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■40966 / inTopicNo.49)  Re[30]: 般若心経
  
□投稿者/ 時 -(2025/02/14(Fri) 19:19:35)
    2025/02/14(Fri) 19:38:04 編集(投稿者)

    akaimiさんへ。こんにちは。返信をありがとうございます。

    No40960に返信(akaimiさんの記事)
    > そうかもですね。空の思想だけでなく原始仏教でも当然のことながら、「真の実在」という表現は本来は成り立たないとは私も考えました。
    > 仏陀はそれらを「在る」ということにして説明した、ってことなんじゃないのかな、というのは思いました。
    > ですから、時さんがおっしゃられるように、般若心経との比較においてわかりやすくするために佐々木さんはこのような表現をされたのかもしれません。

    原始の日本語訳を読みますと、実在と存在やある(在る)という表現がされていますが、実在等の定義らしきものはありませんで、存在の方はあるのですね。

    原始内では、堅固で恒常な不変易の性質ある五蘊は存在しなくて、無常で苦なる変易易の性質ある五蘊は存在するといっています。つまりは、存在とは、無常なる性質(五蘊)で、存在しないのは、恒常なる性質(五蘊)だといえそうです。

    ですので、実在と存在のパーリ語の語元が同じならば、真も何も、一切が無常な状態ということになりますね。しかし先生が日本の学生たちに教えるときには、分かりやすく真の実在という表現をされたのだろうと思いました。

    >>私の知る原始のみの内容での空は、何かを捉えたときにはそれを空ならざる存在と捉えて、それ以外を存在しないものとして空と観よということで、村を捉えたのであれば村という単一のみを作意してそれ以外を存在しないものと観る観方をしますし、地想を捉えたのであれば、地想の単一のみを作為してそれ以外の村について空であると了知するとあります。

    >>ですので、心に浮かぶ何か、村や人々、何かの香りや空間等の中で、村に集中すればそれは空ならざるものとして存在し、それ以外のものはそこに存在しないものとして空とみなすといった記載があります。その目的は、清浄な空性の顕現のようです。

    > たしか、「牛がいる」というときに「空ではない」、「牛がいない」というときは「空である」のような譬えもあったような記憶があるのですが、定かではありません。

    この牛の喩は、私の記憶にはありませんかね。清浄な空性の顕現を説いているようですので、一般的な我々凡夫の心といいますか頭の中にある雑多な途切れのない思考の世界を、空と空ならざるものいう表現を用いて空の状態を知るべく説かれたものだと想像します。

    例えば、村での生活の中での煩わしい人々との付き合いから離れて、湖のほとりで一人瞑想するとき、、人との付き合いの中で今まであった煩わしさは消え去っており(空な状態)で、その代わり今あるのは、空ならざる静けさがあるといった感じですね。今まであった事象がなくなることにより、今ある事象が認識できるということでしょう。これを繰り返すことにより、清浄な空性の顕現が体得できるということだと思います。

    原始内で空として仏陀が説いたことは、このようなことだと理解しています。

    >>原始に、婆羅門の一人が仏陀に対して「私は自己による行為は存在しない。他者による行為は存在しない」という見解の持ち主です。といいます。これに対して仏陀は「そのような見解は見たくも聞きたくもありません」と完全否定している経典があります。

    > 六師外道と言われる人々の仲間になるのでしょうか。

    原始内で、有情の雑染のための因はなく、縁はない。因なく縁なくして有情は汚れ、有情の清浄のための因はなく、縁はない。因なく縁なくして、有情は清まるのである。といった一人の外道の言があるようですので、もしかすると仲間だったのかもしれませんが、上記の婆羅門については外道との記載はないようですね。

    > >>『般若心経』の場合、私たち人間が想定する一切の区分を否定し、この世の在り方を、「区分のない一つの総体」としてとらえます。

    >>自己による行為、他者による行為という区分を存在しないということで否定した婆羅門の見解を仏陀は否定しましたが、多分、般若心経の中での世界観では肯定するということでしょうか。。

    > 『般若心経』の一部分から引用してみます。
    > ・・・・・
    > 舎利子
    > 色不異空 空不異色
    > 色則是空 空即是色
    > 受想行識 亦復如是

    > 【訳】
    > 舎利子よ、
    > この世の「物質要素」(色)は「実体がないという状態」(空性)であり、「実体がないという状態」が「物質要素」である。
    > 「物質要素」(色)は「実体がないという状態」(空性)と別ものではなく、「実体がないという状態」は「物質要素」とは別ものではない。
    > 「物質要素」(色)が「実体がないという状態」(空性)なのであり、「実体がないという状態」が「物質要素」なのである。
    > [五蘊のその他の要素である]「感受作用」(受)、「構想作用」(想)、「意思作用およびその他の様々な心の作用」(行)、「認識作用」(識)についても、「物質要素」(色)と全く同じことが言える。
    > ・・・・・
    > 100分de名著『般若心経』佐々木閑 著 p46〜p47から引用

    > ・・・・・
    > 「釈迦の仏教」では、「私たちを形成する基本要素」である五蘊は確かに実在する、と言っているのですが、ここではそれを「実在しない」と言います。
    > 五蘊とは実在の要素ではなく、「実体をもたないという状態」に与えられた仮の名称だ、と言うのです。
    > ・・・・・
    > 同書p46〜p47から引用

