(現在 過去ログ3 を表示中)

TOP HELP 新着記事 トピック表示 ファイル一覧 検索 過去ログ

[ 親記事をトピックトップへ ]

このトピックに書きこむ

レス数の限度を超えたのでレスできません。

(レス数限度:100 現在のレス数:100) → [トピックの新規作成]
■25702 / inTopicNo.13)  Re[68]: : 「ない」
  
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/08/19(Fri) 19:21:21)
    スイカを見て「これはカボチャじゃない」、っていうのが、
    「ない」っていうことなのかもね?




引用返信/返信 削除キー/
■25698 / inTopicNo.14)  Re[67]: : 「ある」
□投稿者/ おくたがわ -(2022/08/19(Fri) 12:43:22)
    2022/08/19(Fri) 12:52:58 編集(投稿者)

    No25689に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    こんにちは!
    > ■25688、おくったがわさん、
    > 「AならばBである」っていう肯定形を否定形で”正しく”言えるのは対偶っていう見たいね、野矢茂樹著「入門!論理学」に書いてあった。
    > 「AならばBである」に対して、「BではないならばAではない」っていう対偶の他に、
    > 「BならばAである」−―逆
    > 「AではないならばBではない」−―裏
    > っていうのもあるらしくて(逆の対偶が裏ね)、
    > この二つは「AならばBではない」を正しく言えてないみたい。
    >
    > 「論理学」では、「AはBである」っていう肯定形を否定形にするとき、”正しく言える”のは対偶、ってしてるみたいね。
    >
    > わたしが思ったのは、「AならばBである」、これを正しく否定形で表現できるのは対偶だよ、って言ってることにおいて、対偶は「AならばBである」以外のことは何も語ってない、って見たのよ。

    わかった。自分が悪魔ちゃんの言っていることを掴めてなかった。
    もとのままのことしか言ってないということ。
    それはそのとおりです。
    対偶の関係にある命題どおしは置き換え可能で、つまり「同じことを言ってる」「同じことしか言ってない」
    お時間取らせました。
引用返信/返信 削除キー/
■25692 / inTopicNo.15)  求先生
□投稿者/ pipit -(2022/08/18(Thu) 20:33:41)
    悪魔ちゃん、こんばんは!

    No25690
    > 求ちゃんは、
    > 「私は私である」を「私は私でしかない」にしちゃって(前提として)、話を進めてるみたいだけど、わたし「私は私である」が「私は私でしかない」には見えない。だからこれ以降の彼の記述は、わたしにとって、あってもなくてもいいかな、って。<

    うん。

    くっきり物事を区別しない考え方もあるかもしれないね。
    全然知らないけど、スピノザさんとか??
    仏教なんかも、無我とか縁起の考え方があるからね。

    石川求先生も、私が引用したのはまだ前書きだから、もしかしたら、いろいろおもしろくなるかも?
    でも、まだ、よくわからないんだよ。
    本文で、伝えにくいことを一生懸命伝えようとしてるのは伝わる気がするんだけど
    (^^;)


引用返信/返信 削除キー/
■25690 / inTopicNo.16)  Re[67]: : ある、と、主語と述語への分別
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/08/18(Thu) 19:50:40)
    No25671、pipitさま、
    >おじゃま!いつもいろいろありがとう<
    いいえ〜、こちらこそ。「純理を読んでみる」、けっこう参考にさせてもらってます。

    せっかく紹介してくれた石川求さんの部分、いろいろ考えてておそくなりました。
    いろいろあるけどそれはやめとくとして、これだけを、

    求ちゃんは、
    「私は私である」を「私は私でしかない」にしちゃって(前提として)、話を進めてるみたいだけど、わたし「私は私である」が「私は私でしかない」には見えない。だからこれ以降の彼の記述は、わたしにとって、あってもなくてもいいかな、って。



