TOP HELP 新着記事 ツリー表示 トピック表示 ファイル一覧 検索 過去ログ

[ 親記事をトピックトップへ ]

このトピックに書きこむ

■40905 / inTopicNo.1)  Re[26]: 般若心経
  
□投稿者/ akaimi -(2025/02/09(Sun) 08:47:39)
    2025/02/09(Sun) 08:51:54 編集(投稿者)

    あくまで私の脳内ひとりごととして書いてみます。

    前出の『般若心経』の本に、『般若心経』は釈迦の仏教を否定している(それより上位の世界観である、ということを説いている)ということが具体的な説明として出てきます。
    その説明と漢字で書かれている『般若心経』そのもの(本に載っています)を合わせるとたしかにそうだなと思えます。
    次の投稿でそのあたり引用しながら書いてみるつもりです。

    『般若心経』の空と龍樹の空とでは、同じ空を説明しながらもある意味違うものなのではないかと、ごくわずかな知識しかないながらも今のところ暫定として感じています。
    どちらも、あらゆるものの実体の無さを説明しているところは共通していますが。

    龍樹の空は、仏陀の教えを理論としてまとめあげたもので、八不も中道を説くためのものだと考えます。
    つまり、龍樹の空は仏陀の教えとは矛盾しないものだということ。

    こんなふうに自分のなかで暫定的に考えながら、別な本も読んでみようと思っています。(龍樹研究の先生の持っている本と、以前に読んで売ってしまった本をまた買ってのと

引用返信/返信 削除キー/
■40886 / inTopicNo.2)  Re[28]: ニーチェクラブ
□投稿者/ akaimi -(2025/02/08(Sat) 09:51:13)
    2025/02/08(Sat) 09:54:40 編集(投稿者)

    パニチェさん、レスありがとうございます。

    No40884に返信(パ二チェさんの記事)

    > ありがとうございます!
    > メンバーあってのニークラです。

    こちらこそ、これからもよろしくお願いします。(^○^)

    >>20年前、皆さまどんなお話をされてたんだろう。
    >
    > ぶっちゃけ、今よりもとりとめのない日常的な会話が多かったように記憶してます。

    そうだったんですね。
    タイムスリップして見てみたいな。
    のび太の机の引き出しに入ろうか(^o^;)

    > 何でもいいのです、ディオニュソスです
    から♪^^

    はい、ありがとうございます。


引用返信/返信 削除キー/
■40884 / inTopicNo.3)  Re[27]: ニーチェクラブ
□投稿者/ パ二チェ -(2025/02/08(Sat) 09:25:33)
    おはようございます、akaimiさん。レスありがとうございます。

    No40881に返信(akaimiさんの記事)
    > 今日、20周年を迎えるのですね。

    > おめでとうございます!!

    ありがとうございます!
    メンバーあってのニークラです。

    > 20年前、皆さまどんなお話をされてたんだろう。

    ぶっちゃけ、今よりもとりとめのない日常的な会話が多かったように記憶してます。
    何でもいいのです、ディオニュソスですから♪^^

引用返信/返信 削除キー/
■40881 / inTopicNo.4)  ニーチェクラブ
□投稿者/ akaimi -(2025/02/08(Sat) 07:27:52)
    今日、20周年を迎えるのですね。

    おめでとうございます!!

    20年前、皆さまどんなお話をされてたんだろう。




引用返信/返信 削除キー/
■40872 / inTopicNo.5)  般若心経
□投稿者/ akaimi -(2025/02/06(Thu) 09:28:45)
    2025/02/08(Sat) 07:16:28 編集(投稿者)


    『般若経』について読んだら、その中の一種類でもあり有名どころの『般若心経』についてもう少し知りたくなり、同シリーズの100分de名著『般若心経』佐々木閑 著を読んでいます。

    いろいろと興味深くおもしろく感じるのですが、今日は『般若心経』の登場人物について。

    ………
    『般若心経』には、長いバージョンの「大本」と短い「小本」があり、普通私たちが目にするのは玄奘三蔵法師訳の「小本」。
    「大本」の「序分」という出だし部分と、「流通分(るずうぶん)」というシメの部分に、観自在菩薩、舎利子、釈迦の三人の『般若心経』での関係性が見て取れる。