    > 二つの引用からも考えるに、その婆羅門の言い分と『般若心経』の語りはまた別なものであると私には思えます。

    > >>『般若心経』の場合、私たち人間が想定する一切の区分を否定し、この世の在り方を、「区分のない一つの総体」としてとらえます。<<同書p135より
    > というのを前の私の投稿でも書きましたが、
    > これが、色即是空の部分だと考えています。
    > しかし、色即是空は空即是色と対になっていますので。

    失礼しました。私の読解不足でした。ご指摘後に考えますと、多分、般若心経ではなくて、龍樹の中論あたりの断片的な空のイメージをしていたのだろうと思います。

    > 動画を拝見しました。昔のお坊さんたち(日本のだと思います)は、阿含経より大乗仏教のほうが優れているという考えの人が多かったというお話をされていますね。
    > 日本に広まったのは大乗仏教だったので自然にそのように考えられてきたのでしょうね。
    > しかし、順序というか歴史の流れがあり、釈迦の仏教の後に大乗仏教が生まれてきたのであり、どちらが優れているという話ではない、と。

    はい。そうですね。

    上記の「〜よりも私は優れている、〜と同等だ、〜よりも劣っている」といった想いがあると争いが起こる要因になりますし、これら3つの慢を取り除くために行われるのが、八支聖道の修習です。といった記載が原始にはあるのですね。

    > 根本分裂・・・再度最近購入した三枝さんという仏教学者の方の本に、結集についてなどの経緯は出ているのですが、分裂の理由についての明確な説明はなかったような気がします。(おぼろげな記憶で言ってるので違うかもですが)

    www.youtube.com/@shizukasasaki490/playlists
    こちらのページの「ブッダ亡き後の仏教」のシリーズで説明されているようですよ。

    www.youtube.com/watch?v=bjc0UC6FOGo&list=PLmwYOQLkF8YhBkBPjjO5FiY2D4LceRR22&index=3
    この辺りから続いていくようです。・・第二結集時に律(サンガ内での法律、規律)について金銀の解釈からそれを受け取れるか受け取れないかという問題を起点として十の問題(十事問題)が僧伽内で生じて、大問題になったのだそうですが、この十事問題をはじめとして、第一結集も第二結集も実際に行われたという確かな証拠はないのだそうです。

    > あくまで私の考えですけど、仏陀が亡くなり、自由に自分たちの考えを主張できるようになっていったから、というのはあるんだろうなと。

    私も、仏陀の存命中ならば出来なかった各比丘の主張や行動が始まったように思えますね。

    仏陀の時代から、どのように分裂して大乗仏教が生じたのかという私の疑問には、はっきりとは分かっていないという今現在の佐々木先生の研究結果で一応は理解しましたので、今はこれ以上は突っ込まないでおこうと思いました。^^
引用返信/返信 削除キー/
■40960 / inTopicNo.50)  Re[29]: 般若心経
□投稿者/ akaimi -(2025/02/14(Fri) 10:46:29)
    2025/02/14(Fri) 11:02:41 編集(投稿者)
    時さん、こんにちは! 投稿ありがとうございます。


    No40957に返信(時さんの記事)
    > 2025/02/13(Thu) 20:32:29 編集(投稿者)

    > 大乗仏教の教義とともにそれが誕生した経緯を知りませんでしたので、とても興味深く読ませていただいています。^^

    ありがとうございます。(^^)

    >>真の実在は、「五蘊」「十二処」「十八界」の各項目だけということになります。
    >>これが、釈迦の言った「ここに自分というものがあるという思いを取り除き、この世のものは空であると見よ」の意味です。
    >
    > www.youtube.com/watch?v=VLiFmTujoVc&list=PLmwYOQLkF8YgOUHA24lG2-JueW4nri2fB
    > こちらのシリーズ他の動画を見ましたが、佐々木先生には珍しくはっきりとした表現をされていますね。もちろんこの切り取り方をすればこのような表現にもなると思いますが、少しだけ引っかかったのが「真の実在は、「五蘊」「十二処」「十八界」の各項目だけということになります。」というところですが、これも空の大乗との比較により生まれた表現だろうと思いました。

    そうかもですね。空の思想だけでなく原始仏教でも当然のことながら、「真の実在」という表現は本来は成り立たないとは私も考えました。
    仏陀はそれらを「在る」ということにして説明した、ってことなんじゃないのかな、というのは思いました。
    ですから、時さんがおっしゃられるように、般若心経との比較においてわかりやすくするために佐々木さんはこのような表現をされたのかもしれません。

    > 私の知る原始のみの内容での空は、何かを捉えたときにはそれを空ならざる存在と捉えて、それ以外を存在しないものとして空と観よということで、村を捉えたのであれば村という単一のみを作意してそれ以外を存在しないものと観る観方をしますし、地想を捉えたのであれば、地想の単一のみを作為してそれ以外の村について空であると了知するとあります。
    >
    > ですので、心に浮かぶ何か、村や人々、何かの香りや空間等の中で、村に集中すればそれは空ならざるものとして存在し、それ以外のものはそこに存在しないものとして空とみなすといった記載があります。その目的は、清浄な空性の顕現のようです。

    たしか、「牛がいる」というときに「空ではない」、「牛がいない」というときは「空である」のような譬えもあったような記憶があるのですが、定かではありません。

    > これは、空ではない存在と空なる非存在との各認識の体得になるでしょうか。つまりは、何か一つを認識対象とした場合に、それは存在して空ならざるもの。それ以外を非存在としての空と表現しているのだと理解しています。

    はい。

    > 原始に、婆羅門の一人が仏陀に対して「私は自己による行為は存在しない。他者による行為は存在しない」という見解の持ち主です。といいます。これに対して仏陀は「そのような見解は見たくも聞きたくもありません」と完全否定している経典があります。

