□投稿者/ 時 -(2023/09/02(Sat) 12:50:56)
| みのりさへ。こんにちは。レスをありがとうございます。
No32800 > 『錯覚する脳 「おいしい」も「痛い」も幻想だった』を私は読んでいたので、今回、投稿にしてみたのですが、受動意識仮説そのものについては、この本より前に出ているという『脳はなぜ「心」を作ったのか─「私」の謎を解く受動意識仮説』が詳しいそうです。 > もしまだ売っていたら、こちらも読んでみようかなと思っています。
> 自由意志について例を出して書かれている部分を取り上げてみますね。 > p55になります。
ありがとうございます。^^ でも、お手数をおかけしてすみません。m(__)m
> 「よーいドン」という声を聞き私たちが走り出す時、音を聞いた意識が「走りだそう」と決めたのではなく、無意識下の情報処理の結果、「走りだそう」と決定され、意識はその結果をクオリアとして体験し、あたかも自分が行ったように勘違いするシステムに過ぎないと考える。と、あります。
なるほど。。多分、ここで”私が”走る、走ったという錯覚(勘違い)が起きるという事なのでしょうね。
> 能動的な意識だと考えると、「よーいドン」を聞き、意志が走ると決定し脳と筋肉に情報が伝わる、になります。
こちらは、サーチライトモデル(意識起動型)と表現されていたでしょうか。関係ないお話ですが、私はこの手の言葉を覚えるのがあまり得意ではないのですね(笑)
> 時さんが別トピに書かれていた、反射的にボールを避けるでしたっけ、それと受動意識仮説で言われる仕組み的は、仕組みとしては同じなのかもしれないですね。 > 私はそんなふうに感じます。
はい。私も同じだと思いました。実際には、無意識下での命令からの結果としての行為でしょうか。その後に、自意識がその各クオリアを体験として感知して自らが行ったと錯覚するというようなお話ですね。
> つまり、無意識下での情報処理により身体が動く指令がなされ、意識はそれをクオリアとして体験する、ということに前野さんの説だとなるのだと思います。
はい、そうですね。そのような説だと思います。そしてそのクオリアも意識も幻想だという事のようですね。となると・・無意識下での情報処理により身体が動く指令が出されて身体が動いているだけの様に思えます。(笑)でもここで、自意識自体が幻想だとなると、読み手によっては、大きな不安を感じる人と大きな安心を感じる人に分かれそうですね。
> ありがとうございます。^^ > せっかくなのですが、お話できるようなことがないですし、ロムが楽しいのでそうします。
了解しました。^^ また何かの話題の時に、一緒にお話していただければと思います。m(__)m
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