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■35564 / inTopicNo.73)  Re[28]: つれづれなるままに
  
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2023/12/16(Sat) 14:37:25)
    〔世界のなかに(へ)存在する「私」〕の物語りつづける。

    これまで書き写したのから、メルポンの「意識」の分節の仕方を見て見た。

    (1)
    No34697の(a)に、
    「知性的意識」と「知覚的意識」ってある。
    この「知性的」と「知覚的」っていう用語で分節してるのをもとにして、これに記号をつけて、
    「知性的意識」――〈知〉
    「知覚的意識」――〈覚〉
    で見ていって見る。

    (2)
    No34697の(b) 、
    「世界についての知」を〈知〉、「私の知覚」を〈覚〉、って見る。

    (3)
    No35001(k)の原注に
    「認識という理論的実践」っていうのある。これを〈知〉。
    No35002(l)に
    「認識に先立つ世界」っていうのある。これを〈覚〉。
    そして、
    こういうのから、
    「認識による世界」を〈知〉ってして、これに対(つい)して、「認識に先立つ世界」を〈覚〉。

    (4)
    No35002(m)に、
    「前客観的な経験の世界」ってある。簡単に「前客観的な世界」ってして、これを〈覚〉、ってして、
    これに対(つい)して「客観的な世界」っていうことにして、これを〈知〉。
    あと、
    「判断以前」っていうのあるけど、それは〔受動的で根源的な信念の場として知覚的・直観的な環境〕。
    これに対(つい)して「判断」ってして、
    「判断」を〈知〉、「判断以前」を〈覚〉。

    (5)
    No34770(e)に、
    「学的解釈」、
    No35002(n)に、
    「科学的な世界理解」、
    ってある。
    これをいっしょにしちゃって、
    「学的世界理解」ってして、これを〈知〉。
    これに対(つい)してどういうのがいいかな〜、って思ったんだけど、
    わたし「学者」と「自然的人間」に分けて見たなかで、「自然的世界知」って言うのがいいな、って思った。
    No34813の(h)の「自然的世界概念」ってしてもよかったんだけど、「概念」っていうのを使うことにわたしのばあいちょっと違和感あるのね。っていうのは、「概念」って「知性的意識」のうちで使われてるイメージがあるから。それと「知覚的意識」における〈知〉っていうのもある気がしてる。だから「自然的世界知」ってすることにした。
    「学的世界理解」を〈知〉、「自然的世界知」を〈覚〉、ってして見る。

    (6)
    No35001(k)の原注に、
    「前述語的」ってある。これを〈覚〉。
    これに対(つい)して「述語的」ってして、これを〈知〉。

    (7)
    No35296の(r)の、
    「知性によって理解された世界」を〈知〉、「知覚された世界」を〈覚〉。

    なんかごちゃごちゃしてるんだけど、これ簡単にしたのを後で。

引用返信/返信 削除キー/
■35528 / inTopicNo.74)  Re[27]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2023/12/14(Thu) 19:51:26)
    わたし、苺を食べる。

    そのとき、「赤色」もいっしょに食べてる。

    「苺」っていう「語」が「赤色」に見えてくるのはわたしだけ?
引用返信/返信 削除キー/
■35474 / inTopicNo.75)  Re[26]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2023/12/11(Mon) 18:18:25)
    No35403のわたしの憶測と感想ね。

    『さしあたり科学の否認』
    ――「否認」であって、「否定」じゃないよね。
    序文の他のところで、
    『フッサールの末刊の手稿なかで、哲学者は永遠の初心者であるともいわれている。すなわち、哲学者は世人や科学者たちが知っていると信ずるものを、何によらず、既知のこととは見なさない。哲学がかつて真理をいいえたにせよ、かかる真理おいても、哲学は自己の知識を既知のものと考えるべきではない。哲学とは哲学自身の出発点に立ち帰って、繰り返しこれを体験し直すことである。哲学のすべてはこの端緒を記述することに存する。そして結局、根本的な反省とは、非反省的な生に対する、反省自身の依存性を自覚することなのだ。非反省的な生こそ、反省の出発状況であり、恒常的な状況でもあり、終局の状況でもある。』
    とか、
    『私はあるとき反省しはじめたのであり、私の反省は、反省していないものへの反省である。』
    (デカルトだって、「私はあるとき反省しはじめた」んじゃなかったかしら)
    って言ってる。

    『まず第一に世界についてのあの経験を呼びまさなくてはならないのである』の『世界についてのあの経験』っていうが『森林や草原や河川がどのようなものであるかをわれわれに最初に教えた風景』にかかってるんだと思う。

