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■25412 / inTopicNo.73)  Re[11]: :B141の注釈部分
  
□投稿者/ おくたがわ -(2022/08/07(Sun) 20:54:13)
    No25377に返信(pipitさんの記事)
    こんばんは!!

    > No25367
    > おくたがわさん、こんばんは!
    >
    > 【TANTANの雑学と哲学の小部屋】さまのページで、『直接推論』の説明を見つけました。カントの言ってるimmediate conclusions (consequentiae immediatae) と同じことか否かはわからないですけど(汗)
    >
    > 『直接推論と間接推論の違いとは?演繹的推論の二つの分類とそれぞれの推論のあり方の具体例』
    >
    > https://information-station.xyz/7581.html
    >
    > 『換位・換質・換質換位の三つの推論形式の違いと具体例、直接推論に分類される推論の形式@』
    >
    > https://information-station.xyz/7591.html
    >
    > 全称・特称と肯定・否定という量と質の違いに基づく四種類の命題区分、論理学における量と質の意味とは?
    >
    > https://information-station.xyz/7598.html
    >
    > ここらへんさーっと読むと(詳しくはわからないので。。。)
    > 前提を直接推論で質や量などを変換しちゃって、推論に使用してる(操作?)って感じなのかなぁと今のところ思いました。
    > 違うかなぁ。
    >
    > まだわからないので、また考えてみようと思います。
    >
    > おくたがわさん、考えてもらって書き込んでもらって、ありがとうございます!


    とても有益なリンクをありがとうございます。

    直接推理(推論)は
    一つの前提のみから結論を導くもの
    その中に、換位と呼ばれる推論がある

    > 「ある男性は水泳選手である」から「ある水泳選手は男性である」を導いたり(単純換位)
    > 「すべての物理学者は科学者である」から「若干の科学者は物理学者である」を導いたり(限定換位または減量換位)
    > 「すべての天使は不死である」から「不死なるものの内のいくらかのものは天使である」(限定換位または減量換位)



    今回理解できた(と思っている)点を、新しい例文で書きます(前回と異なる例を使う理由は後で書きます)

    第一格
    大前提:すべての科学者は学者である
    小前提:すべての物理学者は科学者である
     結論:すべての物理学者は学者である

    第四格
    大前提:すべての物理学者は科学者である
    小前提:すべての科学者は学者である
     結論:ある学者は物理学者である


    第四格の結論は、第一格の結論から換位で導けます。「すべての物理学者は学者である」⇒「ある学者は物理学者である」(限定換位)

    大前提・小前提は全く同じ命題が入れ替わっているだけですから、
    結局
    「換位」なる直接推論(直接推理)によって結論部分を変えているだけ。
    それがカントの言う
    『純粋な三段論法の前提に直接的推論(consequentiae immediatae)を密かに導入することによって、最初の格にある推論よりも多くの推論を導き出す様式があるように見せるための企みに他ならないが』
    ということになるのではないかと思います。

    私は前回の例で

    「ある不死なるものはガブリエルである」⇔「ガブリエルは不死である」
    といった同値関係によって結論部分を置き換えることで第一格を第四格にできるので、本当は第一格しか要らないだろう、という旨を書きました。

    同値とは、前者から後者を導け、かつ、後者から前者を導ける(前者が真ならば後者も真 かつ 後者が真ならば前者も真)という関係。
    しかしそれは「ガブリエル」が特定の対象を指す主語だったことで成立したものだと思います。


    今回の例
    「すべての物理学者は学者である」⇒「ある学者は物理学者である」 
    は前者から後者を導けるが、後者から前者は導けない

    「ある学者は物理学者である」と分かっていても「すべての物理学者が学者である」とは限らない。

    というわけで、同値関係にはならないような一方通行の「換位」で結論を置き換えても、第四格の妥当な論証を作れると思われます。
    なので、カントの四つの格に対する不満(第一格以外は不要)は、
    『「換位」などの直接推論(直接推理)をしのばせることで多様な推論様式があるように見せかけている』ということになるのではと思います。


    一つだけ

    # introducing immediate conclusions (consequentiae immediatae) among the premises of

    「前提の中にしのばせる」とちゃうやんけ 結論にしのばせてるやんけ
    という疑問点はあるかもと思いますが
    それはカントやから ということでダメ?
引用返信/返信 削除キー/
■25409 / inTopicNo.74)  うましかさんへ
□投稿者/ pipit -(2022/08/07(Sun) 17:56:40)
    No25406
    うましかさん、こんにちは!

