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■41143 / inTopicNo.37)  NO TITLE
  
□投稿者/ akaimi -(2025/03/11(Tue) 08:18:56)
    2025/03/11(Tue) 15:53:36 編集(投稿者)


    昨日でちょうど東京大空襲から80年目だったのだと、ネットを見ていてたまたま知りました。
    今日で東日本大震災から14年。
    日本だけに限らず世界をみてももちろんのこと、人類は災害や戦火に見舞われ続けてきたし、現在も世界のいたるところでそれが続いているのだと、しみじみと思います。
    私も14年前の今日の、断続する強い揺れには家屋の倒壊を覚悟しましたし(倒壊は免れましたが)、続々と入ってくる津波被害の情報にはほんとうに戦慄を覚えました。
    離れた地域の方も津波情報には驚かれたと思います。


    このところなかなか落ち着いて本を読んだりする時間が取れず、体調ももうひとつなので、これからしばらく投稿が進まずトピが下がることが続くかもです。
    でもトピが消えてしまい、書き込みできなくなってしまう前にはまた何か自分なり多少なりのまとまった投稿ができるかなとも思っていますし、ぜひそうしたいです。
    その旨をここに書かせておいていただきますね。

    皆さまも体調にお気をつけてお過ごしください(^o^)
引用返信/返信 削除キー/
■41099 / inTopicNo.38)  Re[38]: NO TITLE
□投稿者/ akaimi -(2025/03/05(Wed) 12:00:56)
    2025/03/05(Wed) 12:22:59 編集(投稿者)

    floraさん、お久しぶりです。 投稿ありがとうございます。

    アゾフ旅団についてWikipediaでまず調べてみました。
    h_ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%BE%E3%83%95%E6%97%85%E5%9B%A3_(%E3%82%A6%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%8A%E5%9B%BD%E5%AE%B6%E8%A6%AA%E8%A1%9B%E9%9A%8A)

    ウクライナ国家親衛隊(ウクライナ内務省に属する国内軍組織)の旅団で、2014年のウクライナでの親ロシア派騒乱で、親ロシア派に抵抗するためにアゾフ海沿岸のマリウポリを拠点として発足した、とあります。

    一部を引用してみます。

    ・・・
    創設当初は[11]極右[12][13][14]・右翼[15]やネオナチ[16][17][18]、ナショナリスト[11]として報じられた。2022年4月時点の日本では、白人至上主義者や反イスラーム主義者は排除され、ウクライナ民族主義に基づく[19]精鋭部隊として報じられている[20]。一方、国連人権高等弁務官事務所(OHCHR)は、2022年2月27日にウクライナ国家親衛隊のTwitter公式アカウントに投稿された動画によるアゾフ連隊のイスラム教徒への差別、並びにネオナチ賞賛を批判している[21]。

    2022年ロシアのウクライナ侵攻では、ロシア政府はアゾフ大隊の存在を侵攻のプロパガンダの対象の一つとした[22][19]。ルポライターの清義明やワシントン・ポストは、ロシア政府の侵攻プロパガンダを問題視した上で、侵攻後のアゾフ連隊志願兵に白人至上主義等のネオナチとして知られる人物らの参加、またナショナル・コー(国民軍団)やS14(C14)等のアメリカ合衆国国務省から国家主義的なヘイトグループ、またテロ組織登録されている極右・ネオナチと呼ばれる勢力の政権、行政、司法への関与がホワイトウォッシュされているとして、ウクライナ政府のプロパガンダに関しても警告している[23][24][25]。
    ・・・

    >2022年ロシアのウクライナ侵攻では、ロシア政府はアゾフ大隊の存在を侵攻のプロパガンダの対象の一つとした

    とあります。


    >またナショナル・コー(国民軍団)やS14(C14)等のアメリカ合衆国国務省から国家主義的なヘイトグループ、またテロ組織登録されている極右・ネオナチと呼ばれる勢力の政権、行政、司法への関与がホワイトウォッシュされているとして、ウクライナ政府のプロパガンダに関しても警告している

    ということも書かれています。構成員がどういう人々であるか、また、政権への関与がホワイトウォッシュされている疑惑も出ていた、ということになるようです。

    ロシアとの国境付近では、少なくとも2010年代には既に騒乱が度々起きていたのですね。
    自衛として結成された団体だったようですが、目的を超える活動(ロシア系住民への迫害)があった疑惑が・・・ということ。


