TOP HELP 新着記事 ツリー表示 トピック表示 ファイル一覧 検索 過去ログ

[ 親記事をトピックトップへ ]

このトピックに書きこむ

レス数の限度を超えたのでレスできません。

(レス数限度:100 現在のレス数:100) → [トピックの新規作成]
■40603 / inTopicNo.61)  Re[21]: 大乗仏教
  
□投稿者/ akaimi -(2025/01/18(Sat) 09:36:02)
    No40552に返信(akaimiさんの記事)
    > 2025/01/14(Tue) 10:18:29 編集(投稿者)
    >
    >
    > 100分de名著『集中講義 大乗仏教』を読んでいます。
    > 対談形式ですが、読んでいくと、これまで知らなかったことがわかりやすい文章で説明されていて読んでいて楽しいです。
    > 第六講まであるので、各講で興味深く感じた部分を取り上げてみようと思います。
    >
    > まず第一講。「釈迦の仏教」から大乗仏教へ
    >
    > 著者の佐々木閑さんは、まず、釈迦の仏教と大乗仏教とは別のものだということを言われています。(p9)

    前回、「破僧の定義変更」によって大乗仏教が興る素地が作られる理由の一つとなったというのを知りました。

    今回は、「釈迦の仏教」と大乗仏教の考え方の違いについて少し投稿してみます。
    ここについては読むだけにして投稿にはしないつもりだった部分でしたが。
    原始仏教をこの本では「釈迦の仏教」として統一して呼んでいるのでここでもそれにならいます。

    ・・・・・・・・・・
    「釈迦の仏教」では、生きることは苦しみだと捉えるので、二度と生まれ変わらない涅槃に到達することを最上の安楽としてそれを目標とした。
    輪廻させているのは「業」のエネルギーで、それを作り出しているのが煩悩なので、自力で煩悩を消し去ることが修行の基本となる。(p10〜p129よりまとめました。)

    大乗仏教では、外部に超越者や不思議なパワーが存在すると想定して、自分の力ではなく「外部の力」を救いの拠り所と考えた。
    そのため自己修練のためのサンガも意義や重みがなくなってきて次第に「在家信者でも悟りの道を歩むことは可能だ」という考えが前面に出てくるようになった。(p12〜p13よりまとめました。)
    ・・・・・・・・・・

    ・・・・・・・・・・
    大乗仏教が興った時代は、インドを統一したマウリア王朝が滅び、混乱期を迎えたころで、特に北インドのガンダーラ周辺は異民族の流入により乱世状態だった。
    そうしたなかで出家生活を送ることが難しくなった情勢において、在家のまま悟りに近づける方法が模索されたことも大乗仏教が広まる一つの理由だったと考えられる。
    ・・・・・・・・・・(p33よりまとめました。)

    次回の投稿に続きます。





引用返信/返信 削除キー/
■40594 / inTopicNo.62)  大乗仏教の意義
□投稿者/ 時 -(2025/01/17(Fri) 14:59:37)
    2025/01/17(Fri) 23:46:56 編集(投稿者)

    大乗仏教の意義ということで、佐々木先生の事は全く知らず、先生のお話を今までは全く調べていませんでしたが、今回少し、さわりだけですが調べてみました。

    多分ですが、大乗仏教内でいう仏陀(如来)というのは、原始仏教でのゴータマ仏陀ではないということでしょう。ですので釈迦(ゴータマ)仏教と大乗(例えばの阿弥陀如来)仏教は違うということになる様に思いました。当時、ゴータマが説いた現在では原始仏教といわれる教えを原点として、当時のインドの輪廻思想等から、ゴータマ仏陀の死後にその思想体系が大きく変化したようですね。

    ゴータマは、長く輪廻した結果として仏陀になるという誓願(誓い)が過去世の仏陀に授記(認められ)され仏陀となったようですが、それと同じく、他の世界(多世界)では生きとし生けるもの皆を極楽(涅槃=輪廻の終焉)に導くという誓願をたてた存在があったと考えたようです。いわゆる現行での衆生済度になるでしょうか。これは多世界解釈でのパラレルワールド的な考え方で、ゴータマ仏陀は、仏になるとその過去世での仏陀に誓願して授記されましたので、当時、その努力の結果、仏陀として存在できました。それと同じロジックで、過去世の仏陀に、極楽(=涅槃)の世界を作ると誓願したものがいたと考え、それが授記されたのであれば、極楽の世界はその思想上出来上がるという事になりますね。

