□投稿者/ みのり -(2023/09/05(Tue) 08:04:39)
| 2023/09/05(Tue) 08:22:09 編集(投稿者)
時さん、レスありがとうございます。
■No32805に返信(時さんの記事)
>>「よーいドン」という声を聞き私たちが走り出す時、音を聞いた意識が「走りだそう」と決めたのではなく、無意識下の情報処理の結果、「走りだそう」と決定され、意識はその結果をクオリアとして体験し、あたかも自分が行ったように勘違いするシステムに過ぎないと考える。と、あります。 > > なるほど。。多分、ここで”私が”走る、走ったという錯覚(勘違い)が起きるという事なのでしょうね。
「よーいドン」を聞き、自分の意志が身体を動かす指令を出した、と感じるのですね。 意志というのが意識の中に含まれているかのように、日常感覚だと感じる人も多いでしょうし、私も以前はそんなふうに感じていたと思います。
>>能動的な意識だと考えると、「よーいドン」を聞き、意志が走ると決定し脳と筋肉に情報が伝わる、になります。 > > こちらは、サーチライトモデル(意識起動型)と表現されていたでしょうか。関係ないお話ですが、私はこの手の言葉を覚えるのがあまり得意ではないのですね(笑)
サーチライトモデルってはじめて聞きました。ありがとうございます。
>>時さんが別トピに書かれていた、反射的にボールを避けるでしたっけ、それと受動意識仮説で言われる仕組み的は、仕組みとしては同じなのかもしれないですね。 >>私はそんなふうに感じます。 > > はい。私も同じだと思いました。実際には、無意識下での命令からの結果としての行為でしょうか。その後に、自意識がその各クオリアを体験として感知して自らが行ったと錯覚するというようなお話ですね。
そうですね。自分の意志が先立つという錯覚。
>>つまり、無意識下での情報処理により身体が動く指令がなされ、意識はそれをクオリアとして体験する、ということに前野さんの説だとなるのだと思います。 > > はい、そうですね。そのような説だと思います。そしてそのクオリアも意識も幻想だという事のようですね。となると・・無意識下での情報処理により身体が動く指令が出されて身体が動いているだけの様に思えます。(笑)でもここで、自意識自体が幻想だとなると、読み手によっては、大きな不安を感じる人と大きな安心を感じる人に分かれそうですね。
前野さんの本に「痛み」についての興味深い記述がありました。 人が痛みを感じる時、怪我したり出血した箇所が痛みを感じているように思うけれど、脳が痛いという感覚を作り出しているそうです。 一瞬、疑問でしたが、全身麻酔での手術、鎮痛薬を思えば納得ですよね。
原始仏教をされている方で、自由意志は存在しないと感じられる方は珍しいように感じるのですが、時さんは時さん以外の原始仏教の方で自由意志は存在しないと考えられる方に会ったことはありますか? また、時さんご自身、原始仏教と自由意志の無さとの整合性をどのように考えられますか?
想像で思うのは、原始仏教を支持される方がもし「自由意志は無いのかも」と感じても、それだと「じゃ何しててもいいんだね」みたいに人はなりそうなので表明しないだろうな、と。
私は原始仏教にも詳しくはないのですが、八正道を心がけたい(それは苦しみから離れられる方法だと思うからです)と思うのです。 でも、自由意志は存在しない(個別に実体として存在するものは何も無いから)と考えていて、自分なりに自分の中では、八正道とも整合性が取れると思います。 リラックスしたコンデションや体調を整えることや、発言に気を付けることなど、外から内に、また逆に内から外への影響が苦しみから離れる方法になると思うからです。 つまり、自由意志の有無に関わらずすることは結局は私の場合は一緒みたいです。 ただ、頑張らないとという深刻さや堅苦しさみたいなのは薄れる気はします。
時さんが原始仏教と自由意志の無さの整合性を取られているとしたら、今、書いてみたようなことと似ていますか? それとも違う方向性からになりますか? ここを教えていただけたら嬉しいです。
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