    ロシアとウクライナの関係について可能な範囲で引き続き調べたり、今後も注目していきたいと思います。
    ありがとうございます。(__)
引用返信/返信 削除キー/
■41094 / inTopicNo.39)  Re[37]: NO TITLE
□投稿者/ flora -(2025/03/04(Tue) 16:01:08)
    2025/03/04(Tue) 16:46:31 編集(投稿者)



    No41090に返信(akaimiさんの記事)

    お久しぶりです。

    私もウクライナ関係は注目しておりました。

    >これまで知らなかったウクライナの一部の人々のロシア系住民への蛮行があったことを知りました。

    この軍団調べてみてください。ロシア系の住民が多い東ウクライナのロシア系住民を迫害してきました。

    [アゾフ旅団]

    shorturl.at/exlSz

引用返信/返信 削除キー/
■41090 / inTopicNo.40)  Re[36]: NO TITLE
□投稿者/ akaimi -(2025/03/03(Mon) 13:30:13)
    ウクライナの情勢が気になり、SNSも含めいろいろ見てみました。
    日本での報道には偏りがあったためか、私が情報弱者だったためか、両方になるのかな。。これまで知らなかったウクライナの一部の人々のロシア系住民への蛮行があったことを知りました。
    一つの国の中にも様々な思想を持つ人々が混在していて、そうした人々の過激な行いも他国からの侵略の口実になってしまう恐ろしさを感じます。

    私の認識不足かもですが、ロシア系の人々への迫害があった地域は、ロシアに返還する意志を示して、停戦を訴えるのがいいように感じます。

    敵対心を露わにするばかりがいいわけではないと思います。
    英仏が間に入ることで進展があるといいのですが。

引用返信/返信 削除キー/
■41071 / inTopicNo.41)  NO TITLE
□投稿者/ akaimi -(2025/03/01(Sat) 07:52:37)
    「米ウクライナ首脳会談決裂、激しい口論 鉱物協定署名せず」

    ヤフーニュースの見出しからです。


    素朴に思うのは、ロシアもアメリカもとことん欲が深いなということ。
    なぜあんなに広大な国土を持つ大国なのにウクライナをほっておかないのか。
    もとはロシアだったといっても独立した国家なのだからほっといたらいいだろうし、アメリカもロシア寄りしてまで利益しか考えていないのが国としてほんとに恐ろしい。
    ゼレンスキー氏が成果なく帰国することで終結までの道のりは遠のいたのだろうけど、飲めない条件は飲めないのもしかたない。
    日本からの経済支援も辛いものがあると考えているので、ほんと精神論や綺麗ごとでは済まない話だというのは承知だけど…

    力のある国ほど倫理にも優れた国である、という理想が実現されることを願うしかないです。
    と同時に日本も対岸の火事ではないです。
引用返信/返信 削除キー/
■41021 / inTopicNo.42)  Re[34]: ブッダの「空」
□投稿者/ akaimi -(2025/02/23(Sun) 08:42:38)
    No40997に返信(akaimiさんの記事)
    > 2025/02/20(Thu) 09:35:03 編集(投稿者)

    > ふと思ったのですが・・・。
    >
    > 「アーナンダよ、空であるのは、自己、あるいは、自己にかんするものについてであるという点から、『空であるのは世界である』というのである。」
    > と、ブッダは言ったのですが、
    >
    > なぜ、自己、あるいは、自己にかんするものが「空」だとなると『空であるのは世界である』と繋がるのか? ここ、考えてみると謎な気がします。
    > 自己、あるいは自己にかんするものが「空」(無我)だというのは言っていることが理解できます。
    > しかし、自己あるいは自己にかんするものが「空」だといういう点から『空であるのは世界である』となる根拠説明が仏陀のここでの説明にはないと感じるんです。
    > 人空から法空に突然飛躍しているように感じるというか。
    >
    > 一つ自分なりに考えるのは、禅定により自己・自己に関するものが空だと理解した人には、世界(ローカ)もそうであると理解できるから、という理由なのかな、ということ。
    >
    > 先生に質問してみるかもしれません。
    > もし回答いただけたらまたこの部分、投稿にします。

    ここ、著者の石飛先生に質問してきました。

    先生が、譬えを出して答えてくださったものに対して、私なりの理解を以下のように書き、再度質問しました。

    >>空である自分の目や耳などの感覚器官を通して形成される自分の世界(あくまで自分から見える世界)も空なのだ、ということになるのでしょうか?

