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■25642 / inTopicNo.25)  Re[64]: : 哲学ってなあに?
  
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/08/15(Mon) 20:38:12)
    他者支配と殺し合い、
    これが人間の真なる「”理”念」
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■25641 / inTopicNo.26)  Re[63]: : 哲学ってなあに?
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/08/15(Mon) 20:30:42)
    哲学は、役に立たないどころか、今の日本で生きる価値がないことを示してくれる。

    ま、この日本社会のあり方、もういいかな。
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■25635 / inTopicNo.27)  Re[62]: : 哲学ってなあに?
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/08/15(Mon) 15:41:36)
    お邪魔しま〜す、
    って、ここわたしんとこじゃん。

    「自明なこと」で想い出した。

    フッサールの『デカルト的省察』の訳注に、

    〔フッサールは『論理学研究』においてもこう述べていた。「哲学者はまさに《自明なこと》の背後に最も困難な諸問題が隠れていることをも当然承知していなければなるまい。逆説的ではあるが、しかし深い意味をこめて、哲学とは平凡な事柄についての学であるとさえ言えるほどである」と。〕

    「〈ある〉っていうの、どういうこと?」っていうのも自明なことになってることへの問い。

    「問いかけと直観」の最後の一節、
    No25556の、メルポンにおける[哲学的問いかけ]、
    ここんところに関するのがもう一箇所ありました。抜粋しておきます。

    滝沢静雄/木田元共訳
    *********
    したがって、哲学的な問いかけは、それを満足させてくれるような或る意味の単なる期待ではない。「世界とは何か」、あるいはもっと正しくは「〈存在〉とは何か」といったそれらの問いも、一種の複視によって、事物の状態と同時に問いとしてのおのれ自身に狙いを定め、「存在」という意味と同時に意味の存在と〈存在〉における意味の位置を目指す限りでのみ、哲学的な問いとなるのだ。自分自身を振り返り、問うとは何であり、答えるとは何であるのかをも自問することが、哲学的問いかけの特性なのである。
    *********

    山中元訳
    *********
    結局、哲学の問い掛けはとは、ある意味を探すこと、欠けていた意味をただ持っているようなものではない。「世界とは何か」という問い、あるはむしろ「存在とは何か」という問いが哲学の問いとなるのは、ある種の〈複視〉によってである。この〈複視〉としての問いは、事実の状態を目指すとともに、問いそのものに向う問いであり、「存在」の意味とともに、意味の状態を目指すとともに、問いそのものに向う問いであり、「存在」の意味とともに、意味の存在、「存在」における意味の場所を問う問いである。自らに立ち戻り、問うというのはどういうことか、答えるということはどういうことかと問うこと、これが哲学の問いというものである。
    *********

    世界=存在、ってしてみてもいいのかも、って。

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■25630 / inTopicNo.28)  Re[61]: : 哲学ってなあに?
□投稿者/ 田秋 -(2022/08/15(Mon) 08:29:16)
    おはようございます、おくたがわさん

    まずは、下に掲載した文章をご覧下さい。これは今期放送大学で受講した「西洋哲学の根源」で用いられたテキストの一部です。講師は納富信留先生です。

    これをボクなりに解釈した内容が先に投稿したものです。パルメニデス以前は「〜である」は自明の事として哲学の対象になっていませんでした。そこにパルメニデスが「本当に分かっているのか?如何にわかっているのか?それはひょっとしたら思い込みではないのか?」という疑問を投げかけたのだと思います。

    おくたがわさんのご指摘はもっともだと思います。このように「〜である」に対して疑問を持った時、おくたがわさんならどのような形で疑問になさいますか?

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■25627 / inTopicNo.29)  Re[62]: : 哲学ってなあに?
□投稿者/ おくたがわ -(2022/08/15(Mon) 07:23:18)
    No25581に返信(田秋さんの記事)
    おはようございます。

    > 古代ギリシアにパルメニデスという人がいます。紀元前6世紀後半から紀元前5世紀前半に生きた人で、ソクラテスより少し前の人です。
    >
    > What is it ?、Was ist das?
    > パルメニデス以前の哲学者は上の文の“it”や”das”は何であるか?を考えてきました(例えば宇宙とは何か?)。
    > それに対してパルメニデスは上の”is(be)”や”ist(sein)”とはそもそも何?と問うたのです。
    > この問いに対する答えを延々と探し、論じているのだと思う。
    >
    > What is "be"? 又は Was ist "sein"?

