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■34977 / inTopicNo.13)  Re[79]: つれづれなるままに
  
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2023/11/09(Thu) 18:49:13)
    No34934の「アウグスティヌス」についてはもう少し書いてあるので書き写しておく。
    ***************
    (J)『‥‥反省的分析は、先行する構成の道をさかのぼり、聖アウグスティヌスのいわゆる「内的人間」(訳注1)に立ち帰り、そこでもともとこの「内的人間」そのものであった構成の能力と再び合体するつもりになっている。こうして反省はみずからおのれを忘れ、存在と時間に至る手前の不死身の主観に立ち帰る。だが、これは無邪気な独りよがりだ。あるいはお望みなら、自己自身の出発点を自覚しない不完全な反省、といってもいい。私はあるとき反省しはじめたのであり、私の反省は、反省されていないものへの反省である。…‥』       (『知覚の現象学』p6)

    (訳注1)アウグスティヌスの次の文章にある。「決して外へ出るな、君自身の内に帰れ、内的人間にこそ真理は住む。そしてもし君の本性が可変的であることを見出すならば、君自身をも超え出よ。しかし君が君を超え出るときには、理性的に反省する霊魂を君が超え出るということを忘れてはならない。それゆえ理性の光そのものがともされる所に向ってゆけ」。なおフッサールの『デカルト的省察』の末尾に以上の言葉の最初の文が引用されている。「実証科学は世界喪失における学である。われわれは世界を普遍的な自覚において取り戻すために、まず最初にエポケーによって世界を失わねばならない。(決して外に出るな)とアウグスティヌスはいう。(君自身の内に帰れ、内的人間にこそ真理は住む)」
    **************

    (訳注1)の〔フッサールの『デカルト的省察』の末尾〕を見て見ると、
    *********
    『・・・・こうして、「汝自身を知れ」(7)というデルポイの神殿の言葉は新しい意味をえたことになる。実証的な学問は、世界を喪失した学問である。世界を普遍的な自己視察において取りもどすために、まず世界を判断停止によって失わねばならない。アウグスティヌスは次のように言っている。「外に行こうとしないで、汝自身のうちに帰れ、真理は人の内部に宿っている」(8)と。』(『デカルト的省察』p279-280)

    (訳注7)古代ギリシア、デルポイの神殿の玄関の柱に刻まれていたという言葉で、(神が人間に向って)「身のほどを知れ」(自分が死すべき存在であることを忘れるな)という意味の格言と解かれていた。しかし、(プラトンの描く)ソクラテスは、それを「自分の無知を知」り、「自分の魂を配慮」し、いかに生きるべきかを考察することを命じる要求と捉えた。いまそれをフッサールは、普遍的な自己認識の道こそが哲学の道である、という意味と解しようとしている。

    (訳注8)ラテン教父アウグスティヌスの『真なる宗教」から引用。しかし、本書でたびたび現れてきたように、「外」と「内」という言い方は、誤解を招く恐れがある。フッサール自身、『論理学研究』で理念的なもののありかを「意識の外」に求めるのも、「意識の内」に求めるのも退け、まさにそのような議論のなかから、「意識の志向性」という思想を確立してきた。そして、それを近代的な「外」か「内」かという誤った問題の立て方を退けて、問題を正しく立てるためにこそ、現象学的還元が必要なのであった。その点では付け加えておくべきこととして、アウグスティヌスは、ここで引用された文に続けて、次のように述べていた。「そしてもし汝の本性が可変的であるものを見いだすなら、汝自身をも超越せよ」と。アウグスティヌスは自己の「内部」に止まるのではなく、そこから自己を超越する道を探る。フッサールも本来ならむしろ、この部分まで引用することによって、自らの超越論的なものの探究をそれに喩えるべきだったであろう。
    *********

    フッサールのとメルポンのと、ちょっと違うのかな?って思ったんで、長いけど書き留めとくことにしたよ。

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■34935 / inTopicNo.14)  Re[78]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2023/11/05(Sun) 11:09:56)
    ■34934、
    ごめん、
    『…人間は世界においてあり、ほかならぬ世界のうちで自己を知るのである。‥‥』は、No33337には書いとかなかったみたい。