    六師外道と言われる人々の仲間になるのでしょうか。

    >>『般若心経』の場合、私たち人間が想定する一切の区分を否定し、この世の在り方を、「区分のない一つの総体」としてとらえます。
    >
    > 自己による行為、他者による行為という区分を存在しないということで否定した婆羅門の見解を仏陀は否定しましたが、多分、般若心経の中での世界観では肯定するということでしょうか。。

    『般若心経』の一部分から引用してみます。
    ・・・・・
    舎利子
    色不異空 空不異色
    色則是空 空即是色
    受想行識 亦復如是

    【訳】
    舎利子よ、
    この世の「物質要素」(色)は「実体がないという状態」(空性)であり、「実体がないという状態」が「物質要素」である。
    「物質要素」(色)は「実体がないという状態」(空性)と別ものではなく、「実体がないという状態」は「物質要素」とは別ものではない。
    「物質要素」(色)が「実体がないという状態」(空性)なのであり、「実体がないという状態」が「物質要素」なのである。
    [五蘊のその他の要素である]「感受作用」(受)、「構想作用」(想)、「意思作用およびその他の様々な心の作用」(行)、「認識作用」(識)についても、「物質要素」(色)と全く同じことが言える。
    ・・・・・
    100分de名著『般若心経』佐々木閑 著 p46〜p47から引用

    ・・・・・
    「釈迦の仏教」では、「私たちを形成する基本要素」である五蘊は確かに実在する、と言っているのですが、ここではそれを「実在しない」と言います。
    五蘊とは実在の要素ではなく、「実体をもたないという状態」に与えられた仮の名称だ、と言うのです。
    ・・・・・
    同書p46〜p47から引用

    二つの引用からも考えるに、その婆羅門の言い分と『般若心経』の語りはまた別なものであると私には思えます。

    >>『般若心経』の場合、私たち人間が想定する一切の区分を否定し、この世の在り方を、「区分のない一つの総体」としてとらえます。<<同書p135より
    というのを前の私の投稿でも書きましたが、
    これが、色即是空の部分だと考えています。
    しかし、色即是空は空即是色と対になっていますので。

    > まるで、スタート地点とゴール地点が同じなのだから、ここから長いマラソンはしなくても同じ位置だといっているようにも観えますね。ということで、今のところ、見方によれば大乗の空の思想は、なるほど仏教哲学としての最たるものなのかもしれないなぁと思いました。
    >
    > www.youtube.com/watch?v=-nH7Rewh-Bw
    > 今となっては、「阿含経」で生きる人、「般若心経」で生きる人。それぞれで良いのではないでしょうか。無常なる様相の世界観で生じたものは必ず滅するのですから。

    動画を拝見しました。昔のお坊さんたち(日本のだと思います)は、阿含経より大乗仏教のほうが優れているという考えの人が多かったというお話をされていますね。
    日本に広まったのは大乗仏教だったので自然にそのように考えられてきたのでしょうね。
    しかし、順序というか歴史の流れがあり、釈迦の仏教の後に大乗仏教が生まれてきたのであり、どちらが優れているという話ではない、と。

    > 今のところ私の知る範囲でのインド哲学の中でのもので、空の思想はやはり四句分別の4番目である不一不二の領域としか認識できないですかね。雑感としては、私が一番知りたかった仏陀の時代からどのように、なぜ根本分裂が生じたのか?という明確な史料がないようで、そこは少し残念でしたが、少し前に佐々木先生の教室で講義を受けていたのであれば、、私としては、いろいろと楽しかっただろ言うなぁと思いました。^^

    根本分裂・・・再度最近購入した三枝さんという仏教学者の方の本に、結集についてなどの経緯は出ているのですが、分裂の理由についての明確な説明はなかったような気がします。(おぼろげな記憶で言ってるので違うかもですが)

    あくまで私の考えですけど、仏陀が亡くなり、自由に自分たちの考えを主張できるようになっていったから、というのはあるんだろうなと。



引用返信/返信 削除キー/
■40957 / inTopicNo.51)  Re[28]: 般若心経
□投稿者/ 時 -(2025/02/13(Thu) 17:25:53)
    2025/02/13(Thu) 20:32:29 編集(投稿者)

    akaimiさんへ。こんにちは。

    大乗仏教の教義とともにそれが誕生した経緯を知りませんでしたので、とても興味深く読ませていただいています。^^

    No40940に返信(akaimiさんの記事)
    > 「ここに自分というものがある」という思いを取り除き、この世のものは空であると見よ。(『スッタニパータ』1119)
    > これが、釈迦の説いた「空」です。一見、「色即是空」ととてもよく似ています。
    > そのため、ときおり、『般若心経』が説く「空」は大乗仏教の発明ではなく、仏教の創始以来受け継がれてきた釈迦の思想そのものだと言われることがあります。しかし、そうではないのです。

    このあたりの漠然とした違いではなく、原始と大乗との対比からくる空のはっきりとした区別は、原始のみの経典からでは読み解けないことですね。

    > 真の実在は、「五蘊」「十二処」「十八界」の各項目だけということになります。
    > これが、釈迦の言った「ここに自分というものがあるという思いを取り除き、この世のものは空であると見よ」の意味です。

    www.youtube.com/watch?v=VLiFmTujoVc&list=PLmwYOQLkF8YgOUHA24lG2-JueW4nri2fB
    こちらのシリーズ他の動画を見ましたが、佐々木先生には珍しくはっきりとした表現をされていますね。もちろんこの切り取り方をすればこのような表現にもなると思いますが、少しだけ引っかかったのが「真の実在は、「五蘊」「十二処」「十八界」の各項目だけということになります。」というところですが、これも空の大乗との比較により生まれた表現だろうと思いました。