    そして、当時その誓願をしたものが法蔵という名前だそうで、その誓願が成就していない段階では、その存在は法蔵菩薩といわれ、それが長い時間を経て、現在では阿弥陀仏と呼ばれるようになったということでしょう。ということは、、法蔵菩薩の願った極楽が現行であるのであれば、南無阿弥陀仏と唱えるだけで、生きとし生けるものすべてがその死後に極楽に到達するということになりますね。それを願っている段階では菩薩(法蔵菩薩)ですが、現在では、その願いが叶い極楽があると考えるのであれば、菩薩から如来、つまりは、阿弥陀如来の存在がその誓願成就の証明になるということでしょう。

    今回、少しですが初めて調べてみましたが、修行により自力での涅槃=輪廻の終焉を目指すゴータマ仏教にたいして、他力で阿弥陀如来の完成された(とする)極楽に南無阿弥陀仏と念仏を唱えるとたどり着けるとする大乗の1つの浄土宗の根本的な違いを発見できたことが収穫でした。後は、大乗の考え方は、ゴータマ仏陀を起点として、多分ですが、、同じロジックだと想像します。
引用返信/返信 削除キー/
■40567 / inTopicNo.63)  Re[22]: 大乗仏教
□投稿者/ akaimi -(2025/01/15(Wed) 08:54:07)
    時さん、投稿をありがとうございます。

    No40561に返信(時さんの記事)

    > 原始には破僧という訳文での言葉は出てきませんが、その概念は当時もあったようで、そのような修行者は”捨てなさい””そのものは取り除かれるべきです”と、仏陀は他の修行者に言っていたようです。
    >
    > そして彼は、他の比丘たちを汚さないようにという理由で、収穫された麦の中からその籾殻が捨てられるように僧伽から追放されたとあります。
    >
    > 仏陀存命中には、当然、仏陀の教えを仏陀自身が説いていましたので、問題はなかったのでしょう。何かあれば、仏陀に問うことができ、その答えも仏陀自身から得ようと思えば得られたからですね。
    >
    > その仏陀の教えを受けた聖弟子が、仏陀のいないときにその教えとは違うことを言う者があらわれたときには”そのようには言ってはおられません。誹謗してはいけません”とその者をたしなめていたともあります。

    仏陀の存命中は、修行方法やその目的についての考え、理論においても一つにまとまっていたのですね。

    > ですので、龍樹が、親鸞が、空海が、ダライラマが好みならばそれはそれで良いと思いますが、それらは本来のお釈迦様の教えとは違う解釈を提唱しているという意味で、著者の意見に賛同できそうです。

    そうなんですね。^^
    佐々木さんは仏教学者で大学の教授をされている方、と著者紹介にありました。
    ・・・・・
    「釈迦の仏教」と大乗仏教の相違点を学び、ではなぜ違う考えがこの世に誕生してきたのかを知ることで、「大乗仏教の存在価値」がより明らかになってくるはずです。
    ・・・・・
    p99より引用
    と書かれていて、相違とその価値の両方を見ていらっしゃるというのがわかります。
    100分de名著で、真理のことば(ダンマパダ)、最期のことば(涅槃経)も出ているようです。

引用返信/返信 削除キー/
■40561 / inTopicNo.64)  Re[21]: 大乗仏教
□投稿者/ 時 -(2025/01/14(Tue) 14:54:11)
    akaimiさんへ。こんにちは。

    > その後、昔から伝わっているお経以外の新しいお経を作ってそれを釈迦の教えとして主張する人々が次々に出て大乗仏教が誕生することになった。(p29)

    この時点で、釈迦時代の仏教と大乗仏教とは別の道を行くものになったということですよね。その大元が、仏陀の死後に、

    > 本来のお釈迦様の教えに背く解釈を提唱し、自分の解釈に賛同する者を集めて独自の教団を作ろうとする行為

    ということで、それぞれ独自の教団を作ろうとする独自の解釈による、冠にお釈迦様の教えは〜とつけたその独自の教えが広まったのだろうと思います。

    原始には破僧という訳文での言葉は出てきませんが、その概念は当時もあったようで、そのような修行者は”捨てなさい””そのものは取り除かれるべきです”と、仏陀は他の修行者に言っていたようです。