    多くの弟子や菩薩とともにいた釈迦は一人深い禅定に入っていた。
    その折、釈迦の弟子の舎利子が観自在菩薩に般若波羅蜜多の修行について尋ねる。
    それに答えるのが『般若心経』の本文。
    その後に、瞑想から出た釈迦は、観自在菩薩の述べたことを称賛した。
    ………
    同書p38からp41についてまとめました。


    自分たちの教義のほうが上位なことをアピールしてお釈迦様のお墨付きももらっているわけで、こういうパターンは大乗仏教に他にもある。
    …p41より


    (感想)
    観自在菩薩が舎利子という仏陀の弟子に説明をする形式に『般若心経』がなっていることは知っていましたが、最後に仏陀からのお墨付きをいただくように書かれていたのは知らなかったので興味深く感じました。

    以下あくまで私の想像なのですが。
    『般若心経』の作者は、論理に加え禅定により知ったことを本文内で説明しているのかもしれないということ。(言語、概念、思いから完全に離れた寂滅の境地を説明しているのだろうと思われる部分があると考えるので)
    瞑想中の仏陀が登場してきてシメでお墨付きを出す形式になっているのは権威付けの狙いもあったのかもですが、それだけではなく修行により禅定に入った人が理解できる世界について語られているもので、もちろん仏陀もそうであったろうと『般若心経』の作者は考えたからなのではないかと。

引用返信/返信 削除キー/
■40815 / inTopicNo.6)  Re[24]: 大乗仏教
□投稿者/ akaimi -(2025/01/30(Thu) 13:15:51)
    2025/01/31(Fri) 13:33:08 編集(投稿者)



    今日は、般若経典について。
    全体としておもしろく感じる内容なのですが、とりわけ自分が興味深く感じた部分だけを投稿とします。

    『般若経』と呼ばれる経典は数多く存在していて、紀元前後には最古のものが誕生したと考えられる。
    『般若心経』も般若経典の系統に分類されるお経の一つで『般若経』の教えのエッセンスをコンパクトにまとめたものと言える。(p46〜p48より)

    ・・・・・
    「釈迦の仏教」すなわち、『阿含経』と呼ばれる古い時代のお経が、業のエネルギーには輪廻を助長する働きしかないと考えていたのは、縁起と呼ばれる因果則の裏側に隠されたもっと崇高なシステムに気づかなかったためで、じつはその因果則の裏には、善行によって得たエネルギーをブッダになるための力に振り向けることができる、より上位のシステムが隠されていたのだ、と。
     その、因果則の裏側に隠されたシステムのことを『般若経』では「空」と呼びます。
    「空」の論理を学び、それを理解した人だけが、日常的な善行のエネルギーをすべて悟りのほうに向けることが可能になると、『般若経』では考えたのです。
    ・・・・・
    100分de名著『集中講義 大乗仏教』佐々木閑 著 p57より引用

    ・・・
    因果則の裏側に隠されたシステムである「空」を学び理解した人だけが、日常的な善行のすべてを悟りのほうに向けることが可能になる、と『般若経』では考えた、とあります。
    では、『般若経』での「空」とは? (a)
    ・・・
    ・・・・・・
    「石」や「私」は、人間が「ある」と思い込んでいるだけで、実体は「ない」(諸法無我)と考えたところまでは「釈迦の仏教」も『般若経』も同じです。しかし、『般若経』では、お釈迦様が実在すると考えた「五蘊」などの、世界を構成している基本要素すらも「実在しない」ととらえたのです。
     また、お釈迦様はこの世の本質を「諸行無常」、つまり「すべてのものはうつりゆく」と見抜いていましたが、『般若経』では「すべての基本的要素には、そもそも実体がないのだから、それが生まれたり消えたり、汚れたり、きれいになったり、増えたり、減ったりしている(ように見える)のもすべて錯覚である」と考えて、「諸行無常」さえも否定しました。
    ・・・・・
    同書p62より引用