    > What is "be"?−―“ある”ってなあに?
    > これってやっぱ、哲学的な問いなんだと思う。

    文脈からすると、その"be"は、<〜である> の方でしょう? 
    そうすると what is の "is" を問うてることになる
    それは "be(=is)" を分かっているから問えていることにならないかと。。

    日本語でいうと
    「<〜である>とは何であるか?」
    って、<である>を知っているからできる質問ではないのか という。

    What is "be"? という表現が言葉の綾、もしくは上記を踏まえたジョーク的なもので、
    問うている内容は本当はそうではない とも考えたのですが
    そうすると それは何を問うているのかと。


引用返信/返信 削除キー/
■25626 / inTopicNo.30)  Re[60]: : 哲学ってなあに?
□投稿者/ おくたがわ -(2022/08/15(Mon) 07:09:41)
    No25575に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    おはよう。

    「〜がある(存在する)」と「〜である」はどういう関係なんでしょう?
    どちらも be動詞だし、日本語でも「ある」と表現できるけれど。

    「<〜がある(存在する)>とはどういうことであるか」を問うとしたら、<〜がある>よりも「〜である」の方が自明で問う必要がないことと扱われているのかな?
引用返信/返信 削除キー/
■25601 / inTopicNo.31)  Re[62]: : 哲学ってなあに?
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/08/14(Sun) 16:28:30)
    田秋さんありがとございま〜す。

    パルメニデス、ネットで調べて見ました。なんかむずかしそう。


    「ある」と「ない」について考えて見たんだけど、

    「○○がある」とか「○○である」みたになのが肯定
    「○○がない」とか「○○ではない」みたいなのが否定

    「○○がない」で見ていくと、

    「○○がない」の「○○」には〈○○がある〉が入って、
    「〈○○がある〉ではない」が否定
    だから、肯定の否定が「ない」、あるいは、「ある」がないと「ない」がない、っていうことになるのかな。

    >パルメニデスは「ない」という状況はないとしましたが、後年「ない」という状況も「ある」(0、或いは空集合)という考えも生まれました。<

    数学はよくわかんないからかかわらないことにして、
    わたしのばあい、
    >「ない」という状況も「ある」<
    っていうんじゃななくて、
    「ない」には「ある」が隠れてる、っていう感じかな。

    What is "be"?−―“ある”ってなあに?
    これってやっぱ、哲学的な問いなんだと思う。

引用返信/返信 削除キー/
■25581 / inTopicNo.32)  Re[61]: : 哲学ってなあに?
□投稿者/ 田秋 -(2022/08/13(Sat) 21:31:25)
    こんばんは、悪魔ちゃん

    coffee time
    >あと、「存在するとは何か」より、山中さんの訳し方、「あるというのはどういうことか」のほうがいいかな。でもまだかたい。もっとふつうに、「〈ある〉っていうの、どういうこと?」にしちゃおっかな〜。

    古代ギリシアにパルメニデスという人がいます。紀元前6世紀後半から紀元前5世紀前半に生きた人で、ソクラテスより少し前の人です。

    What is it ?、Was ist das?
    パルメニデス以前の哲学者は上の文の“it”や”das”は何であるか?を考えてきました(例えば宇宙とは何か?)。
    それに対してパルメニデスは上の”is(be)”や”ist(sein)”とはそもそも何?と問うたのです。
    この問いに対する答えを延々と探し、論じているのだと思う。

    What is "be"? 又は Was ist "sein"?