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■34934 / inTopicNo.15)  Re[77]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2023/11/05(Sun) 10:56:29)
    わたしの物語りに戻りま〜す。

    No34845で、現象学が視野のうちに入れてる(テーマとする)「世界」っていうの、わたしのなかでひとまず定まったんだけど、

    No33337の、
    『…人間は世界においてあり、ほかならぬ世界のうちで自己を知るのである。‥‥』
    と、
    No34792の訳注は、同じところに書いてあったのでまとめとく。

    (i)『‥‥知覚は、その上にあらゆる行為が浮かび上がる背景であり、行為はこれを前提といている。世界は、その構成法則を私が手中にもっているような、ひとつの対象ではない。世界は、私のあらゆる思惟と明瞭な知覚との自然的な場であり領野である。真理は単に「内的人間」*だけに「住まう」のではない。いやむしろ、内的人間などは存在しないのだ。人間は世界においてあり(訳注2)、ほかならぬ世界のうちで自己を知るのである。私が常識の独断論、もしくは科学の独断論から出て、私自身に帰ってくるとき私が見出すのは、内在的真理の根源ではなくて、世界に委ねられた一つの主体(訳注3)なのである。‥‥』(『知覚の現象学』p6)

    (*原注) 汝の内に帰れ、内的人間のなかにこそ真理は宿る―アウグスティヌス

    (訳注2)は、
    No34792のね。

    (訳注3)
    原語はun sujet voue au monde.このsujetは名詞であり、哲学用語として「主体」であるが、形容詞としてのsujet aには「・・・に隷属している」「・・・に従うべき」「・・・を免れがたい」という意味があり、こういう意味のニュアンスがメルロ=ポンティの主体概念にはまといついている。この点を考慮せずに単純にドイツ語のSubjektの訳語たる「主観」「主体」と同義にすると、「世界に委ねられた一つの主体」とは自己矛盾した概念になる。
    (アキュートアクセントは省略してます)

    ここんところ、わたしに思われたのは後で。

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■34917 / inTopicNo.16)  Re[76]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2023/11/04(Sat) 17:58:42)
    そこはかとなく

    「世界」というもの、「世界」と呼んでるもの、の横道。

    パニさんが提示してくれた、アンシュタインとタゴールとの会話、のなかに、
    • タゴール:「この世界は人間の世界です. 世界についての科学理論も, 所詮は科学者の見方にすぎません」
    ってあった。
    これについてだけのね。

    タゴールちゃんが言う「人間の世界」っていうの、わたしにはわかんないんだけど、これ横に置いといて。
    もしタゴールちゃんが自分自身のことを「人間」だと思ってるだとしたら、
    そのままタゴールちゃんにお返しできるかも?
    〈この世界は人間の世界です。このような世界についてのタゴールちゃんのも、所詮はタゴールちゃん見方にすぎません〉
    って。

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■34901 / inTopicNo.17)  Re[75]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2023/11/03(Fri) 19:11:16)
    メルポンのいう「世界における(への)存在」から、いまのわたしの物語りを「世界における(への)存在としての私」ってしてるんだけど、

    ちょっと、横道に入って、
    No34900の、わたしが興味ある問いについて、

    「実在する」と「存在する」っていうのは区別して見た方がいいのかも?って。

    そこはかとなく。

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■34846 / inTopicNo.18)  Re[74]: つれづれなるままに
□投稿者/ 花火田ドン -(2023/10/30(Mon) 19:51:04)
    俺にとっての世界は、イマジネーション(文化)とメランコリック。
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■34845 / inTopicNo.19)  Re[73]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2023/10/30(Mon) 19:31:31)
    “「世界」というもの”、“「世界」と呼んでるもの”、
    ハイデガーは、
    No34697の(d)のように分けてるんだと思うけど(たぶん)。わたしにはよくわかんなかった。

    ひとまず、現象学のを見ていく。

    No34813の(h)から、
    現象学がテーマとする「世界」というの、「生きられた世界」とか「生活世界」ってしていいかも。
    ハイデガーのでは、
    No34770の(f)に「平均的日常生活という地平」、
    No34697の3に「環境世界」――そしてハイデガーは「われわれは、世界という表現を述語的には3で確定された意義をあらわすために要求する」って言ってる。
    メルポンの、
    No33577の(a)の〈現実に存在するものとしての世界〉、(b)の〈世界のこれこれの一区画に隣接する地平〉というのもある。