    ・・・
    たしかに『般若心経』でも同じようなことが説かれていますね。
    原始仏教で、五蘊、十八界として説明されていたものも実在しないと『般若経』ではされるわけですね。(a)
    ・・・
    ・・・・・
    この世を構成している基本要素が実在せず、ただの虚構だということになると、要素と要素を結んでいた因果則も存在しないことになります。そうなると「釈迦の仏教」の根本にある、行為と結果の関係、つまり「業の因果則」すらも存在しないということになってしまうのです。
     しかし、そのままではこの世のありようが説明できません。そこで『般若経』では、「この世はそうした理屈を超えた、もっと別の超越的な法則によって動いている」と、とらえました。この人智を超えた神秘の力、超越的な法則こそが『般若経』でいう「空」なのです。
    ・・・・・
    同書63より引用

    ・・・
    『般若経』それ自体が不思議な力を持った「呪文(マントラ)」であり、『般若心経』の「羯諦羯諦・・・」も訳さずそのままにしておくことで言葉に秘められた神秘のパワーを失わないようにしている。(p68〜p69からの抜き出し)
    ・・・

    (感想)
    「空」を学び体得した人の善行は、輪廻を助長するエネルギーとはならず逆に悟りへのエネルギーになる、と『般若経』では考えられたのだろうと読みました。
    なぜなら、この世は「業の因果則」を超えた超越的な法則により動いていて「業の因果則」も存在しないから、と考えられたから、ということになる。
    (引用はしませんでしたが、『般若経』では六波羅蜜の修行、とりわけ「般若波羅蜜多」という智慧のための修行が大切なものとして説かれているとあり(p64〜p65より)、やみくもに在家でも修行ができると説いているのではないということだと読みました。)

    大乗経典の先駆けとして「空」について、原始仏教のときとは違う語られ方がされた般若経典が現れたことは、その後の大乗仏教の特色を方向付けるものになったのかもしれない、と想像します。

    般若心経の現代語訳での後半部分で、「大丈夫、心配するな」的な超意訳がされているのを見ますよね。人智を超えた不思議なパワーを信じて最善を尽くせ、、ってことなのかな、と個人的には考えています。

    ・・・
    ・ 途中途中で(a)とある部分は、自分の文章です。

引用返信/返信 削除キー/
■40699 / inTopicNo.7)  Re[23]: 大乗仏教
□投稿者/ akaimi -(2025/01/23(Thu) 09:23:55)
    2025/01/23(Thu) 10:00:25 編集(投稿者)


    大乗仏教ではこの世界に何人ものブッダが存在していて、努力すれば誰もがその一人になれる、と考えた、というのは前回触れました。
    では、どうすれば在家のままでもブッダになれる、と説明されていたのか。

    ・・・・・
    そこで当時の人々が注目したのは、お釈迦様の「過去」です。冒頭で、仏教は輪廻と縁起を世界観の基本にしているというお話をしましたが、「お釈迦様の過去世(前世)に何かがあったからこそ、それが遠因となってブッダへの道につながったのではないか」と考えたのです。
    仏教ではブッダになる前の修行者、ブッダ候補生のことを「菩薩」と呼びますが、彼らはお釈迦様の菩薩時代にブッダへの手がかりを探しはじめたわけです。
    ・・・・・100分de名著『集中講義 大乗仏教』佐々木閑 著 p36より引用
    ・・・
    ※菩薩
    もともとは過去世で修行中の釈迦を指す言葉だったが、自らの修行の完成を目指す修行者(ブッダ候補生)を言うようになった。 同書p36 注釈より
    ・・・

    お釈迦様ももともとは凡夫で輪廻を繰り返してきていて、その過去世の中で別のブッダと出会い、「誓願」し、「授記」を受けた、と考えた。
    「誓願」とは、ブッダを目指し修行するという誓い。
    「授記」とは、誓願した者への保証と激励。
    大乗仏教が興る前からあった『燃灯物授記』という物語の中に「燃灯物(ディーパンカラ)」という仏が出てきて、凡夫だったお釈迦様の未来を予言したと書かれていて、おそらく「誓願・授記」の考え方はこの話がベースになっている。
    (p38より)

    ・・・・・
    確かにお釈迦様は出家というかたちをとって悟りを開きましたが、それは最後の仕上げにすぎません。延々と続いてきた時間の中では、それはほんの氷山の一角の出来事であって、その下には巨大な過去が存在しています。お釈迦さまも様々な生き物の姿をとりながら、正しく生きることで修行を積んできた時代があったからこそ悟りを開くことができた、と考えれば、たとえ出家しなくても私たちはお釈迦様と同じ道を歩いているということになるのです。
    ・・・・・同書p41より引用

