□投稿者/ うましか -(2022/08/07(Sun) 16:20:05)
| 2022/08/07(Sun) 16:25:32 編集(投稿者)
pipitさん、こんにちはー
最近、暇をみてライプニッツの略年譜つくってます。
なかなかすすまないけど…(;´・ω・)
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T 超越論的原理論 第一部門 超越論的感性論
第二節 時間について 第八項 超越論的感性論のための一般的注解
◆私たちは、いつもよく現象のあいだで、現象の直観に本質的に結びついており、あらゆる人間的感官一般にとって妥当するもの〔ロックの第一性質〕と、現象の直観にただ偶然的にのみ帰属するもの、つまり感性一般との連関にとって妥当するのではなく、ただ〔観察者の〕あれこれの感官の特殊な位置や〔観察する〕組織にとってのみ妥当するもの〔ロックの第二性質〕とを、区別している。第一の認識は対象自体そのものを示す認識と名づけられているが、第二の認識は対象の現象のみを示す認識に過ぎないとされている。しかし、この区別は経験的な区別でしかない。 もしも、人がこの区別にとどまり(一般に為されているように)、しかも、あの経験的直観をまたもや(当然そうすべきであるように)単なる現象と見なさないとしたならば、つまり、あの経験的直観の内には、何らかの事象自体そのものに関わるものは全然何一つとして見いだされ得ないのだというように、見なさないとしたならば、私たちの超越論的区別は失われてしまうので、その時には、私たちは諸物自体そのものを認識すると、何としても信ずる。たとえ私たちが、至るところで(感性界においては)、感性界の諸対象の探究を最も深く押し進めてすら、現象以外の何ものとも関わり合わないとしても、そう信ずるのである。 それで、〔例えば、〕 私たちはなるほど、虹を、お天気雨に起こる一つの単なる現象と呼びはするが、しかし、このお天気雨の方は事象自体そのものと呼ぶだろう。このことは実際、私たちが、この後者〔お天気雨〕の事象自体そのものという概念をただ物理的に解し、一般的な経験においては感官とのあらゆる様々な状態下にありながら、しかし直観においてはそのように規定され、それ以外には規定されてはいないものと解する限り、正しくもある。 しかし、私たちがこの経験的なもの一般を取り上げ、このものと人間のあらゆる感官との一致いかんに頓着なく、はたしてこの経験的なものすら対象自体そのものを(雨滴を、ではない、なぜなら、雨滴はそのときには既に現象として経験的客観であるからである)示すかどうかを問うならば、表象とその対象との連関についてのこの問いは超越論的であり、だから雨滴がその中で降る空間も、何らそれ自体そのものではなく、私たちの感性的直観の単なる変容、或いは根本形状であることになる。しかし超越論的客観は私たちにはあくまで未知のままなのである。
--- No.25361 からの続き ---
◆ 私たちの超越論的感性論の第二の重要な要件は、それが単にもっともらしい仮説としていくらかの好評を博するのではなく、オルガノンとして役立つべき理論にいくつかは要求され得るほどに、確実で疑い得ないものであるということである。この確実性を完全に明白たらしめるために、私たちは何らかの事例を選ぼうと思う。 この事例で私たちの超越論的感性論の第二の要件とされたことの妥当性は一目瞭然となり、第三項で述べられたことをいっそう明瞭にするのに役立ち得る。
◇ 〔そこで〕 空間と時間がそれ自体そのものとして客観的であり、諸物自体そのものの可能性の条件であるとすれば、第一に明らかなのは、この両者についてはア・プリオリに確然的で綜合的な命題が多数あらわれるということであるが、とりわけ空間についてそうであるので、私たちはここでは主にこの空間を例にとって研究しようと思う。
◇ 幾何学の諸命題はア・プリオリに綜合的であり、だから確然的な確実性でもって認識されるから、私はこう問う、「どこから諸君はこのような諸命題を得てくるのであろうか?また、何を私たちの悟性は、このような端的に必然的な普遍妥当的な諸真理に達するために、頼りにするのであろうか?」と。
◇ それには、概念によるか、ないしは直観によるか以外にはいかなる道もない。しかし、両者とも、そのようなものとして、ア・プリオリに与えられているか、ア・ポステリオリに与えられているかのいずれかである。 この後者、つまり経験的な概念は、同じく、この経験概念がそれに根拠付けられているものに他ならない経験的な直観も、いかなる綜合的命題をも、与えることはできない。与えることができるのは経験的でしかないような、言い換えれば、経験判断であるような、従って決して必然性と絶対的普遍性とを含み得ないような、綜合的命題だけであるが、このような必然性と絶対的普遍性こそ、幾何学の全ての命題の特徴に他ならない。
◇ それでは、前者の唯一の手段、すなわち、単なる概念によって、ないしはア・プリオリな直観によって、このような認識に達する手段はいかなるものであるかと言えば、単なる概念から得られうるのは、いかなる綜合的な認識でも全然なく、もっぱら分析的な認識であるということは明瞭である。
◇〔例えば〕二つの直線によってはいかなる空間も全然囲まれず、従っていたなる図形も可能ではないという命題だけを取り上げて、この命題を直線および二という数についての概念から導出するよう試みてみよ。 或いはまた、三つの直線によって一つの図形が可能であるという命題を取り上げて、この命題を同じく、単にこれらの概念から導出するよう試みてみよ。 諸君のあらゆる努力は無駄であり、だから諸君は、幾何学もいつもそうしているように、直観に逃げ道を求める必要を認めるであろう。それゆえ直観は諸君において一つの対象をおのれに与えるのである。
† 原佑訳上巻、p.178〜p.180参照。他に、石川文康訳上巻、p.100〜p.101、中山元訳1、p.125〜p.127を参照。 †≠ナ囲まれた言葉は、カントが『純粋理性批判』文中で強調したものです。 † 翻訳はしますが、◇〜は私が便宜上用いた区分けであり文章は原文・訳文の通りではありません。 † 文中〔〕内は私による挿入、*1、*2〜や、※1、※2〜は私の覚書とします。これらは後に訂正、削除、修正等することがあります。 † ◆〜は原典における段落とします。
******* \−4 No.24923、\−5 No.25361、\−6 No.25406 \−1 No.24381、\−2 No.24686、\−3 No.24835 [−4 No.23865、[−5 No.24101 [−1 No.23091、[−2 No.23113、[−3 No.23247 Z−4 No.22690、Z−5 No.23032 Z−1 No.21262、Z−2 No.21969、Z−3 No.22067 Y−1 No.20986 X−4 No.20772 X−1 No.20568、X−2 No.20578、X−3 No.20699 W−10 No.20434 W−7 No.19817、W−8 No.20105、W−9 No.20168 W−4 No.19542、W−5 No.19668、W−6 No.19682 W−1 No.18802、W−2 No.19157、W−3 No.19216 V−7 No.18378、V−8 No.18764 V−4 No.17945、V−5 No.18058、V−6 No.18323 V−1 No.17515、V−2 No.17588、V−3 No.17841 U−1 No.16741、U−2 No.16783 T−1 No.16440、T−2 No.16454、T−3 No.16495
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第一項 No.16440,16454,16495,16741,16783 第二項 No.17515,17588,17841,17945,18058,18323,18378,18764 第三項 No.18802,19157,19216,19542,19668,19682,19817,20105,20168,20434 第四項 No.20568,20578,20699,20772 第五項 No.20986 第六項 No.21262,21969,22067,22690,23032 第七項 No.23091,23113,23247,23865,24101 第八項 No.24381,24686,24835,24923,25361,25406
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