    ===
    「ある」が問題になると必然「ない」が問題になってきます。
    パルメニデスは「ない」という状況はないとしましたが、後年「ない」という状況も「ある」(0、或いは空集合)という考えも生まれました。

    「無い」の解釈の方が難しい。
引用返信/返信 削除キー/
■25579 / inTopicNo.33)  Re[61]: : 哲学ってなあに?
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/08/13(Sat) 19:38:18)
    「問いかけと直観」のなかにもハイデガーでてきてるからそこんとこ抜粋します。

    滝沢静雄/木田元共訳
    ********
    〈存在〉がもはや私の前にあるのではないし、私を取り囲み、或る意味では私を貫いており、私の〈存在〉の直視もどこかよそでではなく、〈存在〉のただなかでなされるために、いわゆる事実ないし空間−時間的個物が、一挙にさまざまの軸や回転軸・次元・私の身体の一般性を備えていることになり、したがってそれらの個物の継ぎ目にはすでに理念が象眼されていることになるからである。他の諸地点や諸時点に拠ることもなく、他の諸地点や諸時点の異本(同一原典に由来しながら伝承の過程で本文の順序や組み立てなどに異同を生じた本。別本。世間にほとんど流布していない珍しい本。)でもないような或る地点・或る時点というものが存在しないのは、他の諸地点や諸時点がその地点・時点の異本であるのと同様である。〔また、個物についても同様であって、〕或る種や仲間の代表でもなく、或るスタイルももたず、そのようなスタイルそのものでもなく、自分の権限の及ぶ空間と時間の領分を管轄する或る仕方、その領分を画定し、それを分節化し、まったく潜在的な中心の周りに放射状に広がる或る仕方、要するに能動的な意味での存在(&#233;tre)の或る仕方、ハイデガーがWesenという語を動詞〔wesen=現成する〕として使う場合に、その語がもつと言われる意味での或るWesen*をもっていないような個物も存在しないのである。

    *この高等中学校は、三十年後に再びそこにやって来たわれわれにとっても、今日こそそこに住んでいる人たちにとってと同様、その諸特徴によって記述することが有益だとか可能だといった一つの対象であるよりも、むしろ、或る臭い、空間の或る周辺に作用を及ぼすような或る感情の木目である。このビロード、この絹は、私の指の下では、指に抵抗したり屈服したりする或る仕方であり、或る場所Xから私の肉に応え、私の筋肉の運動に応じたり、その惰性によって筋肉の運動を試したりするざらざらした、なめらかな、きしむような或る力なのである。[Heidegger,Einf&#252;hrung in die Metaphysik,Niemer,T&#252;bingen,1953,S.26.]〔『形而上学入門』川原栄蜂訳、理想社、47−8頁。――ただし、この文はハイデガーの叙述そのままではない。訳者〕
    ********

    山中元訳
    ********
    「存在」がもはやわたしの前にあるものではなく、わたしを取り囲み、或る意味ではわたしを横切るからである。「存在」についてのわたしの視覚は、どこか別の場所においてではなく、「存在」の場において生じるからである。事実と呼ばれるもの、空間・時間的な個体は、わたしの身体の軸、要(かなめ)、次元、一般性の上に最初から乗っているのであり、そのために観念はわたしの身体の関節にはめ込まれているからである。他の空間や時間とかかわりのない場所というものはなく、他のヴァリエーションでない場所というのもない。いかなる固体といえども、存在の一つの種類または〈族〉を代表しないものはない。空間と時間の領域を管理する特定のスタイルや方法をもたず、特定のスタイルや方法でないような個体はない。この領域においてこの個体はまったく仮想的な中心の周囲に暈(うん:日や月の周りにできる薄い光の輪。かさ。めまい。ぼかし。)をもち、この領域を分節し、これを表明する能力を有する。要するに、能動的な意味において、ある本質(Wesen)でないでない個体、ハイデガーがいうように、この本質という語が動詞として使われた際の本質でないような個体は存在しないのである。〔3〕

    原注〔3〕「この学校は、そこに住む人々にとっても、三十年度後に再訪しているわたしたちにとっても、有益であったり、その特性によって記述することができるような一つの対象であるというよりは、ある特定の匂いであり、特定の情緒を伴う手触りであり、これが知近くににある特定の空間に力を発揮する。このビロード、この絹は、わたしの指の下で、わたしの指に抗い、これに従う特定の仕方である。これは場所Xからわたしの〈肉〉に応答し、筋肉の運動に従い、その慣性へと誘うざらざらした力、滑らかな力、きしむ力なのである」(ハイデガー『形而上学入門』)ニーマイヤー、テュービンゲン、1953年、26ページ。[訳注――これはメルロ=ポンティによる自由な引用である])。
    ********

