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■11218 / inTopicNo.37)  一般論理学について
  
□投稿者/ pipit -(2021/02/27(Sat) 10:18:28)
    おはようございます。フローラさんの体調がはやくよくなりますように



    B85あたりの

    (pipitの偏見入った解釈)
    一般論理学は、知性と理性による働きのうちの形式面ををさまざまな要素に分解して、人間の認識の論理的な判断の要素として提示する。
    そのような論理学は、【論理学の分析論】と呼べる。

    しかし、論理形式が論理法則と一致してようが、内容は捨てられてるものなので、認識の素材(内容)についての(客観的な)真理を示すには不十分だ。

    このことを考慮せずに、一般論理学を道具として、対象認識を獲得しようとする動きが、歴史を見るに、あった。
    つまり、(消極的)基準にすぎないものを、用途に合っていない、(積極的)道具として使われてしまう。

    そのように使われてしまった一般論理学は、【論理学の弁証論】と呼ばれる。

    (pipitの感想)
    カントの中では、弁証論は、詭弁を駆使するソフィストの論理学として捉えてるみたい、、、と感想書いたら、B86で、そういうことについて述べてるみたい。
    また見ていこう。
    私的感想から言えば、カント的弁証論の意味は、「二枚舌」や、「両舌」をイメージして読み進めばいいんじゃないかな、と思っています。

    カントは論理学を、【分析論】と【弁証論】に分けて考察していくようです。
    一般論理学に、分析論と弁証論があるように、
    超越論的論理学も、【分析論】と【弁証論】に分かれる、と。
    分析論が、カテゴリー、
    弁証論が、二律背反の話題みたいですね。

引用返信/返信 削除キー/
■11210 / inTopicNo.38)  一般論理学について
□投稿者/ pipit -(2021/02/26(Fri) 21:06:08)
    B82〜B84あたり

    (pipitの感想)

    真理とは認識がその対象と一致することである、と定義なされた場合、
    真理の《普遍的で確実な》基準を内容(素材)面から規定することは、自己矛盾となる。(Aにのみ当てはまる素材はBに当てはまらないからね)
    ということで、内容を無視するとなると、形式面から真理の《普遍的で確実な》基準を提示するしかない。

    だが、(形式を精査する)一般論理学だけでは、基準として十全ではない。
    (カントのこの論述内では、真理は【対象と】認識の一致という意味が与えられてるからね)

    なぜなら、一般論理学の論理的形式に適合している認識でも(合理論みたいな考え方のことかな?)、対象にかんしては矛盾することがあり得るから。

    一般論理学は、真理の必要条件であるが、消極的な条件であり、その条件を超えることができない。

    一般論理学には、形式にかかわる誤謬ではなく、内容にかかわる誤謬を発見できるような試金石は存在しない。

    ・・・続く





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■11183 / inTopicNo.39)  超越論的論理学
□投稿者/ pipit -(2021/02/24(Wed) 17:41:49)
    みなさまこんばんは。

    No11121で、カント的論理学の定義を読みました。
    論理学は知性一般の規則の学であり、カントにとっては、知性とは概念を使って判断する能力ですね。

    今、私は、一般論理学と超越論的論理学の区別を理解しようとしてます。

    ・・・・・・・・

    引用するために入力してたのですが、どうしても引用過多になりそうで、著作権侵害の心配があるので、思い切って引用なしで書き込みしようかと思いはじめています。

    読む箇所は、『純粋理性批判2』カント、中山元先生訳、p25.26、 カントの文章で言えばB80あたり(訳本の下ページに対応ページ載ってるのですが、ずれてる可能性もあるのであたりつけときます)

    (pipitの感想)
    (カントの頭にある)一般論理学は認識の内容を切り捨て、認識と客観との関係をすべて無視して、認識相互の関係の論理的な形式にのみ言及する。
    多分、アリストテレスの三段論法とかのことなどが、カントの頭の中にあるのかな?

