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No32887 の記事


■32887 / )  時さんへ
□投稿者/ みのり -(2023/09/06(Wed) 08:05:09)
    2023/09/06(Wed) 08:10:52 編集(投稿者)
    時さん、おはようございます。レスありがとうございます。

    No32872に返信(時さんの記事)
    > 2023/09/05(Tue) 17:23:29 編集(投稿者)
    > 2023/09/05(Tue) 14:38:56 編集(投稿者)


    >>原始仏教をされている方で、自由意志は存在しないと感じられる方は珍しいように感じるのですが、時さんは時さん以外の原始仏教の方で自由意志は存在しないと考えられる方に会ったことはありますか?
    >
    > 過去に原始”だけ”をされている方にはお会いしたことは在りませんが、原始に詳しい方との出会いは、短期間ではありましたがありました。そしてその方は、自由意志については語られていませんでしたね。ですので、自由意志は存在しないという考えの方との出会いはありませんでした。

    そうなんですね。ありがとうございます。

    >>また、時さんご自身、原始仏教と自由意志の無さとの整合性をどのように考えられますか?
    >
    > うーん、私自身は、原始仏教を学ぶという事と自由意志の有無を考察した事は別時期ですので、同時進行で考えたことはないのですね。
    >
    > ですが、今考えてみますと、原始には「色は、あなた方のものではないので、捨てなさい。」色に続いて、受、想、行、識の「これら五蘊は、全てあなた方のものではないので捨てなさい」と言う、五蘊非我という教えがあるのですね。ですので、ここで非我という事を学びます。例えば、この中の行(身行・口行・意行)も私のものではないので、(仏典での趣旨内容とは違う例になりますが)身行(走り出すという行動)意行(頑張るぞーという思い)口行(3番で悔しーと声を発する)等の三行は、私のものではありませんね。私ではないが、走り出しますし、悔しいという思いも起こります。。。ここに自由意志はあるとはいえなさそうです。

    五蘊非我、そうですよね。
    私も、「自由意志というものは無いのだ」という話を聞いた時、最初は訝しんだのですが、自分なりに考察して納得した後に、仏教の五蘊非我という言葉で説明されている内容というのと、現代人が語る自由意志の無さというのは、もしや重なる部分があるのではないか、と思ったことがありました。

    > 後は、原始の中に「同じように教えていても、なぜ慧解脱に達する弟子と、心解脱に達する弟子とに分かれるのでしょうか?」と、教える側の弟子が仏陀に質問した時に「それは、機根の違いを理由として説きます」と仏陀が答えるというシーンがあるのですね。機根とは(理解する度量・器・性格)の事ですので、この機根も、自由意志での選択は不可能でしょう。つまりは、自由な意志で自らの度量や性格等を選択、決定できそうにありませんね。これは、自らの自由意志での選択により、慧解脱と心解脱を選択できないことを意味します。同じ教えを耳にしても行きついた先が、慧解脱か心解脱かの違があるというのは、そこに修行者自身の自由意志による選択はなさそうだという事です。

    なるほどと思います。

    > 後は、根本的なことですが、非我故に無我というイメージがあるのですが、ここは同じ語源を訳者により非我と無我に使い分けられているようですので、実際のところは分かりようがないのですが、同じ語源という事で非我=無我と考えると、無我・・私がない・・私がないのならば、私の自由な意志も選択もない・・と無理くりですが、一応の筋は通りそうですかね。ですが、原始では「私は存在しません。ありませんよ」とは説かれていませんので注意が必要ですね。何故説かれていないのかというと、それ(私による自由意志の有無)が涅槃や解脱に役に立たないことだからで、原始の中では無記とされているようです。

    ご説明、ありがとうございます。

    > みのりさんのご指摘により、原始と自由意志のなさという事を、その整合性という意味で考えてみましたが、無理くりのところはありそうですが、一応の整合性は取ろうと思えば取れそうだと感じますが。

    理論的な意味合いでの整合性について説明いただいて、時さんのお考えを理解できたと思います。

    >>想像で思うのは、原始仏教を支持される方がもし「自由意志は無いのかも」と感じても、それだと「じゃ何しててもいいんだね」みたいに人はなりそうなので表明しないだろうな、と。
    >
    > はい。通常はそのような表明はしないと思います。仮にですが、Aがゴリゴリの原始仏教の僧侶であり原始だけを教える立場で、自由意志はないという強固な偏った見解の持ち主だったのならば、という事を考えてみると、これはもはや原始の理解、実践者ではありませんので、仏典内容を語れません。語れないはずなのに語っているという事で、偽物と判断されるでしょう。私ならば、Aの前から無言で立ち去りますね(笑)
    >
    > 私の立ち位置というのは、僧侶でもなければ教える立場でもなく、名声を得たいわけでもなく、マウントをとりたいという自己顕示欲があるわけでもなく、お賽銭という形でもある種のお金儲けを企んでいるわけでもありませんで、ただ単純に、仏陀は何を言っていたのかな?という事を知りたかったので、原始を学んだだけの普通の立ち位置なのですね。ですので、人生哲学もやりますし、いろいろなことを学んできたつもりです。
    >
    > と言うわけで、もしも仮に、時が「自由意志はないと思うんですよねー」と言ったとして、お相手が「じゃ、何をやってもいいんですよねー」と言ったのであれば「いいですよー♪自由意志がないといっているのに、あなたはその自由意志で何かをしようと意志するのですねー♪」で、お終いでしょ?もっと単純に、時が「自由意志はないと思うんですよねー」と言ったとして、お相手が「じゃ、何をやってもいいんですよねー」と言ったのであれば「勿論、いいですよー♪」でお終いです。
    >
    > 要は、機根の相違。自らの選択権のない機根の相違だろうと思います。つまりは、何かを行う際には、それが可能な機根の持ち主なのかどうか?という事で、そこに自身の自由意志での選択権はなさそうですね。(笑)