    わたしの、
    わたしに、あるものが見え、考えるとき、メルポンの言う「地の上の図」っていうのを忘れないようにしようと思ってる。「地」っていうの、フッサールでは「地平」って言ってるのかも。「顕在的地平」「潜在的地平」っていうのあるみたいで、わたし簡単に見て、それぞれ〈見えてる背景〉、〈見えてない背景〉ともしてる。「図」をあるひとつの「対象」とも見てる。いづれにしても「図(対象)」はすべて「地(地平・背景)」をもっていて、両者の関係性によって図が見え(知覚され)隠れしている、みたいなふうに見てる。
    前に、こういういうのを、
    No29540 で絵で描いて見た。
    このように“されるもの“としての私だけじゃなくて、”するもの“としての私っていうのもあって、”するものとしての私“が、なにか”して“「したもの」が出来るとするね。この私が「したもの」を「図」ってして見るのね。そして、メルポンは『地の上に図を描いたらそれを再び地に戻してみる』みたいなことを言ってたと思う。
    「世界」っていうの、こういうよな「地(地平)」として見たらいいのかも?って。
    こんなことわたし思ってるから、
    現象学がテーマとする「世界」っていうのを、フッサールのいう「生活世界」ってしてもいいんだけど、わたしのばあい、〈日常生活という地平〉とか、私の〈生きられた生活世界〉のこと、ってした方がわたしには分かりやすい感じ。
    こういうんから、〈世界における(への)存在としての私〉の〈世界〉っていうのを、言いかえると、
    〈日常生活という地平における(への)存在としての私〉
    〈生きられた生活世界における(への)存在としての私〉
    っていうことになるのかな。

    「世界」が狭い、っていう人もいるかもね。
    でもね、・・・・・・・・ ← そういう人いたら書くね。

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■34814 / inTopicNo.20)  Re[72]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2023/10/29(Sun) 19:33:41)
    いま、〈世界における(への)存在としての私〉がわたしの物語りになってるんだけど、

    「世界」っていうの、

    No33577の、
    『「世界」というものの知覚がないかどうか』(?)
    とか、
    No34770の、
    『そもそも世界というものが存在しているのかどうか』(?)
    っていう問いを、現象学からつきつけられて、わたしのばあい困惑しちゃってる。

    “「世界」というのも”あるいは“「世界」と呼んでるもの”、わたしどういうものだって思ってるのかしら、って。

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■34813 / inTopicNo.21)  Re[71]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2023/10/29(Sun) 19:31:12)
    「世界」について、メルポンのに戻るね。

    (h)『‥‥現象学は、「厳密学」たろうとする哲学の野心であるが、またそれと同時に、「生きられた」空間、世界についての報告でもある。それは、われわれの経験の心理学的な発生や、科学者、歴史家、もしくは社会学者が提供しうるような、その因果的な説明を願慮せずに、経験をあるがままに、直接、記述しようという試みである。だがフッサールは、晩年の諸著作のなかで「発生的現象学」、いや「構成的現象学」にまで言及している。こうした矛盾は、フッサールの現象学とハイデガーのそれを区別することによって、解決されるだろうか。しかし『存在と時間』はすみずみまで、フッサールの指示に由来するものであって、要するにこれは、フッサールが、その生涯の終わりに臨んで、現象学の最も主要なテーマとして提起した「自然的世界概念」あるは「生活世界」の、一つの解明にすぎないのだ。‥‥』  (『知覚の現象学』p1-2)

    ここにある「自然的世界概念」っていうの、まだわたしいまいちわかんない。

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■34811 / inTopicNo.22)  Re[70]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2023/10/29(Sun) 18:25:11)
    「世界」について、
    ハイデガーのを見てきたんだけど、もういちどメルポンのを見て見ようとしてるんだけど、
    その前に、