    これに対して、「そうです、そのつもりで書きました」といただきました。


    「アーナンダよ、空であるのは、自己、あるいは、自己にかんするものについてであるという点から、『空であるのは世界である』というのである。」

    を再度考えてみると。
    それぞれ無我である五蘊により構成される自己(それを自己が空であると仏陀は言っている)が認識しているその人の世界もまた空なのだ、
    ということになるのだと思います。

    こうして考えてみると、初期仏教での「空」と般若心経での「空」は、また違うものなのだろうと思いました。

引用返信/返信 削除キー/
■40997 / inTopicNo.43)  ブッダの「空」
□投稿者/ akaimi -(2025/02/20(Thu) 09:15:54)
    2025/02/20(Thu) 09:35:03 編集(投稿者)

    先日、時さんとのやりとりのなかで、仏陀とアーナンダの会話で「空」が語られている経を本から引用しました。
    今日は、その引用部分に続き、また別な会話が仏陀とアーナンダの間でされていた部分を取り上げ、仏陀の語った「空」について考えます。

    ・・・・・
    「『空であるのは世界である、空であるのは世界である』と、尊師よ、言われますが、どの点から、尊師よ、『空であるのは世界である』と言われるのですか。」

    「アーナンダよ、空であるのは、自己、あるいは、自己にかんするものについてであるという点から、『空であるのは世界である』というのである。」
    (『サンユッタ・二カーヤ』三五・八五)

    ここでも、「空であるのは、自己、あるいは、自己にかんするものについてである」と、「ないもの」である「自己」「自己にかんするもの」をあげて、それについて説明している。
    「世界(ローカ)」というのは、仏教徒の認める世界ではなく外教徒も含めた一切の生類の世界を指している。このような言い方をしているときは、ブッダの体系を超えてもっと広い言語の活動領域を対象としていることがわかる。
    このように、ブッダは、弟子たちに、さらに禅定の進んだ状態では「空であるのは、自己についてである」「空であるのは、自己にかんするものについてである」という見方も教えていたのである。
    ・・・・・
    『ブッダと龍樹の論理学』石飛道子 著 p228〜p229より引用

    「ないもの」を挙げて、それについて「空」である、という説明がなされているというのがわかります。
    このことについては、先日引用した経と同じロジックになるのだと思います。(a)

    ・・・・・
    じつは、弟子たちに語る場合、ブッダは二通りに語っていたことがわかる。
    第二章「ブッダの教えは無常・苦・無我」の説で説いたが、最初の清浄行の弟子たちには「無我」を教えていた。
    その次、第二の清浄行である禅定修行の段階では、「空であるのは自己についてである」と「空」の見方を教えていたのである。
    「空であるのは自己についてである」とは、「(世界を)自己にかんして空であると見よ」ということである。
    これは、内容的には、「自己ならざるもの(無我)と同じである。
    ・・・・・
    同書p229より引用

    ここでの「空」は「無我」と同義で使われている、ということなのだと思います。(a)


    ふと思ったのですが・・・。

    「アーナンダよ、空であるのは、自己、あるいは、自己にかんするものについてであるという点から、『空であるのは世界である』というのである。」
    と、ブッダは言ったのですが、

    なぜ、自己、あるいは、自己にかんするものが「空」だとなると『空であるのは世界である』と繋がるのか? ここ、考えてみると謎な気がします。
    自己、あるいは自己にかんするものが「空」(無我)だというのは言っていることが理解できます。
    しかし、自己あるいは自己にかんするものが「空」だといういう点から『空であるのは世界である』となる根拠説明が仏陀のここでの説明にはないと感じるんです。
    人空から法空に突然飛躍しているように感じるというか。

    一つ自分なりに考えるのは、禅定により自己・自己に関するものが空だと理解した人には、世界(ローカ)もそうであると理解できるから、という理由なのかな、ということ。

    先生に質問してみるかもしれません。
    もし回答いただけたらまたこの部分、投稿にします。


引用返信/返信 削除キー/
■40989 / inTopicNo.44)  Re[32]: 般若心経
□投稿者/ 時 -(2025/02/17(Mon) 11:09:17)
    akaimiさんへ。こんにちは。返信をありがとうございます。

    No40987に返信(akaimiさんの記事)
    > 調べたいことがあり、石飛道子先生の『ブッダと龍樹の論理学』を取り出して読んでいたら、もしかしたら時さんが書かれている内容はこれなのかな、と思うものをたまたま見つけました。
    > また別のものかもですが、引用してみますね。