引用返信/返信 削除キー/
■25689 / inTopicNo.17)  Re[66]: : 「ある」
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/08/18(Thu) 19:18:27)
    「ある」と「ではない」については、前に言ったように、
    「ではない」には「ある」が前提となっている、ってとりあえずしたんだけど。
    だからメルポンの哲学的問いかけの〔〈ある〉ということはどういうことか〕に関心がるのね。このようななかで、田秋さんがパルメニデスのを紹介してくれて、「ない」っていうのも問題となってるんだな〜、って思ったのね。

    ■25688、おくったがわさん、
    「AならばBである」っていう肯定形を否定形で”正しく”言えるのは対偶っていう見たいね、野矢茂樹著「入門!論理学」に書いてあった。
    「AならばBである」に対して、「BではないならばAではない」っていう対偶の他に、
    「BならばAである」−―逆
    「AではないならばBではない」−―裏
    っていうのもあるらしくて(逆の対偶が裏ね)、
    この二つは「AならばBではない」を正しく言えてないみたい。

    「論理学」では、「AはBである」っていう肯定形を否定形にするとき、”正しく言える”のは対偶、ってしてるみたいね。

    わたしが思ったのは、「AならばBである」、これを正しく否定形で表現できるのは対偶だよ、って言ってることにおいて、対偶は「AならばBである」以外のことは何も語ってない、って見たのよ。


引用返信/返信 削除キー/
■25688 / inTopicNo.18)  Re[65]: : 「ある」
□投稿者/ おくたがわ -(2022/08/18(Thu) 18:01:12)
    No25672に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    こんにちは。
    心を入れかえて、自分が考えたことを投稿させていただきます。

    > 平和であることが、よいことである。
    >
    > 対偶をとると、
    > よいことであるではないは、平和であることではない。
    > これ、なにも語っないよね。

    一見不自然やけど、考えてみたら
    「よいことである」でないなら、平和であることではない。
    で、それなりに語っているのでは。

    日本語としての自然さについて--
    対偶は「PならばQ」と「QでないならばPでない」の関係ですが
    P,Qには命題が入ります。

    「ニーチェクラブはディオニュソス的である」
    は、命題「そこがニーチェクラブである」ならば 命題「そこはディオニュソス的である」
    などと解釈して、その対偶
    「そこがディオニュソス的でない」ならば「そこはニーチェクラブではない」

    「ディオニュソス的でなければニーチェクラブでない」
    と変換。

    前半と後半がそれぞれどういう命題なのかを解釈して、対偶を取り、そして元の表現に近い形にもどす。この過程で個々の命題や全体の意味を変えないようにしつつ、日本語なら日本語として自然なように工夫することになると思います。

    内容に関わらないはずなのに「意味を変えないよう」というのは、途中で命題や全体の意味が変わることは、
    PならばQの対偶が「RでないならSでない」とか「QでないならPとは限らない」とかになるってことだから。
引用返信/返信 削除キー/
■25672 / inTopicNo.19)  Re[64]: : 「ある」
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/08/17(Wed) 20:16:07)
    平和であることが、よいことである。

    対偶をとると、
    よいことであるではないは、平和であることではない。
    これ、なにも語っないよね。
引用返信/返信 削除キー/
■25671 / inTopicNo.20)  ある、と、主語と述語への分別
□投稿者/ pipit -(2022/08/17(Wed) 12:05:50)
    2022/08/17(Wed) 12:09:46 編集(投稿者)

    悪魔ちゃん、おじゃま!いつもいろいろありがとう(*^▽^*)

    「ある」が話題になってて、pipitの持ってる本に関係あるかなと思う記述があるから引用しようと思います。

    『カントと無限判断の世界』石川求先生著、の前書きより、

    『(略)
    分かつ。分けて考える。あまりにも単純なこの営みに、じつは厄介な問題が秘められていることを人が自覚したのは太古の昔である。
    「私は私である」。これはなんの変哲もない同語反復(すなわち同一判断)と思われよう。ところが、そこにはすでに或る手心が加えられている。私たちはわざわざ主語と述語を分別しながら語っていたのだ。当たり前じゃないか、それがどうした、こういわれるだろうか。
     
