生は、『知性と理性による認識の〈形式〉にかかわるすべての作業』と日訳されてて、作業がビジネスに対応するところかなあと思ったのですが、悟性と理性がビジネスしてる感じで、なんか微笑ましくなりました。せっせ、せっせ、みたいな。
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■11219 / inTopicNo.36)  英訳文
□投稿者/ pipit -(2021/02/27(Sat) 10:45:37)
    General logic, then, resolves the whole formal business of understanding and reason into its elements, and exhibits them as principles of all logical judging of our cognitions.

    ちょっと試しに投稿させてもらいますm(_ _)m
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