□投稿者/ うましか -(2021/12/05(Sun) 10:44:15)
| 2021/12/05(Sun) 10:45:12 編集(投稿者)
pipitさん、おはようございますー
今日も朝から(/・ω・)/溺れております。
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◆ b) 空間は、単なる外的な感官の全ての現象の形式、言いかえれば、私たちにはそのもとでのみ外的直観が可能であるような感性の主観的条件以外の何ものでもない。ところで、対象によって触発されるという主観の受容性は、必然的にこの客観の全ての直観に先行する。それゆえ、いかにして全ての現象のこの空間という形式が、全ての現実的な知覚に先立ち、したがってア・プリオリに心の内に与えられるのか、また、いかにしてこの形式が、全ての諸現象がそこで規定されざるを得ない一つの純粋な直観として、それらの諸対象の諸関係の諸原理を、全ての経験に先立ち含み得るのかが理解できるのである。
--- No.19668からの続き---
◆したがって私たちは、人間の立場からのみ、空間とか拡がりのあるもの等について語ることができる。私たちが、その〔主観的条件の〕下でのみ、対象によって触発されるだろう外的直観を得ることができるという、そのような主観的条件を捨て去るならば、空間についての表象は全く無意味となる。
◇空間というこの述語〔Praedikat〕は、諸物が私たちに現象するかぎりにおいてのみ、言いかえれば、諸物が感性の対象であるかぎりにおいてのみ、それらの諸物に付加される。
※1 「空間というこの述語」(;´・ω・)? "Sは空間である。"みたいな?(・・;)
◇私たちが感性と名づけるこの受容性の恒常不変の形式は、諸対象がそこで外なるものとして直観される全ての関係の一つの必然的条件であり、これらの諸対象が捨象されるときには、一つの純粋な直観であり、この純粋な直観に空間という名称が使われるのである。
◇私たちは感性の特殊な諸条件を、事象の可能性の諸条件にすることはできず、事象の現象の可能性の諸条件にすることができるに過ぎないので、私たちはおそらくこういうことができる。
◇空間は、私たちに外的に現象し得る全ての物を包括し〔befasse〕はするが、たとえ物自体が直観されるにしても、直観されないにしても、或いはまたいかなる主観によって直観されるとしても、全ての物自体を包括しはしない、と。
◇なぜなら、私たちは、私たち以外の思考する存在者〔Wesen〕の直観については、私たちの直観を制限し〔einschraenken〕、私たちにとって普遍的に妥当するのと同じ諸条件に、はたしてそれらの存在者が拘束されている〔gebunden〕かどうかを全然判断することができないからである。
※2 「私たちは、私たち以外の思考する存在者〔Wesen〕の直観については、」… 私たち以外の存在者って何だろう?(;゚Д゚)?!
† 原佑訳上巻、p.156参照 †≠ナ囲まれた言葉は、カントが『純粋理性批判』文中で強調したものです。 † 翻訳は参照しますが、◇〜は私が便宜上用いた区分けであり文章は原文・訳文の通りではありません。 † 文中〔〕内は私による挿入、*1、*2〜や、※1、※2〜は私の覚書とします。これらは後に訂正、削除、修正等することがあります。 † ◆〜は原典における段落とします。
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W−4 No.19542、W−5 No.19668、W−6 No.19682 W−1 No.18802、W−2 No.19157、W−3 No.19216 V−7 No.18378、V−8 No.18764 V−4 No.17945、V−5 No.18058、V−6 No.18323 V−1 No.17515、V−2 No.17588、V−3 No.17841 U−1 No.16741、U−2 No.16783 T−1 No.16440、T−2 No.16454、T−3 No.16495
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第一項 No.16440,16454,16495,16741,16783 第二項 No.17515,17588,17841,17945,18058,18323,18378,18764 第三項 No.18802,19157,19216,19542,19668,19682
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