     それでは尋ねたい。今の判断は「私は私でしかない」と同じことをいっているのだろうか。
    同じだとしよう。そうすると、最初の判断における「私である」という述部が、形の上では肯定なのに、内実はむしろ「わたし以外のなにものでもない」という否定であることにならないだろうか。
    つまり究極の肯定を自己同一性とみるなら、それは否定だったということに。この世でたった一つの個として、いかなる類も種も拒絶する、だから人間すら代表などしていない、といえるその私は、わたし以外のすべてを否定することに支えられていて、ここではなに一つ肯定しているわけではないからである。
    (略)

    【双頭の怪物(ディクラノイ)の誕生】
    そもそもの発端、それはやはりあのパルメニデスの深刻な問題提起にある。
    ただ、ある、といえるのみ---これがパルメニデスのいう大いなる真理だった。この伝でゆくなら、まさに判断という知の手段こそが邪道の始まりである。
    なぜなら、それは一にしてまったき「ある」に、主語と述語という区別を、すなわち亀裂を設けてしまうことになるから。
    つまり両者の関係をコプラ(=繋辞)において「---である」とか「---でない」とか言明をする以前に、そもそも一方が他方でないという否定をその「ある」に介入させ、肝腎かなめの「ある」がすでに〈ない〉にまみれていた、という不始末を宿すからである。
    二つに分けることそれ自体が「ある」全体が連続的である((ク)シュネケス・パーン・エスティン)という永遠の真理をはなから否定している。しかしこれは、すでに分たれていたものを繋げないと語る事後の否定ではなく、むしろ事前の、いわば法外の否定であろう。

    分けてはならぬ---この禁則を鉄の掟とするパルメニデスは、二つ以上の多を背理とみなした。二つを認めるやいなや、その間を三つと数えなければならず、これが限りなく続いてしまうからである。「間」は呪わしき無限の泥海なのだ。あのアキレスと亀がそうであったように、(分かたれた)二者がいくら無限に接近しようとも、やはりその間には無限の隔たりを考えることができる。ここにあっては、限りなく近づくことが、じつに限りなく遠ざかることなのだ。

     こんなことは不条理ではないか。判断における主語と述語の多、すなわちそれらの「間」にしても同じである。
    ならば、パルメニデスの禁令に背いて双頭の判断を知の道具にしようとする者は、いやが上にもこの無理難題を、パルメニデスの表現では「唖然の(テテーポテス)」あるいは「怪物的」論理という疚しさを、自らに引き受ける覚悟がなければならない。

     つまりプラトンは(彼もまた)判断という知の形式を甘受する。分かつことで生み落とされる主/述の「多」の委細を承知の上で、パルメニデスが告発してやまぬ「背理」を、ある規定が無限の否定を背負うこととして、しかと引き取ったのである。
    (略)』

    以上抜粋引用終わりまーす。

引用返信/返信 削除キー/
■25654 / inTopicNo.21)  Re[63]: : 哲学ってなあに?
□投稿者/ マジカルモンキー -(2022/08/16(Tue) 12:26:40)
    2022/08/17(Wed) 02:40:23 編集(投稿者)


    NO25641,25642 ← 間違っているな

    @ 悪魔ちゃんは品質がないから、なぜ故、それを書いたのか?の説明が必要。

    A 哲学はいる。

      メビウスリングの時からマジモンも、
      『 哲学はいらない、心理学の時代に突入 』といっておったが、
      哲学はいる。生命倫理と幸福論が残っている。

    B 理念

      理念は品質(Quality)の分野だけど、その悪魔ちゃんがいう理念は、
      誰に向けていっているのか?
      正直、他人は、他人の頭蓋骨の中に興味はないよ。