    そして彼は、他の比丘たちを汚さないようにという理由で、収穫された麦の中からその籾殻が捨てられるように僧伽から追放されたとあります。

    仏陀存命中には、当然、仏陀の教えを仏陀自身が説いていましたので、問題はなかったのでしょう。何かあれば、仏陀に問うことができ、その答えも仏陀自身から得ようと思えば得られたからですね。

    その仏陀の教えを受けた聖弟子が、仏陀のいないときにその教えとは違うことを言う者があらわれたときには”そのようには言ってはおられません。誹謗してはいけません”とその者をたしなめていたともあります。

    ですので、龍樹が、親鸞が、空海が、ダライラマが好みならばそれはそれで良いと思いますが、それらは本来のお釈迦様の教えとは違う解釈を提唱しているという意味で、著者の意見に賛同できそうです。

    過去の一時期に世間を騒がせたオウム真理教も、マスコミに出始めたときには”これは、仏教ですね”とコメンテーターが言っていたことをうっすらと記憶していますが、今は、それぞれの仏教があっても良いのだとも思います。
引用返信/返信 削除キー/
■40552 / inTopicNo.65)  大乗仏教
□投稿者/ akaimi -(2025/01/14(Tue) 10:11:32)
    2025/01/20(Mon) 09:33:00 編集(投稿者)

    100分de名著『集中講義 大乗仏教』を読んでいます。
    対談形式ですが、読んでいくと、これまで知らなかったことがわかりやすい文章で説明されていて読んでいて楽しいです。
    第六講まであるので、各講で興味深く感じた部分を取り上げてみようと思います。

    まず第一講。「釈迦の仏教」から大乗仏教へ

    著者の佐々木閑さんは、まず、釈迦の仏教と大乗仏教とは別のものだということを言われています。(p9)

    では大乗仏教はどのようにして発生したのか。
    仏教に帰依していたアショーカ王の時代に、仏教が20ほどのグループ(部派)に分かれましたが、自分たちの正統性を主張しながらも自分たち以外の部派の存在も承認していた、とあります。(p22)
    ↑は、誤読なので、以下に直接での引用をします。

    ・・・・・
    部派仏教とは、お釈迦様の教えの解釈の違いによって、仏教世界が一気に二十ほどのグループ(部派)に分かれていった状況を指します。とは言っても完全に分裂したのではなく、「○○部」「××部」とそれぞれグループ名を名乗りながら、お互いに認め合う認め合う分岐社会がアショーカ王の時代に出きあがったのです。
    ・・・・・p22より引用

    No40643 パニチェさんのトピで指摘を受け、投稿したナンバーも掲載しておきます。

    なぜ併存できたか。
    その理由は、「破僧の定義変更」が行われたから。 
    本来のお釈迦様の教えに背く解釈を提唱し、自分の解釈に賛同する者を集めて独自の教団を作ろうとする行為が破僧だったが、全員参加の反省会とサンガの事柄を決める会議に出席している限り破僧ではない、というルールに変わり、実質、異なる解釈は認めるとなった。(p24からp27)

    その後、昔から伝わっているお経以外の新しいお経を作ってそれを釈迦の教えとして主張する人々が次々に出て大乗仏教が誕生することになった。(p29)

    ……………
    破僧の定義変更がなされた後は部派間での非難のしあいがなくなり、代わりに釈迦の仏教の解釈が多様化していったということ。
    このことを知ったのが興味深いポイントでした。


引用返信/返信 削除キー/
■40481 / inTopicNo.66)  Re[19]: NO TITLE
□投稿者/ akaimi -(2025/01/10(Fri) 12:05:56)
    No40480に返信(ディディモさんの記事)
    > しばらくの間、掲示板をお休みします。
    >
    > お付き合いしていただいてありがとうございました。
    >
    > フェードアウトしても良いと思っていましたが・・。(;^ω^)

    こちらこそありがとうございました(_ _)
    お話できてたのしかったです。
    また機会があればよろしくお願いします(^○^)
引用返信/返信 削除キー/
■40480 / inTopicNo.67)  Re[18]: NO TITLE
□投稿者/ ディディモ -(2025/01/10(Fri) 10:06:52)
    しばらくの間、掲示板をお休みします。