    >最近、暇をみてライプニッツの略年譜つくってます。

    なかなかすすまないけど…(;´・ω・)<

    そうなんですね、想像ですが、実際に自分で作成してみると天才ライプニッツの凄さがわかりそうな気がします
    !(◎_◎;)

    感性論と数学の関わりについてのカントのアレコレ、おもしろそうと思ってる箇所なのですが、考えていくとまた泥沼なのかなあ
    ( ̄▽ ̄;)

    まぁ、噴飯もの、という言葉も目にしたことありますけど
    ヽ(;▽;)クッ


引用返信/返信 削除キー/
■25408 / inTopicNo.75)  日記
□投稿者/ pipit -(2022/08/07(Sun) 17:29:20)
    みなさま、こんにちは(^ ^)
    いったん流れを整理します。

    カントはまず、論理学者の【判断の定義】に納得できない、と述べます。
    pipitの想像では、当時の論理学者は一般的には「判断とは断言判断である(or 断言判断に還元できる)」と述べてたのではないかと。
    そして判断とは断言判断である、と定義されることにより様々な弊害が出てくるが、ここではそれに触れない、、、と言いつつも、、

    ================
    No25330より
    DeepL翻訳
    私は、論理学者が与える判断の定義に納得することができませんでした。
    彼らによれば、判断とは、2つの概念の間の関係を表すことである。
    この定義の欠陥についてはここでは触れないが、この定義は定言的判断にのみ適用され、仮説的判断(pipit注・中山先生訳では仮言判断)や分離的判断(中山先生訳では選言判断)には適用されないという点で、後者は概念の関係ではなく、判断そのものの関係を含んでおり、この誤りから多くの悪い結果が生じている[18]。
    我々の現在の目的にとってより重要なのは、この定義によって、当該関係が何からなるかが決定されていないことに注目することである。
    ==================

    触れない、と言いながらも、注釈[18]を述べて少しだけ触れています。
    それが、今、三段論法の四つの格などについて読んでるところですね。

    注釈[18]
    No25400
    でpipitが訳した前半部分は、
    『4つの三段論法の格についての、うんざりするほどの教説は、定言的三段論法にのみ関係するものである;
    これは、純粋な三段論法の前提に直接的推論(consequentiae immediatae)を密かに導入することによって、最初の格にある推論よりも多くの推論を導き出す様式があるように見せるための企みに他ならないが、』

    pipitが訳しあぐねた後半部分、ギブアップして、中山先生の訳を引用させていただきます。
    m(_ _)m※「技術」と中山先生の訳してる箇所はpipitは上部では「企み」と訳したものが対応したものです。

    『純粋理性批判2』カント、中山元先生訳、光文社古典新訳文庫、p132より引用
    『しかしこの技術も、断言命題の判断には、他のすべての判断がかかわらないような絶対的な権威があることを示せないとすれば、それほど大きな成功を示したことにはならないだろう。これが偽りであることは、第九項で示したとおりである。』

    =================

    そしてこの後、カントなりの【判断の定義】を述べていくようです。(pipitはまだ未読同然なので、論理学者の定義とどう違うかなどはわかりません)

    ==================

    それで、この流れの箇所に直接関わるのか、否かはわかりませんが、
    カントとしては、三段論法の形としては、カチっとしたものが頭にイメージされてるようで、そのことが、B361あたりに出てきます。
    中山先生訳本では第四巻p37-
    中山先生の解説は同四巻p273-

    ごく一部だけ中山先生の訳を引用します。
    『あらゆる理性推論においてわたしは第一に、知性を使って一つの規則(大前提)を考える。
    第二にわたしは判断力を使って、ある認識をこの規則の条件のもとに包摂する(小前提)。
    最後にわたしは、理性を使ってアプリオリに、わたしの認識をこの規則の述語によって規定する(結論)』第四巻p37

