| 「問いかけと直観」のなかにもハイデガーでてきてるからそこんとこ抜粋します。
滝沢静雄/木田元共訳 ******** 〈存在〉がもはや私の前にあるのではないし、私を取り囲み、或る意味では私を貫いており、私の〈存在〉の直視もどこかよそでではなく、〈存在〉のただなかでなされるために、いわゆる事実ないし空間−時間的個物が、一挙にさまざまの軸や回転軸・次元・私の身体の一般性を備えていることになり、したがってそれらの個物の継ぎ目にはすでに理念が象眼されていることになるからである。他の諸地点や諸時点に拠ることもなく、他の諸地点や諸時点の異本(同一原典に由来しながら伝承の過程で本文の順序や組み立てなどに異同を生じた本。別本。世間にほとんど流布していない珍しい本。)でもないような或る地点・或る時点というものが存在しないのは、他の諸地点や諸時点がその地点・時点の異本であるのと同様である。〔また、個物についても同様であって、〕或る種や仲間の代表でもなく、或るスタイルももたず、そのようなスタイルそのものでもなく、自分の権限の及ぶ空間と時間の領分を管轄する或る仕方、その領分を画定し、それを分節化し、まったく潜在的な中心の周りに放射状に広がる或る仕方、要するに能動的な意味での存在(étre)の或る仕方、ハイデガーがWesenという語を動詞〔wesen=現成する〕として使う場合に、その語がもつと言われる意味での或るWesen*をもっていないような個物も存在しないのである。
*この高等中学校は、三十年後に再びそこにやって来たわれわれにとっても、今日こそそこに住んでいる人たちにとってと同様、その諸特徴によって記述することが有益だとか可能だといった一つの対象であるよりも、むしろ、或る臭い、空間の或る周辺に作用を及ぼすような或る感情の木目である。このビロード、この絹は、私の指の下では、指に抵抗したり屈服したりする或る仕方であり、或る場所Xから私の肉に応え、私の筋肉の運動に応じたり、その惰性によって筋肉の運動を試したりするざらざらした、なめらかな、きしむような或る力なのである。[Heidegger,Einführung in die Metaphysik,Niemer,Tübingen,1953,S.26.]〔『形而上学入門』川原栄蜂訳、理想社、47−8頁。――ただし、この文はハイデガーの叙述そのままではない。訳者〕 ********
山中元訳 ******** 「存在」がもはやわたしの前にあるものではなく、わたしを取り囲み、或る意味ではわたしを横切るからである。「存在」についてのわたしの視覚は、どこか別の場所においてではなく、「存在」の場において生じるからである。事実と呼ばれるもの、空間・時間的な個体は、わたしの身体の軸、要(かなめ)、次元、一般性の上に最初から乗っているのであり、そのために観念はわたしの身体の関節にはめ込まれているからである。他の空間や時間とかかわりのない場所というものはなく、他のヴァリエーションでない場所というのもない。いかなる固体といえども、存在の一つの種類または〈族〉を代表しないものはない。空間と時間の領域を管理する特定のスタイルや方法をもたず、特定のスタイルや方法でないような個体はない。この領域においてこの個体はまったく仮想的な中心の周囲に暈(うん:日や月の周りにできる薄い光の輪。かさ。めまい。ぼかし。)をもち、この領域を分節し、これを表明する能力を有する。要するに、能動的な意味において、ある本質(Wesen)でないでない個体、ハイデガーがいうように、この本質という語が動詞として使われた際の本質でないような個体は存在しないのである。〔3〕
原注〔3〕「この学校は、そこに住む人々にとっても、三十年度後に再訪しているわたしたちにとっても、有益であったり、その特性によって記述することができるような一つの対象であるというよりは、ある特定の匂いであり、特定の情緒を伴う手触りであり、これが知近くににある特定の空間に力を発揮する。このビロード、この絹は、わたしの指の下で、わたしの指に抗い、これに従う特定の仕方である。これは場所Xからわたしの〈肉〉に応答し、筋肉の運動に従い、その慣性へと誘うざらざらした力、滑らかな力、きしむ力なのである」(ハイデガー『形而上学入門』)ニーマイヤー、テュービンゲン、1953年、26ページ。[訳注――これはメルロ=ポンティによる自由な引用である])。 ********
ちなみに、Wesenをネットで調べたら、 〔([英] essence)本質, 本性(ほんせい); 実体; 本性(ほんしょう); 性格, 人柄; 存在物〈者〉, 人間, 生物; ⸨雅⸩ 営み, 活動.〕 ってあった。
このWesenという語を動詞として使う場合、ってあるから、 ん〜ん、たとえば、〈人間する〉っていうことになるのかな?
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