| 潜りますか!演繹論! ヽ(;▽;)ノ
ということで、B141から読みます。
中山元先生独自段落では 「154 判断の定義と役割」
なんということでしょう。 AはBである、の、 繋辞〈である〉が話題に出てくるようです… (@_@)キグウ‥ ここの英訳みてみたんどけど、pipitには難しいので、日本語訳を引用させていただきます。
御子柴善之先生の純理解説本p210、御子柴先生の解説小題は〈判断は統覚による客観的統一を目がけてくだされる〉
繋辞〈ある〉・・・AはB〈である〉 この〈ある〉は何か、、、
まずカントの文章の御子柴善之先生訳を引用させていただきます。
(カントの文章) 『判断における繋辞(けいじ)「ある」は、この統覚の客観的統一を目指すものであり、それによって所与の諸表象の客観的統一が主観的統一から区別されることになる。 というのは、この繋辞「ある」が、所与の諸表象の根源的統覚への関係を表示していて、またたとえ判断そのものが経験的でありしたがって偶然的であるとしても、諸表象の必然的統一を表示しているからである。(B141f)』
この後御子柴先生の解説文章を引用しますが、明日以降になるかもしれません。 主語概念と述語概念が〈ある〉で結び付けられるのですが、客観的判断においては客観を目がけて結合される、みたいなこと書いてあるかんじですが、また引用しながら理解にチャレンジしてみます o(・x・)/
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