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Re[32]: つれづれなるままに
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□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2023/09/28(Thu) 19:59:24)
| No33567からの。 【モーリス・メルロ=ポンティ著『行動の構造』 1942年 滝浦静雄・木田元訳2014みすず書房】から、ところどころ書き写して見ると、
****** 『ハイデガーが示唆しているように、「世界」というものの知覚がないかどうか、すなわち諸対象を現実性として考えるような〈不定な対象野〉に近づく仕方がないかどうかを知る問題は、保留しておこう。たしかなことは、〈知覚されるもの〉は私の肉眼に映るものにのみかぎられない、ということである。私が机に座っているとき、空間は、概念としてばかりではなく現実性としても私の背後で閉じているのである。〈知覚されるもの〉の地平が世界の果まで広げられうるものとしても、〈現実に存在するものとしての世界〉についての知覚的意識は、〈無数の真なる判断の対象としての世界〉についての〈知性的意識〉とは異なるものである。』(下p188)
『〈現実に存在するものとしての世界〉についての知覚的意識は、〈無数の真なる判断の対象としての世界〉についての〈知性的意識〉とは異なるものである。』(下/原注)
『〈世界についての知〉と、世界のこれこれの一区画やそれに隣接する地平についての〈私の知覚〉とを混同してはいけない。』(下p148) *******
「世界」っていう「語」、「世界平和」「世界地図」「私の世界」・・・とかいろいろに使われてる。 わたしの今の話題は、〈「私」を「世界における(への)存在」として見る〉、っていうなかにも「世界」っていう語が出てくる。 「世界」、わたしのどうしとこかな〜?って。
課題増えちゃって、思案中。
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