    私の知る原始のみの内容での空は、何かを捉えたときにはそれを空ならざる存在と捉えて、それ以外を存在しないものとして空と観よということで、村を捉えたのであれば村という単一のみを作意してそれ以外を存在しないものと観る観方をしますし、地想を捉えたのであれば、地想の単一のみを作為してそれ以外の村について空であると了知するとあります。

    ですので、心に浮かぶ何か、村や人々、何かの香りや空間等の中で、村に集中すればそれは空ならざるものとして存在し、それ以外のものはそこに存在しないものとして空とみなすといった記載があります。その目的は、清浄な空性の顕現のようです。

    これは、空ではない存在と空なる非存在との各認識の体得になるでしょうか。つまりは、何か一つを認識対象とした場合に、それは存在して空ならざるもの。それ以外を非存在としての空と表現しているのだと理解しています。

    それと存在と実在の言葉の表現ですが、これは、語元をたどるとどうも同じ語元を存在、実在と文脈により使い分けているような気がします。丁度、無我と非我の語元が同じで訳文にするときに訳者の感覚で使い分けている事と同じような気がしました。

    これで冒頭の「ここに自分というものがある」という思いを取り除き、この世のものは空であると見よ。(『スッタニパータ』1119)ということを考察しますと、この世のもは空であると観るならば、死を乗り越えることができるであろう。このように世界を観ずる人を、死の王は、見ることがない。ということで、仏陀は、輪廻の終焉を目的として説いているのだと思いました。

    > 仏陀も「空」については説いていた(スッタニパータにも「空」は出てくるしと)、と漠然とこれまで考えていましたが、仏陀の「空」の意味はこういうことだったのかと今更ながら確認できました。
    > 「集積し絡まりあってできている何ものか」というのが引用中にもありますが、実在とされる「五蘊」などとして示される諸要素の組み合わせによって因って起こる、したがって「空」なのだ、ということなのだと理解しました。(a)

    > では、『般若心経』では何を「空」だとしているのか、になりますね。(a)

    > ・・・・・
    > それは、こういうことです。大乗仏教も釈迦と同じく、「石」や「私」などは、私たちが「ある」と思い込んでいるだけのまぼろしだと考えました。そこまでは一緒です。しかし、彼らは、それらを構成している「五蘊」「十二処」「十八界」のような基本要素までも「実在しない」と言ったのです。すべてが実在しないのですから、要素と要素の間を結んでいた因果関係のようなものも実在しないことになります。そうすると、釈迦が説いたこの世の法則性もすべて架空のものになってしまいます。

    >  要するに、釈迦が構築した世界観を「空」という概念を使うことによって無化し、それを超えるかたちで、さらなる深遠な真理と新しい世界観を提示したのです。これが、『般若心経』において「空」がことさらに重視された理由です。
    > ・・・・・
    > 同書p57より引用

    > 同書p10〜p11に『般若心経』全文が出ています。
    > 以下で、そこから、仏陀が実在としたとされる「五蘊」「十二処」「十八界」も「空」だとしていると思われる部分を抜き出してみます。

    > 色不異空空不異色
    > 色即是空空即是色
    > 色受想行識亦復如是舎利子是諸法空相
    > 不生不滅不垢不浄不増不減是故空中無色無受想行識無眼耳鼻舌身意無色声香味触法無眼界乃無意識界

    > 同書p135に。
    > ・・・・・
    > 『般若心経』の場合、私たち人間が想定する一切の区分を否定し、この世の在り方を、「区分のない一つの総体」としてとらえます。
    > ・・・・・
    > とあります。

    > 『般若心経』の中に「無」がたくさん出てきますが、これは、仏陀が世界の構成要素として区分したもの、それらの「区分は本当は無い」と言う意味での「無」だということなのかもしれません。。
    > とりあえず暫定的にそのように理解しておこうと思うので、間違えているかもしれませんが、このまま投稿とします。(a)

    > ちょっと思ったのは、「名づけられる前の世界」ですかねぇ。
    > 様々に分類され名づけられる前の世界。それが『般若心経』が語る世界ということになるのかな。。だとしたら、「因果関係」というものも無化されますね。(a)

    原始に、婆羅門の一人が仏陀に対して「私は自己による行為は存在しない。他者による行為は存在しない」という見解の持ち主です。といいます。これに対して仏陀は「そのような見解は見たくも聞きたくもありません」と完全否定している経典があります。

    > 『般若心経』の場合、私たち人間が想定する一切の区分を否定し、この世の在り方を、「区分のない一つの総体」としてとらえます。

    自己による行為、他者による行為という区分を存在しないということで否定した婆羅門の見解を仏陀は否定しましたが、多分、般若心経の中での世界観では肯定するということでしょうか。。

    まるで、スタート地点とゴール地点が同じなのだから、ここから長いマラソンはしなくても同じ位置だといっているようにも観えますね。ということで、今のところ、見方によれば大乗の空の思想は、なるほど仏教哲学としての最たるものなのかもしれないなぁと思いました。

    www.youtube.com/watch?v=-nH7Rewh-Bw
    今となっては、「阿含経」で生きる人、「般若心経」で生きる人。それぞれで良いのではないでしょうか。無常なる様相の世界観で生じたものは必ず滅するのですから。