    ★☆★ 理念は嘘であってはいけない ★☆★
引用返信/返信 削除キー/
■25652 / inTopicNo.22)  Re[63]: : 哲学ってなあに?
□投稿者/ おくたがわ -(2022/08/16(Tue) 07:37:55)
    No25635に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    おはようございます!
    > お邪魔しま〜す、
    > って、ここわたしんとこじゃん。
    ヾ(°∇°*) ナイスボケ

    > 「自明なこと」で想い出した。
    >
    > フッサールの『デカルト的省察』の訳注に、
    >
    > 〔フッサールは『論理学研究』においてもこう述べていた。「哲学者はまさに《自明なこと》の背後に最も困難な諸問題が隠れていることをも当然承知していなければなるまい。逆説的ではあるが、しかし深い意味をこめて、哲学とは平凡な事柄についての学であるとさえ言えるほどである」と。〕
    >
    > 「〈ある〉っていうの、どういうこと?」っていうのも自明なことになってることへの問い。
    >
    > 「問いかけと直観」の最後の一節、
    > No25556の、メルポンにおける[哲学的問いかけ]、
    > ここんところに関するのがもう一箇所ありました。抜粋しておきます。
    >
    > 滝沢静雄/木田元共訳
    > *********
    > したがって、哲学的な問いかけは、それを満足させてくれるような或る意味の単なる期待ではない。「世界とは何か」、あるいはもっと正しくは「〈存在〉とは何か」といったそれらの問いも、一種の複視によって、事物の状態と同時に問いとしてのおのれ自身に狙いを定め、「存在」という意味と同時に意味の存在と〈存在〉における意味の位置を目指す限りでのみ、哲学的な問いとなるのだ。自分自身を振り返り、問うとは何であり、答えるとは何であるのかをも自問することが、哲学的問いかけの特性なのである。
    > *********
    >
    > 山中元訳
    > *********
    > 結局、哲学の問い掛けはとは、ある意味を探すこと、欠けていた意味をただ持っているようなものではない。「世界とは何か」という問い、あるはむしろ「存在とは何か」という問いが哲学の問いとなるのは、ある種の〈複視〉によってである。この〈複視〉としての問いは、事実の状態を目指すとともに、問いそのものに向う問いであり、「存在」の意味とともに、意味の状態を目指すとともに、問いそのものに向う問いであり、「存在」の意味とともに、意味の存在、「存在」における意味の場所を問う問いである。自らに立ち戻り、問うというのはどういうことか、答えるということはどういうことかと問うこと、これが哲学の問いというものである。
    > *********
    >
    > 世界=存在、ってしてみてもいいのかも、って。

    すごいグッドタイミングかつナイスな引用。
    問うってそういうことなんやなと。
    今回田秋さんの質問に答えようとして考えたことで、より分かる気がする。
    お二人に感謝。

引用返信/返信 削除キー/
■25651 / inTopicNo.23)  Re[62]: : 哲学ってなあに?
□投稿者/ おくたがわ -(2022/08/16(Tue) 07:29:07)
    No25630に返信(田秋さんの記事)
    田秋さん、おはようございます。返信ありがとうございます。

    > まずは、下に掲載した文章をご覧下さい。これは今期放送大学で受講した「西洋哲学の根源」で用いられたテキストの一部です。講師は納富信留先生です。

    文献の添付、感謝します。

    > これをボクなりに解釈した内容が先に投稿したものです。パルメニデス以前は「〜である」は自明の事として哲学の対象になっていませんでした。そこにパルメニデスが「本当に分かっているのか?如何にわかっているのか?それはひょっとしたら思い込みではないのか?」という疑問を投げかけたのだと思います。
    > おくたがわさんのご指摘はもっともだと思います。このように「〜である」に対して疑問を持った時、おくたがわさんならどのような形で疑問になさいますか?

    文献によると「〜がある」と「〜である」がほとんど区別されていないようですね。それは私には発見で、そして今もピンと来ていないというか頭の中で整理できていません。

    そこで「<〜がある>とは何か?」については違和感なく、自分もそのように問うと思います。英語に親しい人ならば What is "be"? となるのでしょうか?