    > ・・・・・
    > 「空」ということについて、ブッダがくわしく述べている経典があるので、少し長くなるが引用してみよう。『マッジマ・二カーヤ』第一二一経で、ブッダは、自分は「空性の住拠に多く住している」と禅定の境地を語っている。

    > かつて、わたしは、アーナンダよ、そして、今も、空性の住拠に多く住している。
    > あたかも、この鹿母堂が、空(=中にいない)であるのは、像や牛や騾馬についてであり、空であるのは、金や銀についてであり、空であるのは、男と女の集まりについてであるが、この比丘の教団による独住だけは、空ではないように、そのように、実にアーナンダよ、比丘は村の想いに集中することはなく、人の想いに集中することなく、森の想いによって独住むに専念する。かれの、森の想いに向かう心は、躍進し、喜び、確立し、信にむかう。
    > かれは、このように知る。
    > (すなわち)あったのは、村の想いによる不安であるが、それらはここにはない。
    > あったのは、人の想いによる不安であるが、それらはここにはない。
    > あるのは、この森の想いによって独住する、ただこの不安だけである。
    >  かれは、『空であるものは、この想いのなかにあるものであって、(それは)村の想いに対してである』と知る。『空であるのは、この想いのなかにあるものであって、(それは)人の想いに対してである』と知る。
    > 『あるのは、この森の想いによる独住だけであって、これだけが、空でないものである」と(知る)。
    >  以上のように、そこ(=甲)にまったくないそのもの(=乙)によって、そこ(=甲)を空であると見る。そこにまだ余っているものがあるとき、そこにあるそのものを『これがある』と知るのである。このように、かれには、アーナンダよ、この、如実であって転倒なき清浄な空性が顕現し存在している。(『マッジマ・二カーヤ』第一二一経)

    引用をありがとうございます。私が投稿のもとにしましたものも、石飛先生の書かれている中部経典の小空性経の内容と同じ経典をもとにしたものです。

    原始を基準に空を説明するのならば、やはり、そこに生じていないものについて、それは空であると知り、しかし、そこに残っているものについては、これは存在している(不空)と知る。と、この表現にしかならないように思います。

    空という表現はされていないのですが、ほかにも仏陀は、有尋有伺よりも無尋有伺が、無尋有伺よりも無尋無伺が優れていると説かれてる経典もあるのですね。今回、その内容の説明は省略しますが、同じ心の領域のことが説かれているようです。

    > >>たしか、「牛がいる」というときに「空ではない」、「牛がいない」というときは「空である」のような譬えもあったような記憶があるのですが、定かではありません。

    >>この牛の喩は、私の記憶にはありませんかね。清浄な空性の顕現を説いているようですので、一般的な我々凡夫の心といいますか頭の中にある雑多な途切れのない思考の世界を、空と空ならざるものいう表現を用いて空の状態を知るべく説かれたものだと想像します。

    > この牛の譬えの経典については、Wikipediaの「空」に出ているのをこちらもたまたま見かけました。
    > (もともとはどなたかネット上の方とやりとりしていた際、原始仏教での「空」について教えてもらったときに聞いたのを記憶していたのを思い出したものでした。)

    > ・・・
    > 「この講堂には牛はいない、牛についていえば空(欠如)である。しかし比丘がおり、比丘についていえば空(欠如)ではない」 -- 『小空性経』(中部経典、中阿含経)
    > ・・・No40972より

    上記と同じく、小空性経にありますね。

    komyojikyozo.web.fc2.com/mnup/mn13/mn13c01.files/sheet001.htm
    例えばアーナンダよ、このミガーラマータル高楼は、象、牛、馬、驢馬について空であり、金銀について空であり、男女の集合について空であり、しかしこれのみは空性ならざるものとして存在しています。すなわち、比丘僧伽による単一性が。

    ご指摘の個所は、多分、この訳文の個所のことでしょう。

    >>例えば、村での生活の中での煩わしい人々との付き合いから離れて、湖のほとりで一人瞑想するとき、、人との付き合いの中で今まであった煩わしさは消え去っており(空な状態)で、その代わり今あるのは、空ならざる静けさがあるといった感じですね。今まであった事象がなくなることにより、今ある事象が認識できるということでしょう。これを繰り返すことにより、清浄な空性の顕現が体得できるということだと思います。