    今のところ私の知る範囲でのインド哲学の中でのもので、空の思想はやはり四句分別の4番目である不一不二の領域としか認識できないですかね。雑感としては、私が一番知りたかった仏陀の時代からどのように、なぜ根本分裂が生じたのか?という明確な史料がないようで、そこは少し残念でしたが、少し前に佐々木先生の教室で講義を受けていたのであれば、、私としては、いろいろと楽しかっただろ言うなぁと思いました。^^
引用返信/返信 削除キー/
■40940 / inTopicNo.52)  Re[27]: 般若心経
□投稿者/ akaimi -(2025/02/12(Wed) 15:55:02)
    2025/02/12(Wed) 16:08:06 編集(投稿者)

    100分de名著『般若心経』佐々木閑 著 をもとに、今日は、仏陀の「空」と『般若心経』の「空」の違いを知り、投稿とします。

    ・・・・・
    「ここに自分というものがある」という思いを取り除き、この世のものは空であると見よ。(『スッタニパータ』1119)
    これが、釈迦の説いた「空」です。一見、「色即是空」ととてもよく似ています。
    そのため、ときおり、『般若心経』が説く「空」は大乗仏教の発明ではなく、仏教の創始以来受け継がれてきた釈迦の思想そのものだと言われることがあります。しかし、そうではないのです。
    ・・・・・
    同書p49より引用

    そうなると、まず仏陀は何を指して空だと言っていたのかを知らねばなりません。(a)

    ・・・・・
    釈迦という人はたいへん精緻な論理思考の持ち主であり、この世の本当の姿を理解するために、独自の方法で全世界を分類してみせました。実際に釈迦本人がやったかどうかは疑問も残りますが、ともかく「釈迦の仏教」では、この全世界が厳密に整理分類されているのです。
    ・・・・・
    同書p49〜p50より引用


    具体的には、「五蘊」「十二処」「十八界」という分類。
    ここについては読んで理解するだけにしました。
    投稿にすると長くなるし、たくさんの引用になってしまうので。(a)


    ・・・・・
    では、これらの分類にもとづいて、「釈迦の仏教」はどのように世界を認識していたのか、具体的に例をあげてみましょう。なぜ十二処や十八界が世界の構成要素になるのか、という話です。
     たとえば、道端に「石」が落ちているとします。私たちは目でその「いろ」や「かたち」を認識し、手に拾いあげて感触や重さを味わいます。二つの石を打ち合わせて硬さを確かめたりもします。そのとき、多くの人は、自分が手に持っているものは「石」という絶対的に確固たる物体であり、色や形や手触りなどは、その石に付随している「属性」にすぎないと考えます。「石に、いろやかたちや固さがある」と考えるのです。しかし、釈迦はそうは考えません。反対なのです。絶対的に実在しているのは目や手がとらえた「いろ」や「かたち」や「手触り」のほうであり、「石」というのは、それらを心の中で組み上げた架空の集合体にすぎないと考えるのです。
    今は「石」を考えましたが、「私」だったらどうでしょうか。「私」もまた「石」と同じです。いろやかたち、手触りや温度、重さなど、様々な基本要素を集積してできている「仮りの姿」です。人の場合は「肉体」だけでなく、そこに心というものも加えなければなりません。「認識」とか「思考」とか、あるいは「執着」とか「怒り」とか「感性」とか、様々な心的作用も、その集合体の要素になっているのです。集積され、絡まりあってできている「何ものか」です。
    (中略)
    この「石」や「私」の例からわかるとおり、この世に実在するのは「眼」「耳」などの認識器官、「色」「声」などの個別の認識対象、そして「心」や「心の作用」といった内側の諸要素だけなのであり、われわれが普段、そこに実在すると思っている様々な対象物は、それらを寄せ集めた架空の存在、実体のない虚像だというわけです。
    真の実在は、「五蘊」「十二処」「十八界」の各項目だけということになります。
    これが、釈迦の言った「ここに自分というものがあるという思いを取り除き、この世のものは空であると見よ」の意味です。
    ・・・・・
    同書p54〜pp57より引用

    仏陀も「空」については説いていた(スッタニパータにも「空」は出てくるしと)、と漠然とこれまで考えていましたが、仏陀の「空」の意味はこういうことだったのかと今更ながら確認できました。
    「集積し絡まりあってできている何ものか」というのが引用中にもありますが、実在とされる「五蘊」などとして示される諸要素の組み合わせによって因って起こる、したがって「空」なのだ、ということなのだと理解しました。(a)

    では、『般若心経』では何を「空」だとしているのか、になりますね。(a)

    ・・・・・
    それは、こういうことです。大乗仏教も釈迦と同じく、「石」や「私」などは、私たちが「ある」と思い込んでいるだけのまぼろしだと考えました。そこまでは一緒です。しかし、彼らは、それらを構成している「五蘊」「十二処」「十八界」のような基本要素までも「実在しない」と言ったのです。すべてが実在しないのですから、要素と要素の間を結んでいた因果関係のようなものも実在しないことになります。そうすると、釈迦が説いたこの世の法則性もすべて架空のものになってしまいます。
     要するに、釈迦が構築した世界観を「空」という概念を使うことによって無化し、それを超えるかたちで、さらなる深遠な真理と新しい世界観を提示したのです。これが、『般若心経』において「空」がことさらに重視された理由です。
    ・・・・・
    同書p57より引用

    同書p10〜p11に『般若心経』全文が出ています。
    以下で、そこから、仏陀が実在としたとされる「五蘊」「十二処」「十八界」も「空」だとしていると思われる部分を抜き出してみます。

