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■24835  超越論的感性論 第八項:\−3
□投稿者/ うましか -(2022/07/12(Tue) 20:36:39)
    2022/07/12(Tue) 20:37:46 編集(投稿者)

    pipitさん、こんばんはー

    今夜もカント沼ダイブッ!!

    (/・ω・)/パシャパシャ

    *******

    T 超越論的原理論
    第一部門 超越論的感性論

    第二節 時間について
     第八項 超越論的感性論のための一般的注解

    ◆T. 先ず、できる限り明らかに説明しておく必要があるのは、感性的認識一般の根本性質に関する私たちの見解がいかなるものであるのかということであるが、これは、その根本性質に対するあらゆる誤解を予め防ぐためである。

    ◆ 私たちが主張してきたことは以下のことである。すなわち、あらゆる私たちの直観は、現象についての表象以外の何ものでもないということ、言い換えれば、私たちが直観する諸物は、それ自体そのものとしては、私たちが諸物をそうだと直観しているそのものでもなければ、またそれらの諸物の諸関係も、それ自体そのものとしては、それらの諸関係が私たちに現象しているとおりの性質のものではないということ、だから、私たちが、私たちの主観を、ないしは感官一般の主観的性質だけでも廃棄すれば、空間と時間とにおける客観の全ての性質、全ての関係が、いや空間と時間すら、消滅してしまうはずであり、従って、それらの性質や関係は、現象としてそれ自体そのものとして現存するのではなく、ただ私たちの内にのみ現存し得るに過ぎないということ、このことに他ならない。それ自体として、また私たちの感性のこうした全ての受容性から離れて、対象に関する事情がどのようなものであるかは、私たちには全面的に未知のままである。私たちは、対象を知覚する私たちの様式以外には何一つとして知らず、この私たちの様式は私たちに特有であり、たとえあらゆる人間に帰属するに違いないにせよ、必ずしもあらゆる存在者に帰属するというわけのものではない。こうした私たちの様式だけを、私たちはもっぱら問題とする。空間と時間は他ならぬこの私たちの様式の純粋形式であり、感覚一般はその実質である。前者の空間と時間だけを、私たちは、ア・プリオリに、言い換えれば、全ての現実的知覚に先立って認識することができ、それ故に、それらは純粋直観と呼ばれる。しかし、後者の感覚〔感覚一般〕は、私たちの認識において、ア・ポステリオリな認識と、言い換えれば、経験的な直観と、呼ばれる所以のものに他ならない。前者〔空間と時間〕は、たとえ私たちの感覚がいかなる種類のものであろうと、私たちの感性に端的に必然的に結びついている。私たちの感覚は極めて様々であり得る。たとえ私たちがこうした私たちの直観を最高度の判明性へともたらし得たとしても、私たちはこのことによって諸対象自体そのものの性質にいっそう近づくことにはならないであろう。なぜなら、私たちは、いかなる場合にも直観の私たちの様式、言い換えれば、私たちの感性しか完璧に認識することはできず、しかもこの私たちの感性を、空間と時間という主観に元々結びついている条件のもとでのみ、常に認識するからである。諸対象自体そのものがいかなるものであるにせよ、そうした諸対象自体そのものは、私たちにそれのみが与えられている、それらの現象をいくら明瞭に認識したところで、決して既知のものとはなり得ないであろう。

    --- No.24686 からの続き ---

    ◇だから、次のような〔ライプニッツの*1〕意見、すなわち、私たちの全感性〔ganz Sinnlichkeit〕は諸物の混乱した表象以外の何ものでもなく、そうした表象は、それ自体そのものとしての諸物に帰属しはするが、私たちが意識をもって〔mit Bewusstsein〕明瞭には分離していない諸徴表や諸部分表象の堆積のもとでのみ、そうした諸物に帰属するものを、ただ含んでいるに過ぎないとみなす考えは、感性と現象とについての概念を偽造したものであって、こうした偽造は感性と現象についての全学説を無用で空虚なものにしてしまう。

     *1 中山元訳1、p.120による。次の段◇内の〔〕内も同様。

    ◇これだと、判明でない表象と判明な表象との〔ライプニッツの*1〕区別は単に論理的なもので、だから内容は関わりないことになってしまう。確かに健全な悟性が用いている法〔Recht〕≠ノついての概念は、この上なく精緻な思弁がこの概念から展開し得るのと同一のものを含んでおり、ただ異なるのは、普通の実用的な使用においては法というこの思想のうちにあるこうした多様の諸表象が意識されていない〔nicht bewusst ist〕ということだけであろう。

    ◇しかし、だからといって人は、この普通の概念は感性的であって、だから単なる現象を含んでいるに過ぎないと言うことはできない。というのも、法は現象することは全然できず、その概念は悟性のうちに潜んでおり、行為自体そのものに帰属するところの、行為の一つの性質(道徳的性質〔die moralische〕)を示すからである。

    ◇これに反して、直観における物体〔Koerpers〕≠フ表象は、対象自体そのもの〔Gegenstande an sich selbst〕に帰属し得るようなものを何ひとつとして全く含んでおらず、単に或るものの現象と、このものによって私たちが触発される仕方とを含むだけである。私たちの認識性能のこの受容性は感性と呼ばれる。この受容性は、たとえあのもの(現象)が底の底まで見通されようとも、対象自体そのものの認識とは、あくまで天地ほど異なっているのである。


    † 原佑訳上巻、p.175〜p.176参照。他に、石川文康訳上巻、p.97〜p.98、中山元訳1、p.120〜p.121を参照。
    †≠ナ囲まれた言葉は、カントが『純粋理性批判』文中で強調したものです。
    † 翻訳は参照しますが、◇〜は私が便宜上用いた区分けであり文章は原文・訳文の通りではありません。
    † 文中〔〕内は私による挿入、*1、*2〜や、※1、※2〜は私の覚書とします。これらは後に訂正、削除、修正等することがあります。
    † ◆〜は原典における段落とします。


    *******

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    T−1 No.16440、T−2 No.16454、T−3 No.16495

    *******

    第一項 No.16440,16454,16495,16741,16783
    第二項 No.17515,17588,17841,17945,18058,18323,18378,18764
    第三項 No.18802,19157,19216,19542,19668,19682,19817,20105,20168,20434
    第四項 No.20568,20578,20699,20772
    第五項 No.20986
    第六項 No.21262,21969,22067,22690,23032
    第七項 No.23091,23113,23247,23865,24101
    第八項 No.24381,24686,24835
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