    で、ちょっとカント独特の捉え方に思えて(違うかもだけど)興味深く思ったのは次の箇所↓
    『第一に、理性推論は直観にかかわるものではないし、直観を規則のもとにもたらそうとするものでもない。
    この役割を果たすのは知性と、そのカテゴリーである。
    理性推論は、概念と判断だけにかかわる。だから純粋な理性が対象とかかわる場合にも、対象そのものや、対象の直観と直接に関係するのではなく、知性とその判断にだけかかわるのである。
    まず知性と判断が感覚能力とその直観に適用されて、その対象を規定する。
    だから理性による統一は、可能な経験を統一するものではない。
    可能な経験を統一するのは知性であり、これが理性による統一との本質的な違いである。
     たとえば「すべての生起するものにはその原因がある」という命題は、理性によって認識され、指定された原則ではない。この原則は、経験の統一を可能にするものであり、理性からは何も借りていないのである。
    理性はもともと可能な経験とはまったく関係しないのであるから、理性がたんなる概念によって、このような総合的な統一を命じることなど、できるはずもないのである。』
    第四巻p41.42

    ここだけを読むに、
    三段論法の大前提は、知性により得た規則を置き、
    小前提は判断力により判断した個別の事象を述べ、
    理性推論により、個別の事象を規則に包摂させ、個別の事象に規則の述語をくっつける。
    間接推論が理性であり、直接推論は知性の能力だとしてるのかな?

    それで、これは、超越論的弁証論への下準備なのかな?と思ったのは、
    たまたま次の文章が目に入ったからです。
    超越論的弁証論に進む箇所に、
    『(略)理性推論における大前提は、純粋な理性が示したものであって、この推論は経験からその条件へと遡ろうとするのであるが、そうだとすると[対象の条件の系列の完璧さを求めるのは、早まったことだとすると]理性推論のうちには、きわめて大きな誤解と欺瞞が忍び込んでいることになるだろう(そのときには大前提は一つの要請というよりも、嘆願に近いものとなってしまうだろう)。これらの問いに答えることが、この超越論的な弁証論の課題である。』
    中山元先生訳本第四巻p45.46

    しかしいろんなことがpipitには難しすぎる…
    (*_*)
    頭疲れました
    _(┐「ε:)_
引用返信/返信 削除キー/
■25406 / inTopicNo.76)  超越論的感性論 第八項:\−6
□投稿者/ うましか -(2022/08/07(Sun) 16:20:05)
    2022/08/07(Sun) 16:25:32 編集(投稿者)

    pipitさん、こんにちはー

    最近、暇をみてライプニッツの略年譜つくってます。

    なかなかすすまないけど…(;´・ω・)

    *******

    T 超越論的原理論
    第一部門 超越論的感性論

    第二節 時間について
     第八項 超越論的感性論のための一般的注解

    ◆私たちは、いつもよく現象のあいだで、現象の直観に本質的に結びついており、あらゆる人間的感官一般にとって妥当するもの〔ロックの第一性質〕と、現象の直観にただ偶然的にのみ帰属するもの、つまり感性一般との連関にとって妥当するのではなく、ただ〔観察者の〕あれこれの感官の特殊な位置や〔観察する〕組織にとってのみ妥当するもの〔ロックの第二性質〕とを、区別している。第一の認識は対象自体そのものを示す認識と名づけられているが、第二の認識は対象の現象のみを示す認識に過ぎないとされている。しかし、この区別は経験的な区別でしかない。
     もしも、人がこの区別にとどまり(一般に為されているように)、しかも、あの経験的直観をまたもや(当然そうすべきであるように)単なる現象と見なさないとしたならば、つまり、あの経験的直観の内には、何らかの事象自体そのものに関わるものは全然何一つとして見いだされ得ないのだというように、見なさないとしたならば、私たちの超越論的区別は失われてしまうので、その時には、私たちは諸物自体そのものを認識すると、何としても信ずる。たとえ私たちが、至るところで(感性界においては)、感性界の諸対象の探究を最も深く押し進めてすら、現象以外の何ものとも関わり合わないとしても、そう信ずるのである。
     それで、〔例えば、〕 私たちはなるほど、虹を、お天気雨に起こる一つの単なる現象と呼びはするが、しかし、このお天気雨の方は事象自体そのものと呼ぶだろう。このことは実際、私たちが、この後者〔お天気雨〕の事象自体そのものという概念をただ物理的に解し、一般的な経験においては感官とのあらゆる様々な状態下にありながら、しかし直観においてはそのように規定され、それ以外には規定されてはいないものと解する限り、正しくもある。
     しかし、私たちがこの経験的なもの一般を取り上げ、このものと人間のあらゆる感官との一致いかんに頓着なく、はたしてこの経験的なものすら対象自体そのものを(雨滴を、ではない、なぜなら、雨滴はそのときには既に現象として経験的客観であるからである)示すかどうかを問うならば、表象とその対象との連関についてのこの問いは超越論的であり、だから雨滴がその中で降る空間も、何らそれ自体そのものではなく、私たちの感性的直観の単なる変容、或いは根本形状であることになる。しかし超越論的客観は私たちにはあくまで未知のままなのである。