    お付き合いしていただいてありがとうございました。

    フェードアウトしても良いと思っていましたが・・。(;^ω^)
引用返信/返信 削除キー/
■40479 / inTopicNo.68)  Re[17]: NO TITLE
□投稿者/ akaimi -(2025/01/10(Fri) 09:39:40)
    2025/01/10(Fri) 09:44:09 編集(投稿者)

    こちらもありがとうございます。

    No40472に返信(ディディモさんの記事)
    > もう一件、レス漏れがありました。(^^;)
    >
    > >> Aの文章については上記のようにそもそも語句の解釈が異なりますので
    > >> 「疚しい良心」→「サルキコン」とだけ言及しておきましょう。
    >
    > >サルキコン? 初めて知った言葉です。
    >
    >
    > これ↑ですが・・ニートピの上段の検索窓にサルキコンと打ち込んで、検索範囲を全過去ログにして、クリックすれば、2件ヒットします。その内No19908のやや下段寄りあたりにサルキコンの用例があります。恐ろしく長い投稿なので、下記に切り取っておきます。(切り取っても長いですが・・^^;)
    >
    > この切り取りの中段ほどに次の文があります。
    >
    > 【ちなみに純粋な肉の意味のギリシャ語はサルクスです。肉のものならサルキコンです。】
    >
    > 要するに「肉のもの」という意味です。
    > akaimiさんのカキコの「罰を恐れることから他律的に発する表面的には善いと見える言動」を肉のもの、つまり霊から出たものではなく肉のものから出たものと表現したのです。

    ありがとうございます。
    サルキコンとは「肉のもの」という意味なのですね。


    > ++++++++++++++++++++++++++
    >
    > *(プネウマティコン)の原型がプネウマ、(プシュキコン)の原型がプシュケーです。
    >
    > プネウマティコン、すなわち“霊のもの”あるいは新共同訳の“霊の体”という概念が日本語になかった・・?
    > しかし無いとしても、聖書は訳さなきゃなりませんから、プネウマは一応“霊”と訳されます。そして一見・類似概念にみえるプシュケーは“霊”とも訳されますが“魂”と訳される事の方が多いです。新約で使われるこの二つのギリシャ語は、ほぼ旧約で使われるヘブライ語のルーアク(風・息・霊)とネフェシュ (精神・心・魂・霊)に対応しています。ですから共通項として、プネウマもプシュケーも“霊”と訳されてもオカシクはないんですが、風と心に関連性が薄いように、意味の相違点はあります。ところが日本では霊魂という言葉があるように、この二つを判別する考え方はありありません。
    >
    > それを踏まえて、この↓ギリシャ語入りの聖句を読み直してみれば
    >
    > ★最初にあったのは、霊のもの(プネウマティコン)ではなく肉のもの(プシュキコン)であって、その後に霊のもの(プネウマティコン)が来るのである。
    >
    > 奇妙なところに気づく筈です。
    >
    > ここではプシュキコン(霊)が“肉のもの”あるいは新共同訳では“自然の命の体”と訳されており、霊とは真逆の対立概念に訳されています。
    > ちなみに純粋な肉の意味のギリシャ語はサルクスです。肉のものならサルキコンです。
    >
    > これはですね・・肉体の中の心理と理解すれば・・解りやすいです。ですからこの聖句の中では、プシュキコンを肉のものと言う意味で・・こちらを使っています。
    >
    > つまり、人の心にあるもの・・それを魂と呼び、“霊”と呼ぶんですね。これがプシュキコンです。

    魂が肉体のなかに見えないけれどあるのだ、ということでの、魂=霊=プシュキコン。

    魂=霊というものと無関係に(それからの影響無しにといったらいいか)が、サルキコン(肉のもの)ということなのかな。そんなふうに理解したのですが、違ってたらすみません。

    そして、私が書いた、「罰を恐れることから他律的に発する表面的には善いと見える言動」というのは、サルキコン(肉のもの)に当たると。
    そうすると、恐怖、欠乏に支配されていて安心感がない、そんな心の様子が「肉のもの」には込められているのかなと思います。

