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No35296 の記事


■35296 / )  Re[18]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2023/12/06(Wed) 18:13:14)
    世界のうちに(へ)存在してる「私」  
    ――わたしはこの世界をどのようにして知ってきたのかな?

    No35001の(k)についてのわたしの憶測と感想ね。

    『人間の意識という問題が決定的な形で論じられるのは、〈知覚〉や〈感覚的なもの〉の段階においてでなければならならない』
    っていうのが、「人間と世界とを理解しようとする」ときのメルポンの。
    ――わたしもこれに倣ってる。「私」や「世界」、そして、その関係性を知ろうとするときね。
    いや、そうじゃなくて、「人間の意識という問題が決定的な形で論じられるのは〈知性〉だよ」、ってしてる人もいるかもだけど。

    『ひとびとが常識の「自明さ」を最後まで問いつめた試しはいまだかつてなかった』――でも、ハイデガーはそれをはぶいてしまわない、って、メルポンは言ってるんだと思うのね。
    これって、
    No34697の(c)のようなのと似てる感じ。
    あと、
    【フッサール著『デカルト的省察』1931浜渦辰二訳岩波書店2001】の訳注に
    (q)〔フッサールは『論理学研究』においてもこう述べていた。「哲学者はまさに《自明なこと》の背後に最も困難な諸問題が隠れていることをも当然承知していなければなるまい。逆説的ではあるが、しかし深い意味をこめて、哲学とは平凡な事柄についての学であるとさえ言えるほどである」と。〕(p.318)
    ってある。
    No35201のプラトンの
    『ソレヲ君タチガトウノ昔カラ熟知シテイルノハ、明ラカナコトダカラダ。ダガワレワレハ、以前ニハソレヲワカッテイルト信ジテイタノニ、イマデハ困惑ニオチイッテイルノダ』
    こういうところ、〈自明なことへの問いかけ〉に似てる感じ。

    「フッサールは、この世界を前述語的と名づけ」
    ん〜ん、そう言われるとそうかも、ってわたし思う。
    No35002の(l)、
    『森林や草原や河川がどのようなものであるかをわれわれに最初に教えた風景』って、なにも喋らないよね。
    『最初に教えた』、じゃなくても、いまだにそういうのって「前述語的」に、“そのように存在してる”んじゃないかしら。
    学者さんたちは、そのようなものを述語的に語ってる。

    最近買って少しづつ読んでる【モーリス・メルロ=ポンティ『子供の心理−社会学』ソルボンヌ講義2/松葉祥一・澤田哲生・酒井麻衣子訳/みすず書房2023】のなかに、
    (r)『子どもの場合、知覚された世界が(知性によって)理解された世界に先行します。』(p36)
    ってメルポンは言ってる。わたしもそんな感じがしてる。
    だって、一般的に、小学校に行って、科に分けて(国語・算数・理科・社会・・・)学ぶ前に、わたしは、日常生活のなかで、自然と、この世界がどのようなものであるのかを“知ってる”んじゃないかしら(ただその知が学的に見て正しいとか真なるものかどうかは別にしてもね)?そして「もの」の名を覚え、言葉を喋れるようになって、他者とのコミュニケーションをとっているのよね。こういうのって「知性によって“理解”された世界」っていうんじゃないと思う。

     メ-ル〜 ポン!

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