    ちなみに、Wesenをネットで調べたら、
    〔([英] essence)本質, 本性(ほんせい); 実体; 本性(ほんしょう); 性格, 人柄; 存在物〈者〉, 人間, 生物; &#11816;雅&#11817; 営み, 活動.〕
    ってあった。

    このWesenという語を動詞として使う場合、ってあるから、
    ん〜ん、たとえば、〈人間する〉っていうことになるのかな?



引用返信/返信 削除キー/
■25577 / inTopicNo.34)  Re[60]: : 哲学ってなあに?
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/08/13(Sat) 17:49:03)
    「存在するとは何か」っていうメルポンの[哲学的問いかけ]で想い出したのが、

    ハイデガーの『存在と時間』にあった

    *********
    「・・・・トイウノハ、君タチガ『存在する』トイウ言葉ヲ使うトキ、イッタイ君タチハ何ヲ意味スルツモリナノカ、ソレヲ君タチガトウノ昔カラ熟知シテイルノハ、明ラカナコトダカラダ。ダガワレワレハ、以前ニハソレヲワカッテイルト信ジテイタノニ、イマデハ困惑ニオチイッテイルノダ。・・・・。」(1)
    いったいわれわれは、「存在する」という言葉で何を意味するつもりなのか、この問いに対して、われわれは今日なんらかの答えをもっているのであろうか。断じて否。だからこそ、存在の意味への問をあらためて設定することが、肝要なのである。それではわれわれは、今日、「存在」という言葉を了解できない困惑にだけでもおちいっているのであろうか。断じて否。だからこそ、あらかじめ必要なのは、この問いの意味を明らかにするなんらかの了解を、まずもってふたたびめざめさせることである。「存在」の意味への問いを具体的に仕上げることが、以下の論述の意図である。あらゆる存在了解一般を可能にする地平として時間を学的に解釈することが、以下の論述の差しあたっての目標なのである。
    そうした目標をねらうこと、そうしたもくろみのうちに含まれていて、このもくろみによって要求されている諸研究、およびこの目標へいたる方途、これらのことは、序論の役目を果たす解明を必要としている。
    (1)プラトン『ソフィステース』244a
    ********
    っていうの。

    ハイデガーのって、ちゃんと説明してくれてるからわたしにもわかりやすいよ。

    プラトンは「存在」じゃなくて「存在する」を問題としてるんだとわたし見てる。

    あと、「存在するとは何か」より、山中さんの訳し方、「あるというのはどういうことか」のほうがいいかな。でもまだかたい。もっとふつうに、「〈ある〉っていうの、どういうこと?」にしちゃおっかな〜。


引用返信/返信 削除キー/
■25575 / inTopicNo.35)  Re[59]: : 哲学ってなあに?
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/08/13(Sat) 14:44:43)
    *********
    【そこで、もし問いがもはや「それは…だろうか」の問いではありえないとすれば、それは「…は何であろうか」(quid sit)の問いとなり、後に残るのは、世界とは何か、真理とは、存在とは何かを、それらとのわれわれの共犯関係の用語で探求することだけとなる。】(TK)
    【かくして問いはもはや「…は存在するかどうか」(an sit)ではありえなくなったとすれば、哲学の問いは「…は何であるか」(quid sit)になったのであり、世界、真理、存在とは何かを、わたしたちの間の共犯関係において問うことになったのである。】(Y)

    **********
    【哲学は、懐疑よりもむしろ「何であるか」の問いによって、あらゆる存在から身を引くことに成功する。それは、すべての存在の意味を変えるからである。】(TK)
    【哲学がすべての存在者から自己を開放することができるのは、懐疑の道によってではなく、「・・・とは何か」という問いによってである。】(Y)
    *********