    ・・・・・
    色不異空空不異色

    色即是空空即是色

    色受想行識亦復如是舎利子是諸法空相

    不生不滅不垢不浄不増不減是故空中無色無受想行識無眼耳鼻舌身意無色声香味触法無眼界乃無意識界
    ・・・・・

    同書p135に。
    ・・・・・
    『般若心経』の場合、私たち人間が想定する一切の区分を否定し、この世の在り方を、「区分のない一つの総体」としてとらえます。
    ・・・・・
    とあります。

    『般若心経』の中に「無」がたくさん出てきますが、これは、仏陀が世界の構成要素として区分したもの、それらの「区分は本当は無い」と言う意味での「無」だということなのかもしれません。。
    とりあえず暫定的にそのように理解しておこうと思うので、間違えているかもしれませんが、このまま投稿とします。(a)

    ちょっと思ったのは、「名づけられる前の世界」ですかねぇ。
    様々に分類され名づけられる前の世界。それが『般若心経』が語る世界ということになるのかな。。だとしたら、「因果関係」というものも無化されますね。(a)


    ・・・
    投稿中の (a)が後についている文章は、私の頭の中のつぶやきになります。

引用返信/返信 削除キー/
■40905 / inTopicNo.53)  Re[26]: 般若心経
□投稿者/ akaimi -(2025/02/09(Sun) 08:47:39)
    2025/02/09(Sun) 08:51:54 編集(投稿者)

    あくまで私の脳内ひとりごととして書いてみます。

    前出の『般若心経』の本に、『般若心経』は釈迦の仏教を否定している(それより上位の世界観である、ということを説いている)ということが具体的な説明として出てきます。
    その説明と漢字で書かれている『般若心経』そのもの(本に載っています)を合わせるとたしかにそうだなと思えます。
    次の投稿でそのあたり引用しながら書いてみるつもりです。

    『般若心経』の空と龍樹の空とでは、同じ空を説明しながらもある意味違うものなのではないかと、ごくわずかな知識しかないながらも今のところ暫定として感じています。
    どちらも、あらゆるものの実体の無さを説明しているところは共通していますが。

    龍樹の空は、仏陀の教えを理論としてまとめあげたもので、八不も中道を説くためのものだと考えます。
    つまり、龍樹の空は仏陀の教えとは矛盾しないものだということ。

    こんなふうに自分のなかで暫定的に考えながら、別な本も読んでみようと思っています。(龍樹研究の先生の持っている本と、以前に読んで売ってしまった本をまた買ってのと

引用返信/返信 削除キー/
■40886 / inTopicNo.54)  Re[28]: ニーチェクラブ
□投稿者/ akaimi -(2025/02/08(Sat) 09:51:13)
    2025/02/08(Sat) 09:54:40 編集(投稿者)

    パニチェさん、レスありがとうございます。

    No40884に返信(パ二チェさんの記事)

    > ありがとうございます!
    > メンバーあってのニークラです。

    こちらこそ、これからもよろしくお願いします。(^○^)

    >>20年前、皆さまどんなお話をされてたんだろう。
    >
    > ぶっちゃけ、今よりもとりとめのない日常的な会話が多かったように記憶してます。

    そうだったんですね。
    タイムスリップして見てみたいな。
    のび太の机の引き出しに入ろうか(^o^;)

    > 何でもいいのです、ディオニュソスです
    から♪^^

    はい、ありがとうございます。


引用返信/返信 削除キー/
■40884 / inTopicNo.55)  Re[27]: ニーチェクラブ
□投稿者/ パ二チェ -(2025/02/08(Sat) 09:25:33)
    おはようございます、akaimiさん。レスありがとうございます。

    No40881に返信(akaimiさんの記事)
    > 今日、20周年を迎えるのですね。

    > おめでとうございます!!

    ありがとうございます!
    メンバーあってのニークラです。

    > 20年前、皆さまどんなお話をされてたんだろう。

    ぶっちゃけ、今よりもとりとめのない日常的な会話が多かったように記憶してます。
    何でもいいのです、ディオニュソスですから♪^^

引用返信/返信 削除キー/
■40881 / inTopicNo.56)  ニーチェクラブ
□投稿者/ akaimi -(2025/02/08(Sat) 07:27:52)
    今日、20周年を迎えるのですね。

    おめでとうございます!!

    20年前、皆さまどんなお話をされてたんだろう。




引用返信/返信 削除キー/
■40872 / inTopicNo.57)  般若心経
□投稿者/ akaimi -(2025/02/06(Thu) 09:28:45)
    2025/02/08(Sat) 07:16:28 編集(投稿者)


    『般若経』について読んだら、その中の一種類でもあり有名どころの『般若心経』についてもう少し知りたくなり、同シリーズの100分de名著『般若心経』佐々木閑 著を読んでいます。

    いろいろと興味深くおもしろく感じるのですが、今日は『般若心経』の登場人物について。

    ………
    『般若心経』には、長いバージョンの「大本」と短い「小本」があり、普通私たちが目にするのは玄奘三蔵法師訳の「小本」。
    「大本」の「序分」という出だし部分と、「流通分(るずうぶん)」というシメの部分に、観自在菩薩、舎利子、釈迦の三人の『般若心経』での関係性が見て取れる。

    多くの弟子や菩薩とともにいた釈迦は一人深い禅定に入っていた。
    その折、釈迦の弟子の舎利子が観自在菩薩に般若波羅蜜多の修行について尋ねる。
    それに答えるのが『般若心経』の本文。
    その後に、瞑想から出た釈迦は、観自在菩薩の述べたことを称賛した。
    ………
    同書p38からp41についてまとめました。