    > 対して、プネウマティコンには、人には抗しがたいところの“風”の意味があり、この人知を越えたものを“霊”と呼ぶんです。・・二通りの“霊”があるんですね。
    >
    > これをあっさり纏めると、プシュケーは人に属する霊、プネウマは神に属する霊、ということになります。明治期まで(絶対)神の概念のない日本人に、プネウマ(神に属する霊)という概念があるハズがありません。聖霊の原語はプネウマ・ハギオンであって、決してプシュケーではないのです。
    > プシュケーは霊肉二元論のときは使います。すなわち前回言った様に、ユダヤ人を除いたほとんどの民族も、人を「霊魂(プシュケー)と肉体(サルクス)」という分け方をしてきてきました。この場合、死んで肉体が滅びて霊魂が残ると、肉なき幽霊や亡霊ということになります。この場合の霊はプネウマではあり ません、人に属する霊ですからプシュケーです。

    ありがとうございます。
引用返信/返信 削除キー/
■40478 / inTopicNo.69)  Re[16]: NO TITLE
□投稿者/ akaimi -(2025/01/10(Fri) 09:22:39)
    2025/01/10(Fri) 09:24:41 編集(投稿者)

    ディディモさん、教えていただいてありがとうございます。

    No40470に返信(ディディモさんの記事)

    > その日、戻りカツオが獲れたと言うので、夜にはそこで飲み会になりました。そういう席では彼もさすがに冗舌になり・・やがて席に着いた私の掌を手に取り、それをジッと眺めながら、
    >
    > 「・・ディディモさんは次男で生まれたのに、墓守をしてるんだよね・・・」
    >
    > いきなりそう言われたので、驚くというよりもむしろ感心してしまいました。
    > 図星なんです・・私の兄が若いころに海で遭難死して、私が一家の祭祀を継いでいることを知っていたんです。
    >
    > それまで彼に私のプライベートなことは一度も喋ったことはありません。
    > (そのヒントになることも、仄めかしたことも一切ありません。)
    > またあの時、答えを誘導されるような問いかけを受ける事もありませんでした。私の意識も極めて明瞭で、暗示にかかるような状態では全くなかった。

    ディディモさんの掌をゴウさんが手に取ったら(手相を見たのでしょうか?)、ゴウさんにはそういうインスピレーションが浮かんできた、ってことなのかな。
    すごいです!
    他の方についてもたびたび同じようにわかってしまうのかもしれませんね。

    > 私は明治時代に起きた御船千鶴子や長尾郁子による千里眼事件を知っていたので驚きはしなかったのです・・千里眼との評判の立った女性に当時の帝国大学の科学者たちが様々な実験をして検証したという事件です。封印した文字を色々な条件を変えて当てさせるという透視実験をしたそうですが、一定の条件の下ではよく当たったそうです。その一定の条件というのが検証者に背を向けて座った時や、手の動きが見えない姿勢の時だったそうで、結局「千里眼は科学に非ず」とのことでした。さもありなん、でしょうが・・今回の私のケースはモノ(文字)を当てるのではなく、過去の出来事を当てるのですから、私がしゃべらない限り分かる筈がないのです。その過去を知っているのはそこにいた連中の中で私だけです・・もう一度言いますが、分かる筈がない・・。

    千里眼事件、ごくわずかに聞いたことがあります。
    女性たちは気の毒なことになってしまったそうですよね。
    やはりなかなか信じてはもらいにくいものなのだと思います。

    > あの出来事をどう理解したら良いのか、今もって分からないのです。いや判らないままにしておいた方が良いのでしょうね、きっと。

    ゼロポイントフィールド(アカシックレコードと同じようなもの)という量子真空に本来人は誰でも繋がっていて、そこから情報を受け取れる人がいる、特別な人でなくてもそれがなされる場合もよくあるもの(虫の知らせのような不思議な体験)、というようなことが書かれた本を読んだことがあり、最近また読んでみています。
    『死は存在しない 最先端量子科学が示す新たな仮説』田坂広志 著
    以前、ニーチェクラブで話題になった本です。
    ここでの仮説が本当なら、知るはずのないことを知る力もゼロポイントフィールドから受け取っているのかもです。