    No27553 のP305の、
    『われわれがこの起源に遡り、言葉のざわめきの下の原初的な沈黙を再発見しない限り、そしてこの沈黙をやぶる身振りを描き出さない限り、われわれの人間考察はいつまでたっても表面的なものにとどまるであろう。』(『知覚の現象学』p305)
    の、『この起源』っていうの、
    『森林や草原や河川がどのようなものであるかをわれわれに最初に教えた風景』のような〈知〉のことのように思えてきてる。
    No34813の(h)の「自然的世界概念」っていうの、こういうようなことかな?
    でも、わたし「概念」っていうのを使ってるのがなんか気になるのね。あ、これはまたいつか。
    「現象学的還元」っていうのはこういうことなんじゃないかしら?って。

    『私は自分を、世界の一部として、生物学、心理学、ならびに社会学お単なる対象として考えることはできないし、一般に科学の考える世界のなかに私を閉じ込めることはできない。』
    ここのところに『世界の一部』っていうのあるけど、【フッサール著『デカルト的省察』1931浜渦辰二訳岩波書店2001】の訳注(27)に、
    〔せっかく発見した「我」を「世界の小さな末端」と解釈してしまった、というのがフッサールがしばしばデカルトに向ける批判点である。デカルト自身「私が事物の総体(宇宙)の部分をなすに過ぎない、ということを否定することができない」(『省察』第4省察)と述べている。〕
    っていうのがあったのを想い出す。

    『「事象そのものに」帰れ』
    ――わたしがまだ科学的な知識を知る前にすでにわたしはこの世界を知ってるんだと思う、その〈知〉ならしめているもの、そこに帰れ、っていうこと?

    「私」や「世界」、そして私と世界との関係性について問いかけるとき、そして、〈私は世界をどのように知ってきたの?〉への接近の仕方として、メルポンは、乳幼のころに遡って、そのうちで見たら?って言ってるような?

    ん?
    都会に生まれ育った子は「高層ビルやアスファルトの地面がどのようなものであるかをわれわれに最初に教えた風景」ってうことになるのかな?ってすると〜、「自然的世界概念」じゃなくて「文化的世界概念」っていう言い方になるのかもね。

引用返信/返信 削除キー/
■35404 / inTopicNo.76)  Re[25]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2023/12/10(Sun) 19:33:58)
    そこはかとなく

    「地球温暖化」っていってる人、
    わたし教科書で知ったんだけど、「氷河期」っておうのあったみたい。
    当時の地球は寒かったんな見たい(わたし想像できないけど)。
    「地球温暖化」って、その頃から比べて、みたいなのかしら?
引用返信/返信 削除キー/
■35403 / inTopicNo.77)  Re[24]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2023/12/10(Sun) 19:27:30)
    No35002の(l)が書いてあるところ、この際だから切りのいいところ、タイピングしたのを。
    【モーリス・メルロ=ポンティ著 『知覚の現象学』1945中島盛夫訳法政大学出版局2009】の序文で、
    『現象学とは何か。・・・・・』から始まる、その一部。p3-5
    **********
    記述することが肝心なのであって、説明したり、分析することではない。フッサールが初期の現象学に与えた命令、つまり「記述的心理学」であれ、もしくは「事象そのものに」帰れという命令は、さしあたり科学の否認である。私は、私の身体あるいは私の「精神現象」を規定する多様な因果性の結果でも交錯でもない。私は自分を、世界の一部として、生物学、心理学、ならびに社会学お単なる対象として考えることはできないし、一般に科学の考える世界のなかに私を閉じ込めることはできない。世界についての私の知識は、たとえ科学による知識であろうと、どれもこれも、世界に関する私自身の観察、もしくは経験からして得られるのであって、このような経験がなければ、科学の記号には何の意味もないであろう。科学の宇宙の全体は、生きられた世界の上に打ち建てられており、もしわれわれが科学そのものを厳格に考え、正確にその意義と有効範囲とを測ろうと欲するならば、まず第一に世界についてのあの経験を呼びまさなくてはならないのである。科学はこの経験の二次的は表現なのだ。科学は知覚された世界と比肩しうる存在意義を決してもってはいなし、また将来ももつことはないであろう。その理由は簡単である。すなわち、科学は知覚世界の一つの規定、もしくは一つの説明だからである。動物学、社会解剖学、それに帰納的心理学は、「生物」とか「人間」とか、「意識」といったような、自然もしくは歴史の産物に、さまざまな特徴を認めるが、私はこうした特徴のすべてをそなえた「生物」ではないし、このような意味では、「人間」や「意識」ですらない。――私は絶対的な根源である。私の実存は、私の経歴、私の自然的・社会的環境から由来するのではない。私の実存はこれらに向かってゆき、これらを支える。なぜなら、ある特定の伝統や地平線を私にとってある(それゆえ、また「ある」という言葉が私に対してもちうる唯一の意味において、ある)ようにさせるのは、ほかならぬこの私だからであり、この伝統に立ち戻ることを選択するのも私だからである。また私がそこにいて、私とあの地平線との間の距離を眼でたどらないとしたならば、もともとそれは固有な性質として地平線に属しているわけではないおだから。地平線の私に対する距離は、もろくも崩れさるだろう。私を世界の一つの契機と見なす科学的な見方は、いずれも幼稚で欺瞞的である。というのは、これらの見方は、もう一つの見方、すなわち、意識によって初めて一つの世界が私のまわりに配置され、私に対して存在しはじめるという、意識の見方をいつもひそかに前提しながら、はっきりとはいわないからである。事象そのものに帰るということは、認識に先だつ世界に帰ることである。認識はつねにこの世界について語るのであり、これに対してはいかなる科学的規定も、抽象的、記号的、依存的である。これは、森林や草原や河川がどのようなものであるかをわれわれに最初に教えた風景に対して、地理学が抽象的、記号的、依存的であるのと同様である。
    **********

