| おはようございます。フローラさんの体調がはやくよくなりますように
B85あたりの
(pipitの偏見入った解釈) 一般論理学は、知性と理性による働きのうちの形式面ををさまざまな要素に分解して、人間の認識の論理的な判断の要素として提示する。 そのような論理学は、【論理学の分析論】と呼べる。
しかし、論理形式が論理法則と一致してようが、内容は捨てられてるものなので、認識の素材(内容)についての(客観的な)真理を示すには不十分だ。
このことを考慮せずに、一般論理学を道具として、対象認識を獲得しようとする動きが、歴史を見るに、あった。 つまり、(消極的)基準にすぎないものを、用途に合っていない、(積極的)道具として使われてしまう。
そのように使われてしまった一般論理学は、【論理学の弁証論】と呼ばれる。
(pipitの感想) カントの中では、弁証論は、詭弁を駆使するソフィストの論理学として捉えてるみたい、、、と感想書いたら、B86で、そういうことについて述べてるみたい。 また見ていこう。 私的感想から言えば、カント的弁証論の意味は、「二枚舌」や、「両舌」をイメージして読み進めばいいんじゃないかな、と思っています。
カントは論理学を、【分析論】と【弁証論】に分けて考察していくようです。 一般論理学に、分析論と弁証論があるように、 超越論的論理学も、【分析論】と【弁証論】に分かれる、と。 分析論が、カテゴリー、 弁証論が、二律背反の話題みたいですね。
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