    > ゴウさんは数年前に大病されて、その時からあの公式ホームページも削除されています・・ので、もう連絡も取れない状態です。

    そうだったのですね。

    そうだ。書き忘れるところでした。
    実は、ディディモさんご自身になんらかの能力があることを、ゴウさんとのやりとりで見つけられた(指摘された)、という話なのかなと勘違いしておりました(;^_^A
    そうではなかったのですね。
    こういうところを正直に書いておかねばと思いまして(^^)

引用返信/返信 削除キー/
■40472 / inTopicNo.70)  Re[16]: NO TITLE
□投稿者/ ディディモ -(2025/01/09(Thu) 21:18:44)
    もう一件、レス漏れがありました。(^^;)

    >> Aの文章については上記のようにそもそも語句の解釈が異なりますので
    >> 「疚しい良心」→「サルキコン」とだけ言及しておきましょう。

    >サルキコン? 初めて知った言葉です。


    これ↑ですが・・ニートピの上段の検索窓にサルキコンと打ち込んで、検索範囲を全過去ログにして、クリックすれば、2件ヒットします。その内No19908のやや下段寄りあたりにサルキコンの用例があります。恐ろしく長い投稿なので、下記に切り取っておきます。(切り取っても長いですが・・^^;)

    この切り取りの中段ほどに次の文があります。

    【ちなみに純粋な肉の意味のギリシャ語はサルクスです。肉のものならサルキコンです。】

    要するに「肉のもの」という意味です。
    akaimiさんのカキコの「罰を恐れることから他律的に発する表面的には善いと見える言動」を肉のもの、つまり霊から出たものではなく肉のものから出たものと表現したのです。

    ++++++++++++++++++++++++++

    *(プネウマティコン)の原型がプネウマ、(プシュキコン)の原型がプシュケーです。

    プネウマティコン、すなわち“霊のもの”あるいは新共同訳の“霊の体”という概念が日本語になかった・・?
    しかし無いとしても、聖書は訳さなきゃなりませんから、プネウマは一応“霊”と訳されます。そして一見・類似概念にみえるプシュケーは“霊”とも訳されますが“魂”と訳される事の方が多いです。新約で使われるこの二つのギリシャ語は、ほぼ旧約で使われるヘブライ語のルーアク(風・息・霊)とネフェシュ (精神・心・魂・霊)に対応しています。ですから共通項として、プネウマもプシュケーも“霊”と訳されてもオカシクはないんですが、風と心に関連性が薄いように、意味の相違点はあります。ところが日本では霊魂という言葉があるように、この二つを判別する考え方はありありません。

    それを踏まえて、この↓ギリシャ語入りの聖句を読み直してみれば

    ★最初にあったのは、霊のもの(プネウマティコン)ではなく肉のもの(プシュキコン)であって、その後に霊のもの(プネウマティコン)が来るのである。

    奇妙なところに気づく筈です。

    ここではプシュキコン(霊)が“肉のもの”あるいは新共同訳では“自然の命の体”と訳されており、霊とは真逆の対立概念に訳されています。
    ちなみに純粋な肉の意味のギリシャ語はサルクスです。肉のものならサルキコンです。

    これはですね・・肉体の中の心理と理解すれば・・解りやすいです。ですからこの聖句の中では、プシュキコンを肉のものと言う意味で・・こちらを使っています。

    つまり、人の心にあるもの・・それを魂と呼び、“霊”と呼ぶんですね。これがプシュキコンです。
    対して、プネウマティコンには、人には抗しがたいところの“風”の意味があり、この人知を越えたものを“霊”と呼ぶんです。・・二通りの“霊”があるんですね。

    これをあっさり纏めると、プシュケーは人に属する霊、プネウマは神に属する霊、ということになります。明治期まで(絶対)神の概念のない日本人に、プネウマ(神に属する霊)という概念があるハズがありません。聖霊の原語はプネウマ・ハギオンであって、決してプシュケーではないのです。
    プシュケーは霊肉二元論のときは使います。すなわち前回言った様に、ユダヤ人を除いたほとんどの民族も、人を「霊魂(プシュケー)と肉体(サルクス)」という分け方をしてきてきました。この場合、死んで肉体が滅びて霊魂が残ると、肉なき幽霊や亡霊ということになります。この場合の霊はプネウマではあり ません、人に属する霊ですからプシュケーです。
引用返信/返信 削除キー/
■40470 / inTopicNo.71)  Re[15]: NO TITLE
□投稿者/ ディディモ -(2025/01/09(Thu) 20:18:37)
    今までのやり取りの中で、レス漏れがあったのでお答えしておきます。

