| 前野隆司さんは、受動意識仮説を提唱しています。
『錯覚する脳 「おいしい」も「痛い」も幻想だった』のp53で以下のように書いています。 === 受動意識仮説とは、『「意識」とは「無意識下」の自律分散的・並列的・ボトムアップ的・無目的的情報処理結果を受け取り、それをあたかも自分が行ったことであるかのように幻想し、単一の自己の直列的経験として体験した後にエピソード記憶するための受動的・追従的なシステムである』というものだ。 ===
p55に、無意識下の情報処理により決定されたことを、意識はクオリアとして体験し、あたかも自分が行ったかのように勘違いする、とあり、自由意志があるように感じるのはこうした仕組みによるものと考えられています。
例で考えてみます。 柄物のTシャツを着ようか、それとも無地のTシャツにしようか迷っているとします。 外出先がどこか、着心地はどちらがどうか、、最近着ていないのはどちらかな、なども考えると思います。 最終的に無地を選んだとします。 この選択は、「自分がした選択」とされるけれども、実は無意識下での情報処理がしてくれたものを意識がクオリアとして体験したものである、というのが受動意識仮説での見解になると思います。
ここで私が考えたのは・・。 それであるなら、受動意識仮説においては自由意志の有無までは問題としなくてもいいのではないのかな、ということです。 無意識下とはいえ、(自分の)脳内が情報処理により選択しているには違いないと思うからです。
受動意識仮説そのものについては私は、自分の体験的理解としても納得がいきます。
ここから、前野さんの受動意識仮説を離れて、私自身の見解として考えてみます。 自由意志の有無についてのそれぞれの見解は、解釈の相違によりどちらとも語れる疑似問題なのだろうな、と思います。
その上でですが。 あくまで自分なりに、世界の実相として考えた場合、自由意志という概念を使用して語るなら、それは「無い」として語る使い方が相応しいと考えます。
「私」とは何だろう?と考えた時、身体と精神を持った「私」と言われるものは、実体としては在らず、世界の自然物や人との関係性の中に溶け込んでいるものだと思うのです。 「自分の脳」といわれるものも、「自分の」と名称をつけているだけのものです。
前野さんの受動意識仮説の、エピソード記憶を保持するための意識の働きがもし人間になければ、ミミズなどの生物と同じく、刺激に都度反応するだけの生き物だったのかもしれません。 しかし、人間は高度に発達した脳、記憶と社会生活を持つため、「私」という自我(記憶)とあり、より良い生存状態でいられるようにクオリアとしての意志(心)を実感できるように進化してきたのだろう、と考えています。
自由意志が無い、ということは社会生活で到底受け入れられる見解ではないです。 個人の責任に関わってきますから。 しかし、これから科学的にこのことについて論証されていき、社会制度や倫理との兼ね合いで上手く融合されたしたら、私たちの意識(この場合の意識は、見解とか考え方といった意味合いです)も、競争原理から善い意味で離れた緩やかなものになるように思えます。
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