    >>原始内で空として仏陀が説いたことは、このようなことだと理解しています。

    > ・・・
    > 以上のように、そこ(=甲)にまったくないそのもの(=乙)によって、そこ(=甲)を空であると見る。そこにまだ余っているものがあるとき、そこにあるそのものを『これがある』と知るのである。このように、かれには、アーナンダよ、この、如実であって転倒なき清浄な空性が顕現し存在している。(『マッジマ・二カーヤ』第一二一経)
    > ・・・
    > 石飛先生の本からの引用にあったこの部分になるのかなと思います。
    > そうすると、時さんが書かれたこととも一致してきますよね。
    > wikiに出ていた「牛と比丘の譬え」とも。

    はい、そうですね。石飛先生も原始仏典の日本語訳をされているようですので、表現は多少違っても、理解としては同じ内容になるように思います。

    > おそらくなのですが、仏陀は「空」という言葉を用いて、相手と場合によってさまざまなことを説いたのではないかと。
    > 今ここで話題になっている「空」の使われ方は、「その場に欠如しているものを明らかにすることによりその場の空性を明らかにする」ということなのだと思うんです。

    はい。そういうことだと思います。

    そこに生じていないものについて、それは空であると知り、しかし、そこに残っているものについては、これは存在している(不空)と知る。ということですね。

    > また別な使われ方ということになるのかな、と思われるのもあるので、それについては後日、自分の投稿で書いてみます。

    楽しみにしています。^^

    > 時さんは、根本分裂から大乗仏教の発生に至った経緯に関心がおありなんですね。^^
    > 私はその部分はあまり関心がなく、今は、仏陀が語った「空」とはどういうものだったのかを自分なりに調べたいと考えています。
    > その部分に気が向く間はマイペースで調べてみようかと思ってます。

    私の興味のありどころは、仏教の分裂がいかにしてどのように行われたのかという事実でした。しかし佐々木先生のお話では、それははっきりとしたものが分かっていないということでしたので、現行ではそれで理解しようと思いました。

    あくまでも軸足を原始に残したままでの手探り状態で、今回、根本分裂についての一つの理解に至れましたが、多分、今後は原始の世界観からはあまり逸脱しないようにしようとも思いました。

    akaimiさんの空の考察、楽しみです。

    > 時さんも、もしよかったらこのトピに興味の向かれるところを続けて投稿してくださいね。(その際、こちらからのレスはしないと思うのですが、お気になさらず書いてくださいね。)

    了解しました。ありがとうございます。^^
引用返信/返信 削除キー/
■40988 / inTopicNo.45)  Re[32]: 般若心経
□投稿者/ 時 -(2025/02/17(Mon) 10:13:19)
http://ttp://
    2025/02/17(Mon) 11:19:11 編集(投稿者)

    律蔵についてのメモです。

    律蔵は、サンガ(僧団)内での規則決まりや法律事で、前後半の二部構成。

    ・前半は経分別部、後半はけん度部の二部で構成。
    ・前半の経分別部は波羅提木叉といわれ、比丘は250程、比丘尼は350程の禁止事項についての解説や判例集が記載されている。
    ・後半のけん度部は、僧団の行事等の集団行動を決める規則集。

    律蔵の中の後半部分のけん度部の中の最初には、仏陀が悟ったときのことが、最後には七百けん度の記載があり、その七百けん度の直前に五百けん度の記載がある。律蔵は、この七百けん度の記載で終了している。

    ・五百けん度とは、第一結集の事で、七百けん度とは第二結集の事。

     ・結集とは、問題解決のために皆が集まり判断すること。
     ・十事問題は、七百けん度に記載があり解決したと現存する6本の律には記載がある。

    ・十事問題とは 仏滅100年にヴェーサーリーのヴァッジプッタカの比丘たちが十事は合法だといった。(日常の僧侶の暮らしの規則=律の中での問題提起)

    浄は、特例として〜してもよいという意味の文字。

    ・以下が十事問題。

    @角塩浄A二本指浄B近村落浄C住しょ浄D後聴可浄E常法浄F不疑固浄G飲ジャローギ浄H縁なし座布団浄I金銀浄

    後世のスリランカでパーリ語で書かれた島史には、七百けん度で十事の問題は解決はしたが、その後、七百人の結集により否定された比丘の集団が元の集団から分かれて大きく分裂したとある。

    現存する6本の律蔵のうち、摩訶僧祇律(まかそうぎりつ 大衆部の律)だけは他の5本の律とは違い、十事ではなく一事(金銀浄=金銭を受け取ること)のみの記載がある。

    現存する6本の律

    1 パーリ律(上座説部)
    2 四分律
    3 五分律
    4 十誦律
    5 根本説一切有部律
    以上の5本が上座部系の律で、十事問題を否決して解決。そして残る1本の律が、

