■25694 / inTopicNo.14) |
超越論的感性論 第八項:\−7
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□投稿者/ うましか -(2022/08/18(Thu) 21:39:45)
| 2022/08/18(Thu) 21:40:40 編集(投稿者)
pipitさん、こんばんはー
感性論の終わりがみえそうでみえないー(;゚Д゚) うま悩む
感性論を読み終えたらどうしようかなー(゚Д゚; ) しか悩む
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T 超越論的原理論 第一部門 超越論的感性論
第二節 時間について 第八項 超越論的感性論のための一般的注解
◆私たちの超越論的感性論の第二の重要な要件は、それが単にもっともらしい仮説としていくらかの好評を博するのではなく、オルガノンとして役立つべき理論にいくつかは要求され得るほどに、確実で疑い得ないものであるということである。この確実性を完全に明白足らしめるために、私たちは何らかの事例を選ぼうと思う。この事例で私たちの超越論的感性論の第二の要件とされたことの妥当性は一目瞭然となり、第三項で述べられたことをいっそう明瞭にするのに役立ち得る。
◇ 〔そこで、〕 空間と時間がそれ自体そのものとして客観的であり、諸物自体そのものの可能性の条件であるとすれば、第一に明らかなのは、この両者についてはア・プリオリに確然的で綜合的な命題が多数あらわれるということである。とりわけ空間についてそうであるので、私たちはここでは主に空間を例にとって研究しようと思う。〔さて、〕幾何学の諸命題はア・プリオリに綜合的であり、だから確然的な確実性でもって認識されるから、私はこう問う、「どこから諸君はこのような諸命題を得てくるのであろうか?また、何を私たちの悟性は、このような端的に必然的な普遍妥当的な諸真理に達するために、頼りにするのであろうか?」と。それには、概念によるか、ないしは直観によるか以外にはいかなる道もない。しかし、両者とも、そのようなものとして、ア・プリオリに与えられているか、ア・ポステリオリに与えられているかのいずれかである。この後者、つまり経験的な概念は、同じく、この経験概念がそれに根拠付けられているものに他ならない経験的な直観も、いかなる綜合的命題をも、与えることはできない。与えることができるのは経験的でしかないような、言い換えれば、経験判断であるような、従って決して必然性と絶対的普遍性とを含み得ないような、綜合的命題だけであるが、このような必然性と絶対的普遍性こそ、幾何学の全ての命題の特徴に他ならない。それでは、前者の唯一の手段、すなわち、単なる概念によって、ないしはア・プリオリな直観によって、このような認識に達する手段はいかなるものであるかと言えば、単なる概念から得られうるのは、いかなる綜合的な認識でも全然なく、もっぱら分析的な認識であるということは明瞭である。〔例えば、〕二つの直線によってはいかなる空間も全然囲まれず、従っていたなる図形も可能ではないという命題だけを取り上げて、この命題を直線および二という数についての概念から導出するよう試みてみよ。或いはまた、三つの直線によって一つの図形が可能であるという命題を取り上げて、この命題を同じく、単にこれらの概念から導出するよう試みてみよ。諸君のあらゆる努力は無駄であり、だから諸君は、幾何学もいつもそうしているように、直観に逃げ道を求める必要を認めるであろう。それゆえ直観は諸君において一つの対象をおのれに与えるのである。
--- No.25406 からの続き ---
◇しかし、この直観はいかなる種類のものだろうか。ア・プリオリな純粋直観であろうか、それとも経験的直観であろうか? もし後者〔経験的直観〕であるとすれば、普遍的で妥当的な命題、ましてや確然的命題は、そこからは決して生じえないに違いない。なぜなら、経験はこのような命題を決して提供し得ないからである。それ故、諸君は、諸君の対象をア・プリオリに直観において与え、この対象に諸君の綜合的命題を根拠づけなければならない。
◇ところで、諸君の内にア・プリオリに直観する或る能力が潜んでいないならば、〔どうなるだろうか。〕 そして、この主観的な条件が、その形式からみて同時に、この(外的)直観自身の客観がそのもとでのみ可能となるア・プリオリな普遍的条件でないならば、〔どうなるだろうか。〕さらに、その対象(三角形)が、諸君の主観との連関無しの或るもの自体そのものであるならば、〔どうなるだろうか。〕 〔そのとき、〕いかにして諸君は、三角形を構成する諸君の主観的な諸条件の内に必然的に潜んでいるものが、その三角形自体そのものにも必然的に帰属しなければならないと、そう言い得るのであろうか?
◇なぜなら、諸君は何としても諸君の(三つの直線という)〔手持ちの〕概念に何ら新しいもの(図形)を付加し得ないだろうからである。この新しいものこそ必然的にその対象のもとに見いだされなければならないはずであり、それというのも、この対象は諸君の認識に先立って与えられているのであって、諸君の認識によって与えられているのではないからだが、しかしそうした新しいものを諸君は見出だして付加することはできないだろうからである。
† 原佑訳上巻、p.180〜p.181参照。 † その他に、中山元訳1、p.127〜p.129、石川文康訳上巻、p.101〜p.102を参照。 †≠ナ囲まれた言葉は、カントが『純粋理性批判』文中で強調したものです。 † 翻訳はしますが、◇〜は私が便宜上用いた区分けであり文章は原文・訳文の通りではありません。 † 文中〔〕内は私による挿入、*1、*2〜や、※1、※2〜は私の覚書とします。これらは後に訂正、削除、修正等することがあります。 † ◆〜は原典における段落とします。
******* \−7 No.25694 \−4 No.24923、\−5 No.25361、\−6 No.25406 \−1 No.24381、\−2 No.24686、\−3 No.24835 [−4 No.23865、[−5 No.24101 [−1 No.23091、[−2 No.23113、[−3 No.23247 Z−4 No.22690、Z−5 No.23032 Z−1 No.21262、Z−2 No.21969、Z−3 No.22067 Y−1 No.20986 X−4 No.20772 X−1 No.20568、X−2 No.20578、X−3 No.20699 W−10 No.20434 W−7 No.19817、W−8 No.20105、W−9 No.20168 W−4 No.19542、W−5 No.19668、W−6 No.19682 W−1 No.18802、W−2 No.19157、W−3 No.19216 V−7 No.18378、V−8 No.18764 V−4 No.17945、V−5 No.18058、V−6 No.18323 V−1 No.17515、V−2 No.17588、V−3 No.17841 U−1 No.16741、U−2 No.16783 T−1 No.16440、T−2 No.16454、T−3 No.16495
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第一項 No.16440,16454,16495,16741,16783 第二項 No.17515,17588,17841,17945,18058,18323,18378,18764 第三項 No.18802,19157,19216,19542,19668,19682,19817,20105,20168,20434 第四項 No.20568,20578,20699,20772 第五項 No.20986 第六項 No.21262,21969,22067,22690,23032 第七項 No.23091,23113,23247,23865,24101 第八項 No.24381,24686,24835,24923,25361,25406,25694
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