    わたしが〔世界(文化・自然)〕ってしたのを書いとく。
    あくまでもわたしのばあい、ね。
    @「世界」っていうのを「存在」とも言うことにしちゃってる。
    No34697の1に『世界は、存在的概念と使用され』ってあるのから。もっとも『存在的』になってるけどね。
    A「人(私)」を中心にして、「世界(存在)」を大きく二つに、〈人(私)がつくりだしたもの〉を「文化(的存在)」、〈人(私)がつくりだしたものではないもの〉を「自然(的存在)」って分節。
    Bそして「人(私)」はその間にいるから、文化と自然が絡み合った場。
    っていいうふうに(前にも喋ったかもだけど)。
    ちなみに「身体」は「自然的存在」ってして見てる。だから、私と自然とは身体という臍の緒で結びついてる、とも見てる。

    こういうふうに「世界」っていうのを「文化」と「自然」に分けて見ることにしたのは、やっぱ、メルポンのからね。
    そのきっかけとなったところを書き出しておくね(前にも書いたけど)。

    (h)『…コギトとは、三世紀以前にデカルトの精神のなかで形成されたあの思想であるか、それとも彼がわれわれに残したさまざまなテキストの意味であるか、あるいはまた、それらを貫いて現れる永遠の真理であるか、いずれにせよ、私の思惟が捉えようとするとうよりも、むしろ、なじみ深い環境において私の身体がもろもろの事物のさなかにあって、これらの事物をはっきりと表象するまでもなく、おのずと方向をとって進んでゆくのと同じように、私の思惟が向かってゆくところの、一個の文化的存在なのである。…』(『知覚の現象学』p602)
    の、
    『コギトとは、・・・・一個の文化的存在なのである。』っていうところから。

    「コギト」――考えることとそれによって考えられたもの――これって〈人(私)がつくりだしたもの〉よね。

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■34806 / inTopicNo.23)  Re[69]: 知的財産
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2023/10/29(Sun) 15:56:05)
    ■34805、田秋さん、ありがとございます。

    わたしの、私的使用のための複製(第30条)の範囲を超える利用ではないし、
    出どころも書くようにしてるので、

    ちょっと安心しました。



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■34805 / inTopicNo.24)  知的財産
□投稿者/ 田秋 -(2023/10/29(Sun) 15:12:56)
    こんにちは、悪魔ちゃん

    知的財産とは
    「知的活動によって生まれ、経済的に価値のあるもので、それ自体には形のないもの」
    と言うことが出来ます。専門用語では上文「価値あるもの」は「価値ある情報」、「形のないもの」は「無体物」となっています。
    具体的には著作物、発明、商標などで、また著作物とは「文芸、学術、美術、音楽の範疇」を指します。又、舞踊や建物も含まれます。

    小説や論文は「情報」と表現するのですね。無体物というものは少し考えると「?」が点きます。
    「本って形あるじゃない?」
    本は媒体であって、知的財産と言うのは「その中身」ということです。美術品に関しては色々コムツカシイ判例があります。
    著作権法第2条 「判例」参照
    https://ja.wikibooks.org/wiki/%E8%91%97%E4%BD%9C%E6%A8%A9%E6%B3%95%E7%AC%AC2%E6%9D%A1

    建物も著名な人が建てたもの(経済的価値のあるもの)は著作物になります。建物が無体物?と疑問を持ちますが、著作物だと認定されれば著作物となり知的財産となるようです。建物に関してこれ以上はわかりません。

    悪魔ちゃんが興味あるのは多分「著作の複製」というところじゃないかな。色々書き写したりしているから。

    「複製権とは」
    https://jrrc.or.jp/educational/guide/outline/

    著作権法第21条
     著作者は、その著作物を複製する権利を専有する。
    著作者以外に複製権を持つものはいない、ということです。

    第63条 著作権者は、他人に対し、その著作物の利用を許諾することができる。
    複製したいのなら著作者の許しが必要、ということです。

    この後、「著作権法で定められた例外」というものが列記されています。ここは悪魔ちゃんには参考になると思います。

    私見ですが、悪魔ちゃんがニークラで行っている行為は、
    営利を目的としないし、「引用」をちゃん明記していれば問題はないと思います。

    版権の切れたものは大丈夫ですが、翻訳物となると翻訳に対する著作権が生まれるので、やはり「引用」は常に明記した方が安全と言えます。
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