    メルポンの現象学、わたしに分かりやすかったところだったから。
    これについてのわたしの感想はいつか後で。

引用返信/返信 削除キー/
■35400 / inTopicNo.78)  Re[23]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2023/12/10(Sun) 17:57:20)
    No35379で、
    「前述語的」を「前述定的」って見て、
    「前述定的」に対(つい)して「述定的」。
    たぶん、だいたいそれでいいと思うんだけど、

    「述語」っていうのをネットで調べら、
    「○○は、△△」って言うときの「△△」が述語で、「○○」は主語っていうことみたい(ごめんね小学生レベルで)。

    でね、「述定」っていうのをネットで調べたら、
    https://information-station.xyz/2544.html
    わたしにわかりやすいところではこんなところかな。
    これ、簡単に、
    ・・・・・・・・・・
    存在「〜がある」と述定「〜である」の違い
    ギリシャ語の「ある」(esti、エスティ)という動詞には、英語で言うbe動詞と同様に、
    「〜がある」という存在を表す意味と、
    「〜である」という述定(主語に性質や状態などの属性を述語付けること)
    を表す意味の二つの意味があります。
    ・・・・・・・・
    っていとこだけ抽出して、
    で、
    No35230の、
    幼児で見た流れを少し変えて、
    (1)〈○○がある〉
    (2)〈○○とは何か?〉
    (3)〈○○は△△である〉
    ってした見た。
    (3)が「述定的」っていうことになるのかな。
    〈△△である〉、あるいはその否定〈△△ではない〉も同じ述定(述語)になるみたいだけど。

    メルポンが言う「あるということはどういうことなのか」っていう哲学的問いかけは、(1)を問題としてるんだと思うのね。

    (1)を絵にして見たのを添付しま〜す(久しぶり〜)
    Aちゃんが〈いる(ある)〉って言うとき、それはどういうことなのかしら?
    まだ、なんかそこまで行けそうなんだけど言葉で上手に表現できないでいる。
    またあとでいいのが思いつたらにする。

886×661 => 600×447

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■35379 / inTopicNo.79)  Re[22]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2023/12/09(Sat) 17:41:29)
    No35296
    「フッサールは、この世界を前述語的と名づけ」の、「前述語的」なんだけど、
    【「現象学事典」弘文堂2014】に、「述定的/前述定的」っていうのがあって、
    「フッサールが論理学の発生的考察において使用する対概念で、述定的判断(思考)と前述定的感性的経験の領域を指す。」
    ってあった。たぶん「前述語的」っていうのは「前述定的」のことなんだと思う。
    〈言葉で思考したり判断する領域〉が「述定的」、それ以前の感性的経験の領域を「前述定的」「前述語的」って言ってるのかも。
    ってすると、人(私)の「意識」の領域のことだったのかも?――でも「この世界を」って言ってるし?

    >『森林や草原や河川がどのようなものであるかをわれわれに最初に教えた風景』って、なにも喋らないよね。<
    っていうのはちょっと違っちゃた感じ。
    でも、〈私に教えた風景〉っていうの、私の感性的経験で、私のうちに「前述定的(前述語的)」に構成されてる世界、って見ることもできるかも。

    ん?
    ってすると〜、〈自然の風景〉と〈私の感性的経験〉とは、「自然」っていうことで結ばれてる、っていうことになる?
    ん〜ん、ちょっと考えすぎかな。

引用返信/返信 削除キー/
■35378 / inTopicNo.80)  Re[21]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2023/12/09(Sat) 17:35:29)
    そこはかとなく、

    わたしのノートに書き留めて置いたの、
    「近代の諸装置は、それを批判すると称する人々も含めて同一性の呪縛にとらわれている。」
    っていうのを想い出した。(ドゥルーズ&ガタリだったかな?ここらへん不確か)

    あ、わたしの今の物語りに戻らなくっちゃ。

引用返信/返信 削除キー/
■35348 / inTopicNo.81)  Re[20]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2023/12/08(Fri) 19:56:10)
    ちょっと話題変わるけど、