    6 摩訶僧祇律(大衆部の律) 今は使われていないがこの1本だけが大衆部系で、他の5本の律とは違い、十事ではなく一事(金銀浄=金銭を受け取ること)のみの記載があるが、これも否決されて解決。

    そして歴史的に後世のスリランカに残る島史には、この摩訶僧祇律のことのみについて書かれており、大衆部系の比丘たちと上座部系の比丘たちの対立があり、ここで大衆部系の比丘たちがそこから離れていき仏教界が大きく二分することになる。という記載があるようだ。

    現在、大衆部と上座説部の二分の対立がここで起こったのだするものが多いようだが、これが記載されているのは、現存する6本の律ではなく、はるか後世に書かれたスリランカの島史のみなので、信用することはむつかしい。

    ※ここまでのまとめメモ
    ・律は6本現存している。
    ・6本の現存する律とは別にスリランカの島史がある。

    ・現存する6本の律には、十事問題(七百けん度=七百人の結集)につては否決という形で解決したと記載がある。
    ・しかし島史では、ここで摩訶僧祇律を取り上げそれまでの仏教界が二分したとある。

    ・島史は七百人の結集後数百年を経て書かれたものなので、その内容は歴史的事実としては捉えにくい。

    ・・大乗系と小乗系が二分した明確な確証は得られていない。→現在では、どのように分岐したのかは分かっていないが、現在、分岐していることは事実である。

    私自身が確認をとろうと思えば、6本の現存する各律の七百けん度の箇所とスリランカの島史を確認することですが、現行ではこれは不可能ですので、ここで一旦、なぜどのように大乗が生じたのかという事については、分からないということで理解しようと思います。

    今回、これを投稿しようと思ったところ、新たにレスをいただいていますので、この内容については、再度レスをさせて頂きたいと思っています。^^
引用返信/返信 削除キー/
■40987 / inTopicNo.46)  Re[31]: 般若心経
□投稿者/ akaimi -(2025/02/17(Mon) 09:25:45)
    2025/02/17(Mon) 09:40:02 編集(投稿者)
    時さん、こんにちは! レスありがとうございます。


    No40966に返信(時さんの記事)
    > 2025/02/14(Fri) 19:38:04 編集(投稿者)

    > >>私の知る原始のみの内容での空は、何かを捉えたときにはそれを空ならざる存在と捉えて、それ以外を存在しないものとして空と観よということで、村を捉えたのであれば村という単一のみを作意してそれ以外を存在しないものと観る観方をしますし、地想を捉えたのであれば、地想の単一のみを作為してそれ以外の村について空であると了知するとあります。
    >
    > >>ですので、心に浮かぶ何か、村や人々、何かの香りや空間等の中で、村に集中すればそれは空ならざるものとして存在し、それ以外のものはそこに存在しないものとして空とみなすといった記載があります。その目的は、清浄な空性の顕現のようです。

    調べたいことがあり、石飛道子先生の『ブッダと龍樹の論理学』を取り出して読んでいたら、もしかしたら時さんが書かれている内容はこれなのかな、と思うものをたまたま見つけました。
    また別のものかもですが、引用してみますね。

    ・・・・・
    「空」ということについて、ブッダがくわしく述べている経典があるので、少し長くなるが引用してみよう。『マッジマ・二カーヤ』第一二一経で、ブッダは、自分は「空性の住拠に多く住している」と禅定の境地を語っている。

    かつて、わたしは、アーナンダよ、そして、今も、空性の住拠に多く住している。
    あたかも、この鹿母堂が、空(=中にいない)であるのは、像や牛や騾馬についてであり、空であるのは、金や銀についてであり、空であるのは、男と女の集まりについてであるが、この比丘の教団による独住だけは、空ではないように、そのように、実にアーナンダよ、比丘は村の想いに集中することはなく、人の想いに集中することなく、森の想いによって独住むに専念する。かれの、森の想いに向かう心は、躍進し、喜び、確立し、信にむかう。
    かれは、このように知る。
    (すなわち)あったのは、村の想いによる不安であるが、それらはここにはない。
    あったのは、人の想いによる不安であるが、それらはここにはない。
    あるのは、この森の想いによって独住する、ただこの不安だけである。
     かれは、『空であるものは、この想いのなかにあるものであって、(それは)村の想いに対してである』と知る。『空であるのは、この想いのなかにあるものであって、(それは)人の想いに対してである』と知る。
    『あるのは、この森の想いによる独住だけであって、これだけが、空でないものである」と(知る)。
     以上のように、そこ(=甲)にまったくないそのもの(=乙)によって、そこ(=甲)を空であると見る。そこにまだ余っているものがあるとき、そこにあるそのものを『これがある』と知るのである。このように、かれには、アーナンダよ、この、如実であって転倒なき清浄な空性が顕現し存在している。(『マッジマ・二カーヤ』第一二一経)
    ・・・・・
    p226〜p227より引用