    >ゴウさん、ヤフーで私も投稿を拝見したことがあります。

    >ディディモさんは直接に会われたことがあるんですね。
    >そこでいわゆる霊能というか科学的には解明されていない能力があるということを実感されたのですね。
    >どういう種類のものなんだろう、すごく興味があります!
    >差し支えなければ、その際の状況も含め、どういう能力なのかについて教えていただけると嬉しすぎです。

    彼とは polestar(東山寺ガードナー)さんの個人掲示板のオフ会とか、愚さんのKB会とかで何度か話をしたことがあります。
    そういう席ではスッと背筋を伸ばし、寡黙ながらも真っ当な宗教の話をされます。

    ただ、一度教団の本部道場のようなところに伺いました・・チベット密教の師僧の写真を拝見し、私はマニ車を回してきました。^^;

    その日、戻りカツオが獲れたと言うので、夜にはそこで飲み会になりました。そういう席では彼もさすがに冗舌になり・・やがて席に着いた私の掌を手に取り、それをジッと眺めながら、

    「・・ディディモさんは次男で生まれたのに、墓守をしてるんだよね・・・」

    いきなりそう言われたので、驚くというよりもむしろ感心してしまいました。
    図星なんです・・私の兄が若いころに海で遭難死して、私が一家の祭祀を継いでいることを知っていたんです。

    それまで彼に私のプライベートなことは一度も喋ったことはありません。
    (そのヒントになることも、仄めかしたことも一切ありません。)
    またあの時、答えを誘導されるような問いかけを受ける事もありませんでした。私の意識も極めて明瞭で、暗示にかかるような状態では全くなかった。

    私は明治時代に起きた御船千鶴子や長尾郁子による千里眼事件を知っていたので驚きはしなかったのです・・千里眼との評判の立った女性に当時の帝国大学の科学者たちが様々な実験をして検証したという事件です。封印した文字を色々な条件を変えて当てさせるという透視実験をしたそうですが、一定の条件の下ではよく当たったそうです。その一定の条件というのが検証者に背を向けて座った時や、手の動きが見えない姿勢の時だったそうで、結局「千里眼は科学に非ず」とのことでした。さもありなん、でしょうが・・今回の私のケースはモノ(文字)を当てるのではなく、過去の出来事を当てるのですから、私がしゃべらない限り分かる筈がないのです。その過去を知っているのはそこにいた連中の中で私だけです・・もう一度言いますが、分かる筈がない・・。

    あの出来事をどう理解したら良いのか、今もって分からないのです。いや判らないままにしておいた方が良いのでしょうね、きっと。

    ゴウさんは数年前に大病されて、その時からあの公式ホームページも削除されています・・ので、もう連絡も取れない状態です。


引用返信/返信 削除キー/
■40449 / inTopicNo.72)  Re[17]: NO TITLE
□投稿者/ akaimi -(2025/01/08(Wed) 11:46:24)
    ディディモさん、投稿ありがとうございます。^^

    No40439に返信(ディディモさんの記事)

    > 「良心」に対する見解が、何故私とakaimiさんでは真逆になったか、という問題について一寸書いてみます。

    はい、ありがとうございます(*^^)v

    > 私が最初にウィキの【英語ではgood conscience と evil conscience という表現が存在する】という記事を見た時にピンと来た事なんですが・・これは「良心」という日本語の字義とは違って、キリスト教圏(英語やドイツ語)の言葉には良心に「良い良心」と「悪い良心」という表現が存在するという・・それならば、彼らのその良心という言葉の出自は「霊(プネウマ)」という言葉からで、そこから意味論的に派生していったものではないか、と思い付いたのです。何故なら「霊」ならばギリシャ語で「聖霊(プネウマ・ハギオン)」という言い方もあるし「悪霊(プネウマ・ポネーロン)」という言い方もあるからです・・同型ではないか、これは臭いと。(おそらく言語学的には的を外しているでしょうけど、思い付いたことは正直に言います。^^;)
    > そのことから私は、今回の問題については「良心」を「霊」に読み替えて解釈していたのです。