    それに対して、超越論的論理学とは、認識のすべての内容を切り捨てない、認識の起源も考察する、論理学になる、と言ってるね。

    カント的には、論理学とは知性の規則の学で、
    一般論理学は内容に関わらず、例えば概念と概念との関係的動き方のみを考察対象とし、
    超越論的論理学は、対象、に、アプリオリに関わる、対象に対しての知性の規則、を考察するのかな。

    まだわからんけど、前よりははっきりした気がするな。

引用返信/返信 削除キー/
■11172 / inTopicNo.40)  Re[32]: pipitさまへ
□投稿者/ pipit -(2021/02/23(Tue) 19:28:48)
    悪魔ちゃんこんばんは。

    では、とりあえず

    > W石川先生(文康先生、輝吉先生)の本にそれぞれ、別構想があったと載ってた気がするけど、また読めるときに探してみます。<

    この部分の引用はやめておきます
引用返信/返信 削除キー/
■11171 / inTopicNo.41)  Re[31]: pipitさまへ
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/02/23(Tue) 19:14:57)
    pipitさまへ、いつもお世話になってま〜す。

    pipitさまは「カントのが書いた書物の訳本」持ってるよね(わたし持ってないけど、フッサールやメルポンのは持ってるけど)。だったら、「それ」からpipitさまが考えた方がいいんじゃないの?

    わたし思うんのね。〈解説書〉って、「カントの」じゃないと思う。〈カント著を読んだ人の〉になっちゃてるってるって思ってるのね。なにも〈それ〉から「カントの」を理解する必要はないと思う。

    わたしpipitさまが紹介してくれた、【中山元先生訳の『純粋理性批判』のところ】だけはわかりやすかったで〜す。


引用返信/返信 削除キー/
■11166 / inTopicNo.42)  Re[30]: 『純粋理性批判』の構成
□投稿者/ pipit -(2021/02/23(Tue) 16:42:34)
    疲れたので、言いますヨ

    ややこしすぎやないですか 
引用返信/返信 削除キー/
■11165 / inTopicNo.43)  Re[29]: 『純粋理性批判』の構成
□投稿者/ pipit -(2021/02/23(Tue) 16:37:25)
    No11154に返信(pipitさんの記事)
    > 今朝思い出したのですが、
    >
    > そういえば、カントはアンチノミー(二律背反)論を最初に持ってくる構想も持ってたそうなんですよ。
    >
    > 解説本を読み直す前に、
    > ざくっとpipitの勝手なイメージで書きますね。
    >
    >
    > @まず、理性のエラー現場(二律背反)を現行犯逮捕する。
    >
    > A次に、なぜ、理性がエラーに陥いったのか捜査する。
    >
    > B捜査の結果、超越論的真理を外していたからという説を主張する。
    >
    > こういう構想の『純粋理性批判』もあり得たのかなー。

    休みちゃうかった、つかれたー

    疲れた頭で思うこと書きます。

    二律背反に陥ってる理性が、ある論理道具を使っているぞ

    ふむふむ、その道具、、、感性によって現れたものに使うためのもんなんやで。

    なるほど、でも、これとはまた別の局面で

    理念(理性が作ったもの)の使い道もある、ということになるのかな




引用返信/返信 削除キー/
■11154 / inTopicNo.44)  『純粋理性批判』の構成
□投稿者/ pipit -(2021/02/22(Mon) 18:05:27)
    今朝思い出したのですが、

    そういえば、カントはアンチノミー(二律背反)論を最初に持ってくる構想も持ってたそうなんですよ。

    解説本を読み直す前に、
    ざくっとpipitの勝手なイメージで書きますね。


    @まず、理性のエラー現場(二律背反)を現行犯逮捕する。

    A次に、なぜ、理性がエラーに陥いったのか捜査する。

    B捜査の結果、超越論的真理を外していたからという説を主張する。

    こういう構想の『純粋理性批判』もあり得たのかなー。

    W石川先生(文康先生、輝吉先生)の本にそれぞれ、別構想があったと載ってた気がするけど、また読めるときに探してみます。
引用返信/返信 削除キー/
■11122 / inTopicNo.45)  knowing itselfさんへ
□投稿者/ pipit -(2021/02/20(Sat) 09:22:35)
    knowing itselfさん、おはようございます!
    書き込みとても嬉しいです、ありがとうございます(o^^o)♪♪

    No11120に返信(knowing itselfさんの記事)
    > おはようございます。横レス失礼します。
    >
    > ■No11107に返信(pipitさんの記事)
    >
    >>わたしは、カント哲学について考えているとき、
    >>
    >>自分という世界の立法者は、自分である、というフレーズが(カント哲学に当てはまるか当てはまらないかは私にわからないけど)、浮かんできます。
    >
    > 当てはまると思います。カント哲学の屋台骨かもしれません。自由意志のもつ意味は、カントでは非常に大きいということでもあるでしょう。<

