□投稿者/ みのり -(2023/09/07(Thu) 08:38:45)
| 2023/09/07(Thu) 09:09:47 編集(投稿者)
■No32891に返信(時さんの記事)
> 後は、蛇足なりますが、原始の中では「私が存在するというのは、妄想です」という表現もされているようです。
薄っすらとした記憶をたどり、今、ネットで調べてみてなのですが、スッタニパータの第五章にある記述がそれに相当しますか?
> 現世では、例えば何かの犯罪を起こした人がいて、通常はその人の責任という意味で裁かれますね。でも、この世の本質的には、自己選択による行為の結果についての責任は、ないでしょう。なぜならば、そこにあったはずの自由意志の存在が幻想だからですね。つまりは、本質的には、人に人は裁けません。勿論、その犯罪自体も起こっていませんね。まぁ、通常の二元の世界観では、当然のごとく犯罪が起こったと分別認識された場合に、その人物が犯罪者として扱われて裁かれるのは当たり前というのも、十分に承知していますが。ですので、人に人は裁けるのか?といった問いが立つのでしょうから^^
私というものは実体として存在しているのではない、としても、実際、犯罪し放題でいいわけはないですものね。 被害者はもちろん苦しむし、加害者も事件を起こすに至るまでに様々な意味で恵まれた環境にはいないことが多いですから、裁きは司法にお任せするとしても、一言でいうなら「生まれてきてよかった」と誰もがじんわりと思えるような世界になるといいなと思います。 それにより犯罪も減少するのではないかな、と。 甘いかもですがそんなふうに考えています。
> おー、現代版のアドヴァイタですか。知りませんでした(笑)道理で、アドヴァイタの境地でのお話も通じやすいはずですね^^ ご存じだと思いますが、普通は通じませんよね(笑)仏教関係は、どのあたりからどのあたりまで学ばれたのでしょうか?
仏教思想の流れ的な本を二冊ほど読んだのと、原始仏典も以前一通りは読みましたが、今はどちらも手元にはありません。 宗教、哲学などの本を手元にたくさん置いておくことが難しい環境にいます。 以前、家族に見られて訝しがられてしまい、読んだら売ったり捨ててしまうこともあるんです。 なので、原始仏典を読みたいと思う時は、ネットで閲覧させてもらいます。 知識としては全体にうっすらとしかありません。
今、ふと思ったのですが、電子書籍だと場所を取らなくていいのかもですね。 時さんは利用されていますか?
なんかこんなこと書くと可哀そうな人みたいですけど(笑)、家族が本をまったく読まないので、異質(頭だいじょうぶ? みたいに)、気持ち悪いみたいに思うんでしょうね。(笑) でも、世間の普通ってそうなんだと思うんですね。
> 私の場合には、今から思うとそのアドヴァイタの境地を知り、ホゲホゲーっと問題のない世界を散策していた時に、原始に詳しい人との出会いがあり、こう言われました。「時さん、そこにはまだ無知が存在しているのですよ」と。・・・問題がないという認識の世界観のはずなのに、まだ何かありそうだなとの予感が起こり、その興味の触手が仏教という道の世界に向いたのですね。(笑)そこで教わった事がもう一つ。「時さん、大乗と原始は違うものですよ」と。。。まぁ、これで原始に関わることになりました。^^そして現在では、何の事を無知だと仰っていたのか、私なり理解できたつもりでいます。一言で「なるほど」です。
存在している無知ってなんでしょう? よかったら教えていただけますか。
> 一応は、アドヴァイタの境地を理解する者同士だと思いますので、後はなにがしかの確認作業も必要ないのかもしれませんね。でも将来的に何かお尋ねすることもあるかもしれません。その際には宜しくお願いします。m(__)m
こちらこそです。_(._.)_
あ、でも、アドヴァイタと言っても私の場合、現代版のだけですし、境地の理解も知的理解だけで実際にいつでもその境地にいるのでもないです。 というのを付け加えます(;^_^A
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