    ここからは、
    「‥‥は何であろうか」「何であるか」(TK)
    「…は何であるか」「…とは何か」(Y)

    を抽出しとく。

    だいたいこんなところかな。

    これまでの流れを見て見ると、

    1. 何ものかがある
    2. 何であるか
    3. 何があるのか
    で、最後に、
    あるというのはどういうことなのか

    っていうことになったんだと思う。

    わたしなりにして見ると、
    〈○○がある〉
    〈○○とは何か〉
    (○○っていうのはまだわからないものっていうことね)
    ここまではいいと思うんだけど、最後の
    「あるとは何か」とか「あるということはどういうことか」
    で考えちゃたのね。
    で、
    〈○○とは何か〉の〈○○〉の中に〈ある〉を入れたんじゃないか、って。

    すると、〈あるとは何か〉ってなるよね。

    わたし〈ある〉=〈存在する〉ってしてるから、〈存在するとは何か〉ともなる。

    ちなみに、わたし〈ある〉を「存在」とはしてない。
    だから「存在とは何か」という問いじゃない。
    「存在」っていうのがどこかに“ある”わけじゃないって見てるから。


引用返信/返信 削除キー/
■25573 / inTopicNo.36)  Re[58]: : 哲学ってなあに?
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/08/13(Sat) 13:14:56)
    滝沢静雄/木田元共訳
    ************
    われわれの通常の問い――「私はどこにいるのか」「今は何時か」――は、事実や肯定言表の欠如ないし暫定的不在であり、われわれがその連続性を確信している物や直説法の織物の中に孔のようなものである。というのも、時間や空間があるのだし、したがって通常は、この空間と時間のどの点にわれわれがいるのかということが問題になるにすぎないからである。一見したところ、哲学はこの種の問いを一般化しているだけのように見える。哲学が、そもそも空間、時間、運動、世界があるのかどうかと尋ねるとき、問いの範囲は右(縦書きを横書きにしたので、ここでは「右」じゃなくて「上」になります)のような問いよりも広いが、しかしその問いは、自然的な問いと同様に、まだ、根本的な信念に包まれた半ばの問いにすぎない。何ものかがあるわけで、問題はただ、それが本当に、われわれの見たり感じたりしていると信じているこの空間、この時間、この運動なのかどうかを知ることだけだからである。さまざまな信念の破壊、他人や世界の象徴的抹殺、視覚と見えるもの断絶、思考と存在との断絶は、それらが自称するほどにわれわれを否定的なものに据えつけてしまうわけではない。そのようなものすべてが除き去られたとしても、ひとはなお残りのもの、感覚や臆見に身を置いているのだ。
    ****************

    山中元訳
    **************
    わたしたちのふつうの問いは、「わたしはどこにいるのか」とか「いま何時か」のようなもので、ある事実や措定的な言明が欠如していること、少なくとも暫定的に不在であることを示すものである。わたしたちは事物の織り目や指標の織り目というものが連続的なものだと信じているが、この織り目にある欠落が存在していることが問いを生むのである。一つの時間と一つの空間が存在するのであり、問いで重要なのは、わたしたちがこの空間と時間のどこにいるのかを知ることだけなのである。一見すると哲学は、この種の問いを一般化しただけのものに見える。哲学が空間、時間、運動、世界が存在するかどうかを問うときには、たしかに問いの場ははるかに広くなっている。しかしこうした問いは、日常の自然な問いと同じように、〈何かあるもの〉が存在するという基本的な信念に包まれた〈半ばの問い〉にすぎない。この問いが問題にするのは、この〈何かあるもの〉が、わたしたちが見たり感じたりしているこの空間、この時間、この運動、この世界と同じものかどうかというだけである。この信念を破壊し、他者と世界を象徴的に殺害し、視覚と見えるもの、思考と存在を切断することは、わたしたちを否定的なもののうちに置くように見えるが、じつはそうではない。それらのすべてを取り除いても、わたしたちはまだ残された感覚と臆見のうちに存在しているからである。
    *****************

    ここからは
    〈何ものかがある〉(TK)、〈何かあるもの〉が存在する(Y)を抽出しときます。

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