    なるほど、おもしろいです。

    > ところがこの「霊」がくせ者なんです。日本語の霊とはかなりその意味が違う。まず上記の「霊(プネウマ)」がありますが、もうひとつ「霊(プシュケー)」があります。プネウマの原意は風・息で、プシュケーのそれは心・精神です。ですから、プネウマは人間の随意にはならない「神からの風・霊」。それに対してプシュケーは「人間の内側にある心・精神」を指します・・つまり、プシュケーは霊とも訳されますが、魂とも、あるいは生命とも訳されます。この違いを乱暴ですが要約しますと「霊(プネウマ)」は神に属する霊、「霊(プシュケー)」は人に属する霊、魂、となります。

    「霊」と言われるものは、プネウマと呼ばれるものと、プシュケーと呼ばれるものがある、ということですね。
    プネウマは、人間の随意にはならない神に属するもので、プシュケーは、魂あるいは生命を表し人に属する。

    > 「霊(プネウマ)」は神に属する霊ですから、当然「聖霊(プネウマ・ハギオン)には人に属するプシュケーではなく神に属するプネウマを使いますが・・「悪霊(プネウマ・ポネーロン)」に何故神に属する霊すなわちプネウマを使うのか?という疑問が生まれますが、「主の霊はサウルから離れ、主から来る悪霊が彼をさいなむようになった」(サムエル記上16;14)とある通り、悪霊も神の支配下にあるとされているからです。

    主から来る悪霊が彼をさいなむようになった、とあるのですね。
    つまり、悪霊も神の支配下にあると。

    > で、さきほど「プネウマは人間の随意にはならない」と書きましたが、この霊は人間側のあらゆる条件の考慮なしで・・突然、人の外側から来ます。・・なにしろ“風”ですからね。^^;

    はい。

    > まぁ、こういう霊すなわちプネウマは日本には存在しません。神の霊、新約時代には聖霊・・としてキリスト教の重要な教義となったその霊、これは神の創造という概念と感覚がなく、人間による創造しかない日本では登場できません。「幽霊の正体見たり枯れ尾花」というように、恐怖心や猜疑心が幽霊を創造すること、つまりこれは人間の側が創造した事を意味した箴言ですから、上記の段で言えば“心”すなわちプシュケーの方の創造になります。

    日本でも悪霊の祟りなんていう話はいろいろありますけど、それはあくまでその悪霊が祟るのであって、神のような存在が悪霊を遣わすのではないですものね。

    > 私は今回「良心」を「霊」に読み替えたと言いました。
    > それが私の言説、
    > 「良心というのは、誰かに何かに“強制されて”“他律的に”善いとされる言動を“させられる”心、精神を指す」
    > となったのです。
    > そこにある「誰かに」とは、プネウマ・霊です。あくまでも外側から来るものです。内側の心が作る(創造する)ものではありません

    なるほどです。
    ということは、誰かが善良な行動をするとします。その人のその善良な行動は、聖霊(プネウマ・ハギオン)がその人にもたらしたものとなるのですか?

    > akaimiさんの言説の
    > 「良心というのは、誰かに何かに強制されなくても自発的に善いと思う言動ができる心、精神を指す。」
    > の「誰かに」はあくまでも人間ですから“強制されなくても”“自発的”に“できる”のでしょうね。

    「誰かに」は、おっしゃるように人間を想定しました。
    「何かに」は、法律です、あとなんだろう? 自分で書いておいていまさらですが(;^_^A

    > ・・ということで私とakaimiさんの言説は真逆になったのでござりまする。( -ω-)y─┛~~~
    >
    > スミマセン、一杯機嫌の投稿になりました・・論旨の乱れはご容赦を。

    とても興味深いお話でした。 ありがとうございます!

    > 私の散歩道です↓・・川沿いの細道に椿が綺麗に咲いていました。パチリ!(^O^)

    やはり暖かいんですね、椿が満開で綺麗です(^^♪
    寒い時の暖色の花は元気が出る気がしますよね。
引用返信/返信 削除キー/

<前の12件 | 次の12件>

トピック内ページ移動 / << 0 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 >>
Mode/  Pass/

TOP HELP 新着記事 ツリー表示 トピック表示 ファイル一覧 検索 過去ログ

- Child Tree -