    --- No.25361 からの続き ---

    ◆ 私たちの超越論的感性論の第二の重要な要件は、それが単にもっともらしい仮説としていくらかの好評を博するのではなく、オルガノンとして役立つべき理論にいくつかは要求され得るほどに、確実で疑い得ないものであるということである。この確実性を完全に明白たらしめるために、私たちは何らかの事例を選ぼうと思う。
     この事例で私たちの超越論的感性論の第二の要件とされたことの妥当性は一目瞭然となり、第三項で述べられたことをいっそう明瞭にするのに役立ち得る。

    ◇ 〔そこで〕 空間と時間がそれ自体そのものとして客観的であり、諸物自体そのものの可能性の条件であるとすれば、第一に明らかなのは、この両者についてはア・プリオリに確然的で綜合的な命題が多数あらわれるということであるが、とりわけ空間についてそうであるので、私たちはここでは主にこの空間を例にとって研究しようと思う。

    ◇ 幾何学の諸命題はア・プリオリに綜合的であり、だから確然的な確実性でもって認識されるから、私はこう問う、「どこから諸君はこのような諸命題を得てくるのであろうか?また、何を私たちの悟性は、このような端的に必然的な普遍妥当的な諸真理に達するために、頼りにするのであろうか?」と。

    ◇ それには、概念によるか、ないしは直観によるか以外にはいかなる道もない。しかし、両者とも、そのようなものとして、ア・プリオリに与えられているか、ア・ポステリオリに与えられているかのいずれかである。
     この後者、つまり経験的な概念は、同じく、この経験概念がそれに根拠付けられているものに他ならない経験的な直観も、いかなる綜合的命題をも、与えることはできない。与えることができるのは経験的でしかないような、言い換えれば、経験判断であるような、従って決して必然性と絶対的普遍性とを含み得ないような、綜合的命題だけであるが、このような必然性と絶対的普遍性こそ、幾何学の全ての命題の特徴に他ならない。

    ◇ それでは、前者の唯一の手段、すなわち、単なる概念によって、ないしはア・プリオリな直観によって、このような認識に達する手段はいかなるものであるかと言えば、単なる概念から得られうるのは、いかなる綜合的な認識でも全然なく、もっぱら分析的な認識であるということは明瞭である。

    ◇〔例えば〕二つの直線によってはいかなる空間も全然囲まれず、従っていたなる図形も可能ではないという命題だけを取り上げて、この命題を直線および二という数についての概念から導出するよう試みてみよ。
     或いはまた、三つの直線によって一つの図形が可能であるという命題を取り上げて、この命題を同じく、単にこれらの概念から導出するよう試みてみよ。
     諸君のあらゆる努力は無駄であり、だから諸君は、幾何学もいつもそうしているように、直観に逃げ道を求める必要を認めるであろう。それゆえ直観は諸君において一つの対象をおのれに与えるのである。


    † 原佑訳上巻、p.178〜p.180参照。他に、石川文康訳上巻、p.100〜p.101、中山元訳1、p.125〜p.127を参照。
    †≠ナ囲まれた言葉は、カントが『純粋理性批判』文中で強調したものです。
    † 翻訳はしますが、◇〜は私が便宜上用いた区分けであり文章は原文・訳文の通りではありません。
    † 文中〔〕内は私による挿入、*1、*2〜や、※1、※2〜は私の覚書とします。これらは後に訂正、削除、修正等することがあります。
    † ◆〜は原典における段落とします。


