| ■25751、おくったがわさん、ありがとございま〜す。
>「これはコーヒーカップである」< 「主語と述語」、なんかいい例を出してくれて。
「これ」が主語で、「コーヒーカップである」が述語ね。
目の前にカップがあって、このカップが「これ」とするよね。
「これ(カップ)」は「コーヒーが入ってるカップ」じゃない場合もあるよね。 紅茶が入っていれば「ティーカップ」?日本茶が入っていれば?ん?なんて言うの?わかんないけど(少なくともコーヒーカップとは言わないよね)。そのカップは入っているものによって名が変わるよね。
じゃ、中に入ってるものを抜きにして、 「これはカップである」ってして見たときも、けっきょく同じなのね。
もっとなくしちゃうと、
〈これなあに?〉
「これは○○である」以前の。
「AはBである」 わたしこれ、主語と述語って見てないのね。
「A」と「B」は「である」でつながってる。 もし、「A」と「B」が融合ないし合致するとしたなら、 「Aである」か「Bである」っていう表現でしかなくなるんじゃないかしら?
こういう意味で、求さんの >(分かたれた)二者がいくら無限に接近しようとも、やはりその間には無限の隔たりを考えることができる。ここにあっては、限りなく近づくことが、じつに限りなく遠ざかることなのだ< にはそうなのかな〜ってわたし思ってる。
だから「AはBである」においては、「A」と「B」は別もの、ってなるとおもうんだけけど、わたしこれを「亀裂」って言うより「裂開(開け)」って見てる(もっとも「亀裂」を「明け」という意味なんだったら同じことを言ってることになるだけど)。
「B」が「A」の〈開け〉になるっていうこと。
何言ってるかわかんないかもしれないけど、たとえば、
「白鳥(A)は白い(B)」、これは「明け」じゃななくて、 「三角形(A)の内角の和は二直角(B)」、これが「明け」っていうこと。
> 分けてはならぬ---この禁則を鉄の掟とするパルメニデスは、二つ以上の多を背理とみなした。二つを認めるやいなや、その間を三つと数えなければならず、これが限りなく続いてしまうからである。「間」は呪わしき無限の泥海なのだ。<
この<分けてはならぬ>の<分け>っていうのが誰の分かんないけど、 これについては、いまのところ横に置いとく。
<その間を三つと数える>なんだけど、この三つをどう数えるかが問題よね。
〈ある〉〈か〉〈ない〉の三つ。 〈ある〉〈と〉〈ない〉の三つ。 の三つがいまのところわたしのなかでは浮かんでるんだけど。 「間」っていうのは、〈か〉、〈と〉のことね。
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