□投稿者/ pipit -(2021/02/20(Sat) 09:06:42)
| まずは、一般論理学と超越論的論理学の区別を、自分の中ではっきりと理解したいのですが、そもそも、論理学って?で、カントの定義としては、 『論理学は知性一般の規則の学である。』中山先生訳『純粋理性批判2』p20より引用 とありました。
ではでは、カントにとっての知性って、なにもの?から読書をはじめてみます。
(カントの文章)中山元先生訳。中山先生による補注[]は省略してみます。
B93あたり。『純粋理性批判2』p50〜 『すべての直観は、感覚的なものであって、触発によって生まれるが、 概念は機能(フンクツィオン)によって生まれる。 わたしがこの〈機能〉という語で意味しているものは、心に思い描かれたさまざまな像を一つの共通の像のもとに秩序づける行為の統一的な作用のことである。 だから、感覚的な直観作用が印象の受容性に根拠づけられているように、概念の営みは、思考の自発性に根拠づけられているのである。 知性はこれらの概念を、ただ判断するために使用することができる。 ところで直観を除くと、心に思い描かれたいかなる像も、対象に直接かかわるものではない。 これと同じように概念もまた、対象と直接にかかわることはない。 概念が直接に関係するのは、対象についての像であり、これは対象とは異なるものである。 だから判断とは、対象についての間接的な認識であり、対象の像についての像なのである。 (略) このようにすべての判断は、わたしたちのさまざまな像を統一する働きをする。 まず対象と直接にかかわる像が存在し、その上位に、その像とそのほかのさまざまな像を含む高次の像があり、これが対象を認識するために利用される。この高次の像において、ほかのさまざまな可能的な認識が、一つにまとめられる。 ところでわたしたちは、知性のすべての振舞いを結局のところは判断とみなすことができる。 だから知性とはそもそも判断を下す能力と考えることができる。 すでに述べたように知性とは、思考する能力だからである。 思考とは、概念によって認識する行為である。 (略)』
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