    *******
    \−4 No.24923、\−5 No.25361、\−6 No.25406
    \−1 No.24381、\−2 No.24686、\−3 No.24835
    [−4 No.23865、[−5 No.24101
    [−1 No.23091、[−2 No.23113、[−3 No.23247
    Z−4 No.22690、Z−5 No.23032
    Z−1 No.21262、Z−2 No.21969、Z−3 No.22067
    Y−1 No.20986
    X−4 No.20772
    X−1 No.20568、X−2 No.20578、X−3 No.20699
    W−10 No.20434
    W−7 No.19817、W−8 No.20105、W−9 No.20168
    W−4 No.19542、W−5 No.19668、W−6 No.19682
    W−1 No.18802、W−2 No.19157、W−3 No.19216
    V−7 No.18378、V−8 No.18764
    V−4 No.17945、V−5 No.18058、V−6 No.18323
    V−1 No.17515、V−2 No.17588、V−3 No.17841
    U−1 No.16741、U−2 No.16783
    T−1 No.16440、T−2 No.16454、T−3 No.16495

    *******

    第一項 No.16440,16454,16495,16741,16783
    第二項 No.17515,17588,17841,17945,18058,18323,18378,18764
    第三項 No.18802,19157,19216,19542,19668,19682,19817,20105,20168,20434
    第四項 No.20568,20578,20699,20772
    第五項 No.20986
    第六項 No.21262,21969,22067,22690,23032
    第七項 No.23091,23113,23247,23865,24101
    第八項 No.24381,24686,24835,24923,25361,25406

引用返信/返信 削除キー/
■25401 / inTopicNo.77)  Re[12]: 日記6
□投稿者/ pipit -(2022/08/06(Sat) 23:51:48)
    後半の英訳のDeepL翻訳は、
    『もし、その著者たちが、他のすべてが参照されなければならないものとして、定言的判断を排他的に尊重することに成功しなかったならば、この策略はあまり成功しなかったであろう。しかしながら、§5によれば、この教義はまったく間違っているのである。』
    なのですが、

    日本語がわからないというより、その意味することがわかりきれない(カントのせい、ということです。)ので、また、いろんなものを参考にさせていただき、少しだけでも理解していけたらな、と、思っています。
引用返信/返信 削除キー/
■25400 / inTopicNo.78)  Re[11]: 日記5
□投稿者/ pipit -(2022/08/06(Sat) 23:50:57)
    今話題にしてるのは、B141の注釈部分で、
    No25354(英訳)

    英訳のpipit日訳を投稿したいとおもってるのですが、後半が苦戦してまだなのですが、とりあえず前半を投稿します。

    『4つの三段論法の格についての、うんざりするほどの教説は、定言的三段論法にのみ関係するものである;

    これは、純粋な三段論法の前提に直接的推論(consequentiae immediatae)を密かに導入することによって、最初の格にある推論よりも多くの推論を導き出す様式があるように見せるための企みに他ならないが、』
引用返信/返信 削除キー/
■25399 / inTopicNo.79)  Re[10]: 日記4
□投稿者/ pipit -(2022/08/06(Sat) 23:50:00)
    このような操作を、カントは
    No25365
    > 今読解してる箇所の
    『純粋な三段論法の前提のうちに直接的な推論をこっそりと隠すことによって、』(中山元先生訳)<

    と表現したのだろうか?とpipitの今の推測です。
引用返信/返信 削除キー/
■25398 / inTopicNo.80)  Re[9]: 日記3
□投稿者/ pipit -(2022/08/06(Sat) 23:49:30)
    pipitが考えたのは、第四格のこの例での小前提を直接推理により

    「ある不死(S)なるものは天使(M)である。」

    に、換位して

    >結論:ある不死(S)なるものはガブリエル(P)である。<

    につなげている。
    天使は「媒概念 or 中概念(M)」の役割を果たしている。
引用返信/返信 削除キー/
■25397 / inTopicNo.81)  Re[8]: 日記2
□投稿者/ pipit -(2022/08/06(Sat) 23:48:57)
    No25358 でおくたがわさんが投稿してくださった例をお借りすると、

    > 例1と同じ概念を使って「第四格」の形で妥当な推論を作るならば
    大前提:ガブリエル(P)は天使(M)である。
    小前提:すべての天使(M)は不死(S)なるものである。
     結論:ある不死(S)なるものはガブリエル(P)である。
    となる。第一格と比べると、結論におけるSとPの内容が入れ替わっているので、大前提と小前提が入れ替わる<

引用返信/返信 削除キー/
■25396 / inTopicNo.82)  日記1
□投稿者/ pipit -(2022/08/06(Sat) 23:48:07)
    みなさま、こんばんは(^ ^)
    アクセス禁止になるので、細切れで投稿してみます。