    (感想)
    輪廻と縁起という原始仏教において既に確立されていた世界観にも矛盾しない形で(輪廻という考え方は仏教以前のバラモン教からあったけれど)、こんなふうに考えが練られていたというのをわかりやすい説明で知り、譬えて言うなら、画像の鮮明度が少し上がったような感覚がしました。
    出家はかなわない在家信者が、日々の仕事や暮らしをしながら菩薩として修行できるというのは、当時の人々にとって大きな励みだったと思います。
    ある意味、輪廻というものを前向きに捉えているようにも感じられる気がします。

引用返信/返信 削除キー/
■40605 / inTopicNo.8)  Re[22]: 大乗仏教
□投稿者/ akaimi -(2025/01/18(Sat) 12:05:52)
    用事で中断したので続きを。

    在家信者についての考え方も、「釈迦の仏教」と大乗仏教では違います。
    ・・・・・・・・・・
    「釈迦の仏教」では、在家信者の善行は世俗的な果報にしかつながらないと考えます。
    大乗仏教では、在家信者の日々の善行が悟りのエネルギーにつながると考えます。
    つまり、大乗仏教ではすべての信者が「悟り」という同じ目標に向かっていこうとするのに対して、「釈迦の仏教」では、在家信者と出家者では目指す目標にレベル差がある。
    ・・・・・・・・・・
    (p14よりまとめました。)


    以下、一つ前に投稿したものも含めての個人的な感想です。
    戦乱の時代という背景などもあり出家が難しくても、日々の善行が悟りのエネルギーになるのだ、という考え方が人々に受け入れられていったというのは理解できる気がします。
    現状のなかでの最善を求めたいという考えがそこにはあったのだろうと想像します。

    ・・・・・・・・・・
    「釈迦の仏教」では「阿羅漢」を目指す(ブッダを目指すのではない)。
    「現世にブッダは一人しかいない」ととらえ、そのブッダが亡くなると長い不在期が続き、別のブッダが現れる、と考えた。

    大乗仏教ではこの世界には何人ものブッダが存在していて、努力すれば誰もがその一人になれると考えた。
    大乗仏教では、悟りを開いた者の最終到達点は「ブッダになること」。
    ・・・・・・・・・・
    (p33〜p34よりまとめました。)


    (感想)
    生きることは苦しみなので二度と生まれてこない涅槃を目指し修行するという「釈迦の仏教」からすると、ブッダになるという大乗仏教の目標というのは、現世にやりがい(生きがい?)をもたらす現実的な側面もあるように感じます。

    ・・・
    では、どうしたらブッダになれると説明が大乗仏教ではなされているのか、について次回少し投稿します。

    各経典によって語られることは相違する部分ももちろんあると思いますので、大乗仏教と分類されるものに通じる、それについての考え方、根底にある考え方ということになるのだろうなと今のところ考えています。
    (第二講以降、般若経、法華経、浄土教などの話題になっています。)





引用返信/返信 削除キー/
■40603 / inTopicNo.9)  Re[21]: 大乗仏教
□投稿者/ akaimi -(2025/01/18(Sat) 09:36:02)
    No40552に返信(akaimiさんの記事)
    > 2025/01/14(Tue) 10:18:29 編集(投稿者)
    >
    >
    > 100分de名著『集中講義 大乗仏教』を読んでいます。
    > 対談形式ですが、読んでいくと、これまで知らなかったことがわかりやすい文章で説明されていて読んでいて楽しいです。
    > 第六講まであるので、各講で興味深く感じた部分を取り上げてみようと思います。
    >
    > まず第一講。「釈迦の仏教」から大乗仏教へ
    >
    > 著者の佐々木閑さんは、まず、釈迦の仏教と大乗仏教とは別のものだということを言われています。(p9)

    前回、「破僧の定義変更」によって大乗仏教が興る素地が作られる理由の一つとなったというのを知りました。

    今回は、「釈迦の仏教」と大乗仏教の考え方の違いについて少し投稿してみます。
    ここについては読むだけにして投稿にはしないつもりだった部分でしたが。
    原始仏教をこの本では「釈迦の仏教」として統一して呼んでいるのでここでもそれにならいます。