    【「フーコー入門」中山元/筑摩書房1996】のなかに、

    〔精神医学の目的が、患者が社会に復帰できるようにすることだと考えると、患者が復帰する社会はどの程度に〈健全〉であり、どの程度に特殊的であるか。患者はどのように「正常」になれば、社会に復帰できると判断されるか。ここで精神医学の治療は、すぐに政治的な意味をおびるようになる。精神医学は或る意味ではその社会における政治的な実践なのである。正常と異常の判定自体が、「異常」を排除し、社会的な秩序を確保するという実践と結びつくからである。〕

    っていうのあった。

    どこかのアニメ製作所に放火した人、そしてそれによって人死んじゃった人、そしてその「裁判」、
    どこかの「議員さん」たちがパーティを開いてお金儲けした、
    みたいなのを、「マス」が言ってるのを聞いたことある。

    こういうのって、「同じ世界信念」なのかもね。


引用返信/返信 削除キー/
■35326 / inTopicNo.82)  Re[19]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2023/12/07(Thu) 20:04:59)
    再生できないほどに破壊尽くせばいいのにね。

    それができないからだらだらと問題が起こるんじゃないかしら。

    核使ってもダメ。日本国民を見てごらんなさいよ。
引用返信/返信 削除キー/
■35296 / inTopicNo.83)  Re[18]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2023/12/06(Wed) 18:13:14)
    世界のうちに(へ)存在してる「私」  
    ――わたしはこの世界をどのようにして知ってきたのかな?

    No35001の(k)についてのわたしの憶測と感想ね。

    『人間の意識という問題が決定的な形で論じられるのは、〈知覚〉や〈感覚的なもの〉の段階においてでなければならならない』
    っていうのが、「人間と世界とを理解しようとする」ときのメルポンの。
    ――わたしもこれに倣ってる。「私」や「世界」、そして、その関係性を知ろうとするときね。
    いや、そうじゃなくて、「人間の意識という問題が決定的な形で論じられるのは〈知性〉だよ」、ってしてる人もいるかもだけど。

    『ひとびとが常識の「自明さ」を最後まで問いつめた試しはいまだかつてなかった』――でも、ハイデガーはそれをはぶいてしまわない、って、メルポンは言ってるんだと思うのね。
    これって、
    No34697の(c)のようなのと似てる感じ。
    あと、
    【フッサール著『デカルト的省察』1931浜渦辰二訳岩波書店2001】の訳注に
    (q)〔フッサールは『論理学研究』においてもこう述べていた。「哲学者はまさに《自明なこと》の背後に最も困難な諸問題が隠れていることをも当然承知していなければなるまい。逆説的ではあるが、しかし深い意味をこめて、哲学とは平凡な事柄についての学であるとさえ言えるほどである」と。〕(p.318)
    ってある。
    No35201のプラトンの
    『ソレヲ君タチガトウノ昔カラ熟知シテイルノハ、明ラカナコトダカラダ。ダガワレワレハ、以前ニハソレヲワカッテイルト信ジテイタノニ、イマデハ困惑ニオチイッテイルノダ』
    こういうところ、〈自明なことへの問いかけ〉に似てる感じ。

    「フッサールは、この世界を前述語的と名づけ」
    ん〜ん、そう言われるとそうかも、ってわたし思う。
    No35002の(l)、
    『森林や草原や河川がどのようなものであるかをわれわれに最初に教えた風景』って、なにも喋らないよね。
    『最初に教えた』、じゃなくても、いまだにそういうのって「前述語的」に、“そのように存在してる”んじゃないかしら。
    学者さんたちは、そのようなものを述語的に語ってる。

    最近買って少しづつ読んでる【モーリス・メルロ=ポンティ『子供の心理−社会学』ソルボンヌ講義2/松葉祥一・澤田哲生・酒井麻衣子訳/みすず書房2023】のなかに、
    (r)『子どもの場合、知覚された世界が(知性によって)理解された世界に先行します。』(p36)
    ってメルポンは言ってる。わたしもそんな感じがしてる。
    だって、一般的に、小学校に行って、科に分けて(国語・算数・理科・社会・・・)学ぶ前に、わたしは、日常生活のなかで、自然と、この世界がどのようなものであるのかを“知ってる”んじゃないかしら(ただその知が学的に見て正しいとか真なるものかどうかは別にしてもね)?そして「もの」の名を覚え、言葉を喋れるようになって、他者とのコミュニケーションをとっているのよね。こういうのって「知性によって“理解”された世界」っていうんじゃないと思う。

     メ-ル〜 ポン!

引用返信/返信 削除キー/
■35295 / inTopicNo.84)  Re[17]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2023/12/06(Wed) 18:10:56)
引用返信/返信 削除キー/

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