    【TANTANの雑学と哲学の小部屋】さまのページより『換位』という論理学用語を知りました。

    https://information-station.xyz/7591.html


    コトバンクさんには、

    『かん‐い〔クワンヰ〕【換位】
    論理学で、定言的判断の変形による直接推理の一。ある判断から、主語を述語に、述語を主語として、新しい判断を導き出す推理。「ある男性は水泳選手である」から「ある水泳選手は男性である」を導いたり(単純換位)、「すべての物理学者は科学者である」から「若干の科学者は物理学者である」を導いたり(限定換位または減量換位)する類。ただし、特殊否定判断は換位できない。』

    とありました。

引用返信/返信 削除キー/
■25395 / inTopicNo.83)  悪魔ちゃんへ
□投稿者/ pipit -(2022/08/06(Sat) 23:41:45)
    悪魔ちゃん、こんばんは(^ ^)

    No25392
    > pipitさまは「存在する」よね、でもそれって「すべて」を言ってるんじゃないよね。<

    個と全体は違う、ということかな??

    > >論理、か、論理学、どんなふうな感想持ってるの?<
    > ちょっとね。ほら日本語でどちらも「理」が入ってるじゃん。
    > 日本語で。「理性」にも「理」が入ってるよね。
    > 「感」と「理」が精神の同じ働きなんだったら問題とはしないんだけどね。<

    「理」かぁ。なんだろね。


    > 日本語で、「論理」「理論」ってあるけど、たとえば、
    > 論理----論ずる理
    > 理論----理を論ずる
    > なんかニュアンス的に違うよね?<

    個人によっても、言葉でイメージするものが違うかもだしね。


    > 西欧文明を取り入れた日本人にとってはいまだ意味不明のままなんじゃないかしら。
    > そもそも、「理」の意味がわたしにはわかんない。<

    私はなんとなく、ある法則に則ってる,イメージかなぁ(今は)


    > ただ「論理学」についてはちょっと調べて見たのね。
    > 「前提−推論→結論」、これを「論証」って言うみたいで、
    > このなかの「推論」”だけ”を扱うのが「論理学」ってわたし理解してる。

    > わたしから見ると、「論理学」っていうの「前提」の信憑性には関わらないことにしてることを前提にしてるんだと思う。ようするに科学でありたいのね。<

    論理学は、前提に合わせた、動き方に関しての学って感じかな??


    > わたしに見えてるのは、「哲学」とは違うっていうこと。
    > 哲学は「前提」を問うてるんだと思ってるのね。<

    哲学は、前提の信憑性に着目してみるんだね。
引用返信/返信 削除キー/
■25392 / inTopicNo.84)  Re[5]: 飯田隆
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/08/06(Sat) 20:31:32)
    ■25376、pipitさま、見たよ。
    あそこに書かれてる内容はともかくとして、
    「虹」を”見ようとしてること”には興味が湧いたよ。

    わたしの題として、
    「虹が存在する」みたいな題で、考えて見よっかな〜って、ふと。
    わたし文才ないから実現しないけどね。

    あ、あと
    No25379
    >「存在する」がポイントになるの?<
    pipitさまは「存在する」よね、でもそれって「すべて」を言ってるんじゃないよね。
    >論理、か、論理学、どんなふうな感想持ってるの?<
    ちょっとね。ほら日本語でどちらも「理」が入ってるじゃん。
    日本語で。「理性」にも「理」が入ってるよね。
    「感」と「理」が精神の同じ働きなんだったら問題とはしないんだけどね。

    日本語で、「論理」「理論」ってあるけど、たとえば、
    論理----論ずる理
    理論----理を論ずる
    なんかニュアンス的に違うよね?
    西欧文明を取り入れた日本人にとってはいまだ意味不明のままなんじゃないかしら。
    そもそも、「理」の意味がわたしにはわかんない。

    ただ「論理学」についてはちょっと調べて見たのね。
    「前提−推論→結論」、これを「論証」って言うみたいで、
    このなかの「推論」”だけ”を扱うのが「論理学」ってわたし理解してる。
    わたしから見ると、「論理学」っていうの「前提」の信憑性には関わらないことにしてることを前提にしてるんだと思う。ようするに科学でありたいのね。

    わたしに見えてるのは、「哲学」とは違うっていうこと。
    哲学は「前提」を問うてるんだと思ってるのね。






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