    ・・・・・・・・・・
    「釈迦の仏教」では、生きることは苦しみだと捉えるので、二度と生まれ変わらない涅槃に到達することを最上の安楽としてそれを目標とした。
    輪廻させているのは「業」のエネルギーで、それを作り出しているのが煩悩なので、自力で煩悩を消し去ることが修行の基本となる。(p10〜p129よりまとめました。)

    大乗仏教では、外部に超越者や不思議なパワーが存在すると想定して、自分の力ではなく「外部の力」を救いの拠り所と考えた。
    そのため自己修練のためのサンガも意義や重みがなくなってきて次第に「在家信者でも悟りの道を歩むことは可能だ」という考えが前面に出てくるようになった。(p12〜p13よりまとめました。)
    ・・・・・・・・・・

    ・・・・・・・・・・
    大乗仏教が興った時代は、インドを統一したマウリア王朝が滅び、混乱期を迎えたころで、特に北インドのガンダーラ周辺は異民族の流入により乱世状態だった。
    そうしたなかで出家生活を送ることが難しくなった情勢において、在家のまま悟りに近づける方法が模索されたことも大乗仏教が広まる一つの理由だったと考えられる。
    ・・・・・・・・・・(p33よりまとめました。)

    次回の投稿に続きます。





引用返信/返信 削除キー/
■40594 / inTopicNo.10)  大乗仏教の意義
□投稿者/ 時 -(2025/01/17(Fri) 14:59:37)
    2025/01/17(Fri) 23:46:56 編集(投稿者)

    大乗仏教の意義ということで、佐々木先生の事は全く知らず、先生のお話を今までは全く調べていませんでしたが、今回少し、さわりだけですが調べてみました。

    多分ですが、大乗仏教内でいう仏陀(如来)というのは、原始仏教でのゴータマ仏陀ではないということでしょう。ですので釈迦(ゴータマ)仏教と大乗(例えばの阿弥陀如来)仏教は違うということになる様に思いました。当時、ゴータマが説いた現在では原始仏教といわれる教えを原点として、当時のインドの輪廻思想等から、ゴータマ仏陀の死後にその思想体系が大きく変化したようですね。

    ゴータマは、長く輪廻した結果として仏陀になるという誓願(誓い)が過去世の仏陀に授記(認められ)され仏陀となったようですが、それと同じく、他の世界(多世界)では生きとし生けるもの皆を極楽(涅槃=輪廻の終焉)に導くという誓願をたてた存在があったと考えたようです。いわゆる現行での衆生済度になるでしょうか。これは多世界解釈でのパラレルワールド的な考え方で、ゴータマ仏陀は、仏になるとその過去世での仏陀に誓願して授記されましたので、当時、その努力の結果、仏陀として存在できました。それと同じロジックで、過去世の仏陀に、極楽(=涅槃)の世界を作ると誓願したものがいたと考え、それが授記されたのであれば、極楽の世界はその思想上出来上がるという事になりますね。

    そして、当時その誓願をしたものが法蔵という名前だそうで、その誓願が成就していない段階では、その存在は法蔵菩薩といわれ、それが長い時間を経て、現在では阿弥陀仏と呼ばれるようになったということでしょう。ということは、、法蔵菩薩の願った極楽が現行であるのであれば、南無阿弥陀仏と唱えるだけで、生きとし生けるものすべてがその死後に極楽に到達するということになりますね。それを願っている段階では菩薩(法蔵菩薩)ですが、現在では、その願いが叶い極楽があると考えるのであれば、菩薩から如来、つまりは、阿弥陀如来の存在がその誓願成就の証明になるということでしょう。

    今回、少しですが初めて調べてみましたが、修行により自力での涅槃=輪廻の終焉を目指すゴータマ仏教にたいして、他力で阿弥陀如来の完成された(とする)極楽に南無阿弥陀仏と念仏を唱えるとたどり着けるとする大乗の1つの浄土宗の根本的な違いを発見できたことが収穫でした。後は、大乗の考え方は、ゴータマ仏陀を起点として、多分ですが、、同じロジックだと想像します。
引用返信/返信 削除キー/
■40567 / inTopicNo.11)  Re[22]: 大乗仏教
□投稿者/ akaimi -(2025/01/15(Wed) 08:54:07)
    時さん、投稿をありがとうございます。