    >>たしか、「牛がいる」というときに「空ではない」、「牛がいない」というときは「空である」のような譬えもあったような記憶があるのですが、定かではありません。
    >
    > この牛の喩は、私の記憶にはありませんかね。清浄な空性の顕現を説いているようですので、一般的な我々凡夫の心といいますか頭の中にある雑多な途切れのない思考の世界を、空と空ならざるものいう表現を用いて空の状態を知るべく説かれたものだと想像します。

    この牛の譬えの経典については、Wikipediaの「空」に出ているのをこちらもたまたま見かけました。
    (もともとはどなたかネット上の方とやりとりしていた際、原始仏教での「空」について教えてもらったときに聞いたのを記憶していたのを思い出したものでした。)

    ・・・
    「この講堂には牛はいない、牛についていえば空(欠如)である。しかし比丘がおり、比丘についていえば空(欠如)ではない」 -- 『小空性経』(中部経典、中阿含経)
    ・・・No40972より

    > 例えば、村での生活の中での煩わしい人々との付き合いから離れて、湖のほとりで一人瞑想するとき、、人との付き合いの中で今まであった煩わしさは消え去っており(空な状態)で、その代わり今あるのは、空ならざる静けさがあるといった感じですね。今まであった事象がなくなることにより、今ある事象が認識できるということでしょう。これを繰り返すことにより、清浄な空性の顕現が体得できるということだと思います。
    >
    > 原始内で空として仏陀が説いたことは、このようなことだと理解しています。

    ・・・
    以上のように、そこ(=甲)にまったくないそのもの(=乙)によって、そこ(=甲)を空であると見る。そこにまだ余っているものがあるとき、そこにあるそのものを『これがある』と知るのである。このように、かれには、アーナンダよ、この、如実であって転倒なき清浄な空性が顕現し存在している。(『マッジマ・二カーヤ』第一二一経)
    ・・・
    石飛先生の本からの引用にあったこの部分になるのかなと思います。
    そうすると、時さんが書かれたこととも一致してきますよね。
    wikiに出ていた「牛と比丘の譬え」とも。

    おそらくなのですが、仏陀は「空」という言葉を用いて、相手と場合によってさまざまなことを説いたのではないかと。
    今ここで話題になっている「空」の使われ方は、「その場に欠如しているものを明らかにすることによりその場の空性を明らかにする」ということなのだと思うんです。
    また別な使われ方ということになるのかな、と思われるのもあるので、それについては後日、自分の投稿で書いてみます。

    >>根本分裂・・・再度最近購入した三枝さんという仏教学者の方の本に、結集についてなどの経緯は出ているのですが、分裂の理由についての明確な説明はなかったような気がします。(おぼろげな記憶で言ってるので違うかもですが)
    >
    > www.youtube.com/@shizukasasaki490/playlists
    > こちらのページの「ブッダ亡き後の仏教」のシリーズで説明されているようですよ。
    >
    > www.youtube.com/watch?v=bjc0UC6FOGo&list=PLmwYOQLkF8YhBkBPjjO5FiY2D4LceRR22&index=3
    > この辺りから続いていくようです。・・第二結集時に律(サンガ内での法律、規律)について金銀の解釈からそれを受け取れるか受け取れないかという問題を起点として十の問題(十事問題)が僧伽内で生じて、大問題になったのだそうですが、この十事問題をはじめとして、第一結集も第二結集も実際に行われたという確かな証拠はないのだそうです。
    >
    >>あくまで私の考えですけど、仏陀が亡くなり、自由に自分たちの考えを主張できるようになっていったから、というのはあるんだろうなと。
    >
    > 私も、仏陀の存命中ならば出来なかった各比丘の主張や行動が始まったように思えますね。
    >
    > 仏陀の時代から、どのように分裂して大乗仏教が生じたのかという私の疑問には、はっきりとは分かっていないという今現在の佐々木先生の研究結果で一応は理解しましたので、今はこれ以上は突っ込まないでおこうと思いました。^^