    全然、実践理性批判までたどり着けないのですが、
    それでも、チラチラ目にする『純粋理性批判』以外の文章で、そのような印象を受ける文章を目にしたりします。

    ですが、、、ちょっとカントの文章が、、、やっぱり表現がお下手なのですかねぇ(^◇^;)

    ご意見、嬉しいです。ありがとうございます(^ ^)




引用返信/返信 削除キー/
■11121 / inTopicNo.46)  超越論的論理学!知性の働き
□投稿者/ pipit -(2021/02/20(Sat) 09:06:42)
    まずは、一般論理学と超越論的論理学の区別を、自分の中ではっきりと理解したいのですが、そもそも、論理学って?で、カントの定義としては、
    『論理学は知性一般の規則の学である。』中山先生訳『純粋理性批判2』p20より引用
    とありました。

    ではでは、カントにとっての知性って、なにもの?から読書をはじめてみます。

    (カントの文章)中山元先生訳。中山先生による補注[]は省略してみます。

    B93あたり。『純粋理性批判2』p50〜
    『すべての直観は、感覚的なものであって、触発によって生まれるが、
    概念は機能(フンクツィオン)によって生まれる。
    わたしがこの〈機能〉という語で意味しているものは、心に思い描かれたさまざまな像を一つの共通の像のもとに秩序づける行為の統一的な作用のことである。
    だから、感覚的な直観作用が印象の受容性に根拠づけられているように、概念の営みは、思考の自発性に根拠づけられているのである。
    知性はこれらの概念を、ただ判断するために使用することができる。
    ところで直観を除くと、心に思い描かれたいかなる像も、対象に直接かかわるものではない。
    これと同じように概念もまた、対象と直接にかかわることはない。
    概念が直接に関係するのは、対象についての像であり、これは対象とは異なるものである。
    だから判断とは、対象についての間接的な認識であり、対象の像についての像なのである。
    (略)
    このようにすべての判断は、わたしたちのさまざまな像を統一する働きをする。
    まず対象と直接にかかわる像が存在し、その上位に、その像とそのほかのさまざまな像を含む高次の像があり、これが対象を認識するために利用される。この高次の像において、ほかのさまざまな可能的な認識が、一つにまとめられる。
     ところでわたしたちは、知性のすべての振舞いを結局のところは判断とみなすことができる。
    だから知性とはそもそも判断を下す能力と考えることができる。
    すでに述べたように知性とは、思考する能力だからである。
    思考とは、概念によって認識する行為である。
    (略)』
引用返信/返信 削除キー/
■11120 / inTopicNo.47)  Re[26]: 悪魔ちゃんへ
□投稿者/ knowing itself -(2021/02/20(Sat) 08:51:29)
    おはようございます。横レス失礼します。

    No11107に返信(pipitさんの記事)

    > わたしは、カント哲学について考えているとき、
    >
    > 自分という世界の立法者は、自分である、というフレーズが(カント哲学に当てはまるか当てはまらないかは私にわからないけど)、浮かんできます。

    当てはまると思います。カント哲学の屋台骨かもしれません。自由意志のもつ意味は、カントでは非常に大きいということでもあるでしょう。
引用返信/返信 削除キー/
■11118 / inTopicNo.48)  日記
□投稿者/ pipit -(2021/02/20(Sat) 08:00:08)
    いつもながら、『超越論的論理学』の箇所も、理解するのに苦労してます(-_-;)

    その中で、個人的に響いた文章は、

    『だから対象の概念を感覚的なものにすること、すなわち概念に直観の対象を与えることが必要であると同時に、直観を理解できるものにすること、すなわち直観の対象を概念のもとに配置することもまた必要なのである。』
    B76あたり、『純粋理性批判2』中山元先生訳、p19より引用

    です。
    本文では、純粋な認識論として記述されたものでしょうけど、
    私の心には、本文から少し離れて、実践論用の文章としてもいいなあと思いました。

    思ったことを、形にすることを目指す、ですね(^ ^)、、、あ、前半部分だけやわ〜
    後半は、、、観察、とか?! ちょっと苦しいかな(^^;;

引用返信/返信 削除キー/

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