    自分たちの教義のほうが上位なことをアピールしてお釈迦様のお墨付きももらっているわけで、こういうパターンは大乗仏教に他にもある。
    …p41より


    (感想)
    観自在菩薩が舎利子という仏陀の弟子に説明をする形式に『般若心経』がなっていることは知っていましたが、最後に仏陀からのお墨付きをいただくように書かれていたのは知らなかったので興味深く感じました。

    以下あくまで私の想像なのですが。
    『般若心経』の作者は、論理に加え禅定により知ったことを本文内で説明しているのかもしれないということ。(言語、概念、思いから完全に離れた寂滅の境地を説明しているのだろうと思われる部分があると考えるので)
    瞑想中の仏陀が登場してきてシメでお墨付きを出す形式になっているのは権威付けの狙いもあったのかもですが、それだけではなく修行により禅定に入った人が理解できる世界について語られているもので、もちろん仏陀もそうであったろうと『般若心経』の作者は考えたからなのではないかと。

引用返信/返信 削除キー/
■40815 / inTopicNo.58)  Re[24]: 大乗仏教
□投稿者/ akaimi -(2025/01/30(Thu) 13:15:51)
    2025/01/31(Fri) 13:33:08 編集(投稿者)



    今日は、般若経典について。
    全体としておもしろく感じる内容なのですが、とりわけ自分が興味深く感じた部分だけを投稿とします。

    『般若経』と呼ばれる経典は数多く存在していて、紀元前後には最古のものが誕生したと考えられる。
    『般若心経』も般若経典の系統に分類されるお経の一つで『般若経』の教えのエッセンスをコンパクトにまとめたものと言える。(p46〜p48より)

    ・・・・・
    「釈迦の仏教」すなわち、『阿含経』と呼ばれる古い時代のお経が、業のエネルギーには輪廻を助長する働きしかないと考えていたのは、縁起と呼ばれる因果則の裏側に隠されたもっと崇高なシステムに気づかなかったためで、じつはその因果則の裏には、善行によって得たエネルギーをブッダになるための力に振り向けることができる、より上位のシステムが隠されていたのだ、と。
     その、因果則の裏側に隠されたシステムのことを『般若経』では「空」と呼びます。
    「空」の論理を学び、それを理解した人だけが、日常的な善行のエネルギーをすべて悟りのほうに向けることが可能になると、『般若経』では考えたのです。
    ・・・・・
    100分de名著『集中講義 大乗仏教』佐々木閑 著 p57より引用

    ・・・
    因果則の裏側に隠されたシステムである「空」を学び理解した人だけが、日常的な善行のすべてを悟りのほうに向けることが可能になる、と『般若経』では考えた、とあります。
    では、『般若経』での「空」とは? (a)
    ・・・
    ・・・・・・
    「石」や「私」は、人間が「ある」と思い込んでいるだけで、実体は「ない」(諸法無我)と考えたところまでは「釈迦の仏教」も『般若経』も同じです。しかし、『般若経』では、お釈迦様が実在すると考えた「五蘊」などの、世界を構成している基本要素すらも「実在しない」ととらえたのです。
     また、お釈迦様はこの世の本質を「諸行無常」、つまり「すべてのものはうつりゆく」と見抜いていましたが、『般若経』では「すべての基本的要素には、そもそも実体がないのだから、それが生まれたり消えたり、汚れたり、きれいになったり、増えたり、減ったりしている(ように見える)のもすべて錯覚である」と考えて、「諸行無常」さえも否定しました。
    ・・・・・
    同書p62より引用

    ・・・
    たしかに『般若心経』でも同じようなことが説かれていますね。
    原始仏教で、五蘊、十八界として説明されていたものも実在しないと『般若経』ではされるわけですね。(a)
    ・・・
    ・・・・・
    この世を構成している基本要素が実在せず、ただの虚構だということになると、要素と要素を結んでいた因果則も存在しないことになります。そうなると「釈迦の仏教」の根本にある、行為と結果の関係、つまり「業の因果則」すらも存在しないということになってしまうのです。
     しかし、そのままではこの世のありようが説明できません。そこで『般若経』では、「この世はそうした理屈を超えた、もっと別の超越的な法則によって動いている」と、とらえました。この人智を超えた神秘の力、超越的な法則こそが『般若経』でいう「空」なのです。
    ・・・・・
    同書63より引用

    ・・・
    『般若経』それ自体が不思議な力を持った「呪文(マントラ)」であり、『般若心経』の「羯諦羯諦・・・」も訳さずそのままにしておくことで言葉に秘められた神秘のパワーを失わないようにしている。(p68〜p69からの抜き出し)
    ・・・

    (感想)
    「空」を学び体得した人の善行は、輪廻を助長するエネルギーとはならず逆に悟りへのエネルギーになる、と『般若経』では考えられたのだろうと読みました。
    なぜなら、この世は「業の因果則」を超えた超越的な法則により動いていて「業の因果則」も存在しないから、と考えられたから、ということになる。
    (引用はしませんでしたが、『般若経』では六波羅蜜の修行、とりわけ「般若波羅蜜多」という智慧のための修行が大切なものとして説かれているとあり(p64〜p65より)、やみくもに在家でも修行ができると説いているのではないということだと読みました。)

    大乗経典の先駆けとして「空」について、原始仏教のときとは違う語られ方がされた般若経典が現れたことは、その後の大乗仏教の特色を方向付けるものになったのかもしれない、と想像します。