    しかし「〜がある」については、どう問えばいいのか、現段階の自分には答えが出せません(問いが出せない-というべき?)。

    ただ、それを考えようとすると、様々な固定観念とか、さらにそれ以前に人の中にある思考の構造とか、それと言語の関わりとか、色々な材料が出てくるように思います。

    問おうとする時点で問われるというか…

    そして、先に田秋さんが書かれた

    > この問いに対する答えを延々と探し、論じているのだと思う。

    様々な哲学者が自らの方法でアプローチしてきたのだろうと思います。
    ニーチェクラブでそれに取り組んでいるのが悪魔ちゃんなのかとあらためて気づきました。


    具体的な答えができなくて申し訳ありませんが、このようなことを考える機会をいただき感謝します。

    **********

    かなり外れるかもしれませんが、
    日本語だと「あるとは何か」で成立してしまい動詞が要らない。英語だと動詞を外すことはできにくいのでしょうか。
    そうすると、ある動詞を使うことで、問いが方向づけられてしまう可能性、日本語なら「あるって何?」と最小の言葉で問えるので、言葉による制限が少ない可能性。
    一方で省略しない言語であれば、その動詞を使う理由や、そこに伴う思考の前提(〜である、が自明のように先んじてあること)の自覚。それを疑うにはどうすべきなのかの追求などを意識しやすい。
    「何?」だけで済む日本語では、そこに「何であるか?」がひそんでいるのか、それとも他のことを言っている(言いたい)のかも自覚しにくい のではないか…
    そんなことを考えています。
    「木を見る西洋人 森を見る東洋人」という本がありましたが…

    トンチンカンなことを書いているかもしれません。
    *******

    脈絡のない返事になりすみません。
引用返信/返信 削除キー/
■25649 / inTopicNo.24)  Re[63]: : 哲学ってなあに?
□投稿者/ flora -(2022/08/16(Tue) 01:59:08)
    No25627に返信(おくたがわさんの記事)
    > ■No25581に返信(田秋さんの記事)

    田秋さん、おくたがわさん、おじゃまいたします。
    >>古代ギリシアにパルメニデスという人がいます。紀元前6世紀後半から紀元前5世紀前半に生きた人で、ソクラテスより少し前の人です。
    >>
    >>What is it ?、Was ist das?
    >>パルメニデス以前の哲学者は上の文の“it”や”das”は何であるか?を考えてきました(例えば宇宙とは何か?)。
    >>それに対してパルメニデスは上の”is(be)”や”ist(sein)”とはそもそも何?と問うたのです。
    >>この問いに対する答えを延々と探し、論じているのだと思う。
    >>
    >>What is "be"? 又は Was ist "sein"?
    >
    >>What is "be"?−―“ある”ってなあに?
    >>これってやっぱ、哲学的な問いなんだと思う。
    >
    > 文脈からすると、その"be"は、<〜である> の方でしょう? 
    > そうすると what is の "is" を問うてることになる
    > それは "be(=is)" を分かっているから問えていることにならないかと。。
    >
    > 日本語でいうと
    > 「<〜である>とは何であるか?」
    > って、<である>を知っているからできる質問ではないのか という。
    >
    > What is "be"? という表現が言葉の綾、もしくは上記を踏まえたジョーク的なもので、
    > 問うている内容は本当はそうではない とも考えたのですが
    > そうすると それは何を問うているのかと。

    ===============

    おくたがわさんは英語の構文の事をおっしゃっているのでしょうか? おくたがわさんならどのような構文にいたしますか?

引用返信/返信 削除キー/

<前の12件 | 次の12件>

トピック内ページ移動 / << 0 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 >>
Mode/  Pass/

TOP HELP 新着記事 トピック表示 ファイル一覧 検索 過去ログ

- Child Tree -