    時さんは、根本分裂から大乗仏教の発生に至った経緯に関心がおありなんですね。^^
    私はその部分はあまり関心がなく、今は、仏陀が語った「空」とはどういうものだったのかを自分なりに調べたいと考えています。
    その部分に気が向く間はマイペースで調べてみようかと思ってます。

    時さんも、もしよかったらこのトピに興味の向かれるところを続けて投稿してくださいね。(その際、こちらからのレスはしないと思うのですが、お気になさらず書いてくださいね。)
引用返信/返信 削除キー/
■40982 / inTopicNo.47)  Re[31]: 般若心経
□投稿者/ 時 -(2025/02/16(Sun) 18:08:50)
    2025/02/16(Sun) 22:24:52 編集(投稿者)

    失礼しました。訂正です。

    No40966に返信(時さんの記事)
    > 十事問題をはじめとして、第一結集も第二結集も実際に行われたという確かな証拠はないのだそうです。

    現存する6本の律には、第一結集後の第二結集(七百けん度)の十事問題については、解決したということの記載があるが、スリランカの島史には、第二結集時の十事問題の解決に不満を持った比丘たちが別れて2つの集団になったという事が記載されているようです。

    現存する全て(6本)の律蔵には根本分裂の記載がなく、島史では、2つに分裂したと記載があるということになるでしょうか。

    ・島史以外の現存する6本の律蔵を見ると、七百けん度の記載があるが、分裂したとの記載がないとの事です。
    ・分裂した事の記載があるのは、スリランカの島史のみのようです。
    ・分裂の原因はわからないが、分裂した事自体は事実だということでしょう。

    そして、第一結集、第二結集、十事問題も歴史的な絶対的根拠がないので、学者により意見が分かれるところで、本当にあったのかはわからないということのようですね。

    ※ akaimiさんへ。
    なかなか理解が追い付かず、ブッダ亡き後の仏教 12 あたりで、今はギブアップです。
引用返信/返信 削除キー/
■40972 / inTopicNo.48)  Re[31]: 般若心経
□投稿者/ akaimi -(2025/02/15(Sat) 14:17:01)
    2025/02/15(Sat) 14:49:22 編集(投稿者)


    スマホにて、牛が出てくる空の経典は?と調べてたらそのことがWikipediaの空のここに出てました。
    それはともかく。『空世間経』という仏典での仏陀のアーナンダへの説明は、もしや五蘊皆空に当たるのでは?と思いました。
    これに対応すると思われる記述が他の先生の本にあった気がします。
    対機説法で弟子によってはそこまで教えた、のようにあった記憶が。
    そういうことではないかもですし、とにかく後日調べてみます。

    五蘊、十二処、十八界での説明というのは、そこまで至ってない弟子たちのためのものということなのかも、という仮説的な理解もしていようと思いました。
    それともやはり、佐々木閑さんの本にあったように、五蘊、十ニ処、十八界は存在するものとしての空を仏陀は誰に対しても説いていたのかな。(佐々木閑さんの本には、誰に対してもという部分での記述はありませんが)

    ちょっと混乱してしまうのですが、あくまで、忘れないためのメモとしての意味もこめて投稿にさせてもらいます。


    以下、Wikipediaより引用
    初期仏教 編集 「常に気をつけて、世界を空であると観ぜよ」 -- 『スッタニパータ』1119偈 「この講堂には牛はいない、牛についていえば空(欠如)である。しかし比丘がおり、比丘についていえば空(欠如)ではない」 -- 『小空性経』(中部経典、中阿含経) 空世間経にて釈迦は、六根とそれにより生じる六境を挙げ、それら自己または自己に関係するあらゆるものが空であると説いている。 大徳よ、「世間は空である、世間は空である」と〔如来は〕仰られますが、 大徳よ、どのような点から「世間は空である」と仰られるのでしょうか。 アーナンダよ、我(attena)、あるいは我所(attaniyena)が空なるものであることから、「世間は空である」と〔如来は〕説くのである。 —パーリ仏典, 相応部 六処相応 空世間経 35-85, Sri Lanka Tripitaka Project 上座部仏教
    (パーリ語部分は文字化けするので引用を避けました)

    ※時さん、返信ありがとうございます。
    後日またよく拝見してから返信させてくださいね。(今日はスマホからなので)
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