    般若心経の現代語訳での後半部分で、「大丈夫、心配するな」的な超意訳がされているのを見ますよね。人智を超えた不思議なパワーを信じて最善を尽くせ、、ってことなのかな、と個人的には考えています。

    ・・・
    ・ 途中途中で(a)とある部分は、自分の文章です。

引用返信/返信 削除キー/
■40699 / inTopicNo.59)  Re[23]: 大乗仏教
□投稿者/ akaimi -(2025/01/23(Thu) 09:23:55)
    2025/01/23(Thu) 10:00:25 編集(投稿者)


    大乗仏教ではこの世界に何人ものブッダが存在していて、努力すれば誰もがその一人になれる、と考えた、というのは前回触れました。
    では、どうすれば在家のままでもブッダになれる、と説明されていたのか。

    ・・・・・
    そこで当時の人々が注目したのは、お釈迦様の「過去」です。冒頭で、仏教は輪廻と縁起を世界観の基本にしているというお話をしましたが、「お釈迦様の過去世(前世)に何かがあったからこそ、それが遠因となってブッダへの道につながったのではないか」と考えたのです。
    仏教ではブッダになる前の修行者、ブッダ候補生のことを「菩薩」と呼びますが、彼らはお釈迦様の菩薩時代にブッダへの手がかりを探しはじめたわけです。
    ・・・・・100分de名著『集中講義 大乗仏教』佐々木閑 著 p36より引用
    ・・・
    ※菩薩
    もともとは過去世で修行中の釈迦を指す言葉だったが、自らの修行の完成を目指す修行者(ブッダ候補生)を言うようになった。 同書p36 注釈より
    ・・・

    お釈迦様ももともとは凡夫で輪廻を繰り返してきていて、その過去世の中で別のブッダと出会い、「誓願」し、「授記」を受けた、と考えた。
    「誓願」とは、ブッダを目指し修行するという誓い。
    「授記」とは、誓願した者への保証と激励。
    大乗仏教が興る前からあった『燃灯物授記』という物語の中に「燃灯物(ディーパンカラ)」という仏が出てきて、凡夫だったお釈迦様の未来を予言したと書かれていて、おそらく「誓願・授記」の考え方はこの話がベースになっている。
    (p38より)

    ・・・・・
    確かにお釈迦様は出家というかたちをとって悟りを開きましたが、それは最後の仕上げにすぎません。延々と続いてきた時間の中では、それはほんの氷山の一角の出来事であって、その下には巨大な過去が存在しています。お釈迦さまも様々な生き物の姿をとりながら、正しく生きることで修行を積んできた時代があったからこそ悟りを開くことができた、と考えれば、たとえ出家しなくても私たちはお釈迦様と同じ道を歩いているということになるのです。
    ・・・・・同書p41より引用

    (感想)
    輪廻と縁起という原始仏教において既に確立されていた世界観にも矛盾しない形で(輪廻という考え方は仏教以前のバラモン教からあったけれど)、こんなふうに考えが練られていたというのをわかりやすい説明で知り、譬えて言うなら、画像の鮮明度が少し上がったような感覚がしました。
    出家はかなわない在家信者が、日々の仕事や暮らしをしながら菩薩として修行できるというのは、当時の人々にとって大きな励みだったと思います。
    ある意味、輪廻というものを前向きに捉えているようにも感じられる気がします。

引用返信/返信 削除キー/
■40605 / inTopicNo.60)  Re[22]: 大乗仏教
□投稿者/ akaimi -(2025/01/18(Sat) 12:05:52)
    用事で中断したので続きを。

    在家信者についての考え方も、「釈迦の仏教」と大乗仏教では違います。
    ・・・・・・・・・・
    「釈迦の仏教」では、在家信者の善行は世俗的な果報にしかつながらないと考えます。
    大乗仏教では、在家信者の日々の善行が悟りのエネルギーにつながると考えます。
    つまり、大乗仏教ではすべての信者が「悟り」という同じ目標に向かっていこうとするのに対して、「釈迦の仏教」では、在家信者と出家者では目指す目標にレベル差がある。
    ・・・・・・・・・・
    (p14よりまとめました。)


    以下、一つ前に投稿したものも含めての個人的な感想です。
    戦乱の時代という背景などもあり出家が難しくても、日々の善行が悟りのエネルギーになるのだ、という考え方が人々に受け入れられていったというのは理解できる気がします。
    現状のなかでの最善を求めたいという考えがそこにはあったのだろうと想像します。

    ・・・・・・・・・・
    「釈迦の仏教」では「阿羅漢」を目指す(ブッダを目指すのではない)。
    「現世にブッダは一人しかいない」ととらえ、そのブッダが亡くなると長い不在期が続き、別のブッダが現れる、と考えた。

    大乗仏教ではこの世界には何人ものブッダが存在していて、努力すれば誰もがその一人になれると考えた。
    大乗仏教では、悟りを開いた者の最終到達点は「ブッダになること」。
    ・・・・・・・・・・
    (p33〜p34よりまとめました。)


    (感想)
    生きることは苦しみなので二度と生まれてこない涅槃を目指し修行するという「釈迦の仏教」からすると、ブッダになるという大乗仏教の目標というのは、現世にやりがい(生きがい?)をもたらす現実的な側面もあるように感じます。

    ・・・
    では、どうしたらブッダになれると説明が大乗仏教ではなされているのか、について次回少し投稿します。

    各経典によって語られることは相違する部分ももちろんあると思いますので、大乗仏教と分類されるものに通じる、それについての考え方、根底にある考え方ということになるのだろうなと今のところ考えています。
    (第二講以降、般若経、法華経、浄土教などの話題になっています。)





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