    No40561に返信(時さんの記事)

    > 原始には破僧という訳文での言葉は出てきませんが、その概念は当時もあったようで、そのような修行者は”捨てなさい””そのものは取り除かれるべきです”と、仏陀は他の修行者に言っていたようです。
    >
    > そして彼は、他の比丘たちを汚さないようにという理由で、収穫された麦の中からその籾殻が捨てられるように僧伽から追放されたとあります。
    >
    > 仏陀存命中には、当然、仏陀の教えを仏陀自身が説いていましたので、問題はなかったのでしょう。何かあれば、仏陀に問うことができ、その答えも仏陀自身から得ようと思えば得られたからですね。
    >
    > その仏陀の教えを受けた聖弟子が、仏陀のいないときにその教えとは違うことを言う者があらわれたときには”そのようには言ってはおられません。誹謗してはいけません”とその者をたしなめていたともあります。

    仏陀の存命中は、修行方法やその目的についての考え、理論においても一つにまとまっていたのですね。

    > ですので、龍樹が、親鸞が、空海が、ダライラマが好みならばそれはそれで良いと思いますが、それらは本来のお釈迦様の教えとは違う解釈を提唱しているという意味で、著者の意見に賛同できそうです。

    そうなんですね。^^
    佐々木さんは仏教学者で大学の教授をされている方、と著者紹介にありました。
    ・・・・・
    「釈迦の仏教」と大乗仏教の相違点を学び、ではなぜ違う考えがこの世に誕生してきたのかを知ることで、「大乗仏教の存在価値」がより明らかになってくるはずです。
    ・・・・・
    p99より引用
    と書かれていて、相違とその価値の両方を見ていらっしゃるというのがわかります。
    100分de名著で、真理のことば(ダンマパダ)、最期のことば(涅槃経)も出ているようです。

引用返信/返信 削除キー/
■40561 / inTopicNo.12)  Re[21]: 大乗仏教
□投稿者/ 時 -(2025/01/14(Tue) 14:54:11)
    akaimiさんへ。こんにちは。

    > その後、昔から伝わっているお経以外の新しいお経を作ってそれを釈迦の教えとして主張する人々が次々に出て大乗仏教が誕生することになった。(p29)

    この時点で、釈迦時代の仏教と大乗仏教とは別の道を行くものになったということですよね。その大元が、仏陀の死後に、

    > 本来のお釈迦様の教えに背く解釈を提唱し、自分の解釈に賛同する者を集めて独自の教団を作ろうとする行為

    ということで、それぞれ独自の教団を作ろうとする独自の解釈による、冠にお釈迦様の教えは〜とつけたその独自の教えが広まったのだろうと思います。

    原始には破僧という訳文での言葉は出てきませんが、その概念は当時もあったようで、そのような修行者は”捨てなさい””そのものは取り除かれるべきです”と、仏陀は他の修行者に言っていたようです。

    そして彼は、他の比丘たちを汚さないようにという理由で、収穫された麦の中からその籾殻が捨てられるように僧伽から追放されたとあります。

    仏陀存命中には、当然、仏陀の教えを仏陀自身が説いていましたので、問題はなかったのでしょう。何かあれば、仏陀に問うことができ、その答えも仏陀自身から得ようと思えば得られたからですね。

    その仏陀の教えを受けた聖弟子が、仏陀のいないときにその教えとは違うことを言う者があらわれたときには”そのようには言ってはおられません。誹謗してはいけません”とその者をたしなめていたともあります。

    ですので、龍樹が、親鸞が、空海が、ダライラマが好みならばそれはそれで良いと思いますが、それらは本来のお釈迦様の教えとは違う解釈を提唱しているという意味で、著者の意見に賛同できそうです。

    過去の一時期に世間を騒がせたオウム真理教も、マスコミに出始めたときには”これは、仏教ですね”とコメンテーターが言っていたことをうっすらと記憶していますが、今は、それぞれの仏教があっても良いのだとも思います。
引用返信/返信 削除キー/

次の12件>

トピック内ページ移動 / << 0 | 1 | 2 | 3 | 4 >>
Mode/  Pass/

TOP HELP 新着記事 ツリー表示 トピック表示 ファイル一覧 検索 過去ログ

- Child Tree -