    なるほど、と読ませていただきました。^^

    > そしてここでいう自由意志での選択のできない「機根」は、現代でいうのであれば動植物の各細胞に組み込まれた遺伝子によるものではないのかな?そしてこの遺伝子は、あるとき自然発生的にこの地球上に生じたものであり受け継がれてきたもので、それは太古の昔、その遺伝子を含んだ細胞というものや周りの環境をも生み出した自然の事を、全ての根源、源泉である「神」と、畏怖や畏敬の念をこめて名付けたのでは無いのかな?といった感じで今のところ考えています。(笑)

    > No32847
    > には、その辺りの事を書いていたつもりなのですね。(笑)
    > 思考実験としての、水槽の脳や世界5分前仮説がOKならば、遺伝子環境仮説もOKだと思ったのですね(笑)

    一人の人間が生まれてくるまでに何人ぐらいなのだろう・・見当がつかないくらいの御先祖がいてその遺伝子を受け継いできているわけで、どういう遺伝子を選択するか自分では決められないですものね。
    >
    > 仮に真実には自由意志がないとして、では、どのように”私は”動けばよいのか?という疑問が発生するかもしれませんが、そんなことは考えずに、今まで通り、自由意志があるかの如くに選択していけばよいと思いますね。今日は天気が良いので買い物に行こう。今夜はカレーを作ろう。しまった!バスの定期券を忘れてしまった。。。等々、何ら日常生活に不具合は生じませんしね。それがあろうとなかろうと同じことになると思います。(笑)そのような意味で、今現在の時個人の見解は、どちらにも偏らずに「自由意志があろうとなかろうと同じです。」になるでしょうか(笑)

    はい、そうですよね。

    >>私は原始仏教にも詳しくはないのですが、八正道を心がけたい(それは苦しみから離れられる方法だと思うからです)と思うのです。
    >>でも、自由意志は存在しない(個別に実体として存在するものは何も無いから)と考えていて、自分なりに自分の中では、八正道とも整合性が取れると思います。
    >>リラックスしたコンデションや体調を整えることや、発言に気を付けることなど、外から内に、また逆に内から外への影響が苦しみから離れる方法になると思うからです。
    > >つまり、自由意志の有無に関わらずすることは結局は私の場合は一緒みたいです。
    >>ただ、頑張らないとという深刻さや堅苦しさみたいなのは薄れる気はします。
    >
    > 自由意志の有無に関わらずすることは結局は私の場合は一緒みたいです。というのは、上記でのお話でご理解いただけると思います。(何ら日常生活に不具合は生じませんしね。同じことになると思います。)
    >
    > 私が自由意志はないのではないかという、一応の答えにたどり着いたものが、アドバイタ(不二一元)の学びの時だったのですね。アドバイタという境地は、かなり楽になれるのですね。それを哲学的に分析してしまうと、相互理解という事で一元だ存在だ実在だと言うややこしいお話になってしまうと思うのですが、その境地には、みのりさんが仰るような、頑張らないとという深刻さや堅苦しさといった、ある種の義務感や苦しみはかなり軽減しますね。といいますか、その境地にはそれらはありません。そこから二元の通常世界に引き戻されたときに、それらの義務感や苦しみ等が再度生じやすくなりますね。しかしそれを体験していないときと比較した場合には、かなり楽な状態です。そんな風に感じています。
    >
    >>時さんが原始仏教と自由意志の無さの整合性を取られているとしたら、今、書いてみたようなことと似ていますか?
    >>それとも違う方向性からになりますか?
    >>ここを教えていただけたら嬉しいです。
    >
    > 多分ですが、みのりさんがお書きになられていることは、龍樹の空や無常観故に自由意志はないんだという事の様に感じるのですが、違うでしょうか?

    いえ、私も非二元(=ノンデュアリティ)という現代版のアドヴァイタで、「自由意志の無さ」を含めた簡単に言えば「全体性という分離の無さ」が語られているのを知り、「やはりそうか」と思ったのです。
    それはもう10年ぐらい前になると思います。
    先ほどの五蘊非我についても同じころに考えてみていました。

    > 無理くりですが、整合性という意味では、冒頭に書きましたように思います。一言で表現するならば、無我だからという事になるでしょうか。違う方向性で見るのであれば、アドバイタの世界観(自由意志もない)と原始の世界観との重なるイメージのところでの考察になりますが、古典物理学と現代物理学が同じ物理なのに違うように、やはり似て非なるものですかね。後は、ニーチェではありませんが、各人の解釈次第と言うところでしょう。
    >
    > お尋ねの事に答えられたかどうかは分かりませんので、もしも何か私の方の理解不足等がありましたら、ご指摘いただければと思います。

    自由意志は無いということについて、これまで語り合えた方というのはいなかったのでとても貴重な体験をさせていただけました。
    ありがとうございます。_(._.)_
    もし、私へも何か質問などありましたら遠慮なくされてくださいね。
    能力的な意味から答えられるかどうかはまた別になってしまいそうですが、可能な部分についてはそうします。
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