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ある、と、主語と述語への分別
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□投稿者/ pipit -(2022/08/17(Wed) 12:05:50)
| 2022/08/17(Wed) 12:09:46 編集(投稿者)
悪魔ちゃん、おじゃま!いつもいろいろありがとう(*^▽^*)
「ある」が話題になってて、pipitの持ってる本に関係あるかなと思う記述があるから引用しようと思います。
『カントと無限判断の世界』石川求先生著、の前書きより、
『(略) 分かつ。分けて考える。あまりにも単純なこの営みに、じつは厄介な問題が秘められていることを人が自覚したのは太古の昔である。 「私は私である」。これはなんの変哲もない同語反復(すなわち同一判断)と思われよう。ところが、そこにはすでに或る手心が加えられている。私たちはわざわざ主語と述語を分別しながら語っていたのだ。当たり前じゃないか、それがどうした、こういわれるだろうか。 それでは尋ねたい。今の判断は「私は私でしかない」と同じことをいっているのだろうか。 同じだとしよう。そうすると、最初の判断における「私である」という述部が、形の上では肯定なのに、内実はむしろ「わたし以外のなにものでもない」という否定であることにならないだろうか。 つまり究極の肯定を自己同一性とみるなら、それは否定だったということに。この世でたった一つの個として、いかなる類も種も拒絶する、だから人間すら代表などしていない、といえるその私は、わたし以外のすべてを否定することに支えられていて、ここではなに一つ肯定しているわけではないからである。 (略)
【双頭の怪物(ディクラノイ)の誕生】 そもそもの発端、それはやはりあのパルメニデスの深刻な問題提起にある。 ただ、ある、といえるのみ---これがパルメニデスのいう大いなる真理だった。この伝でゆくなら、まさに判断という知の手段こそが邪道の始まりである。 なぜなら、それは一にしてまったき「ある」に、主語と述語という区別を、すなわち亀裂を設けてしまうことになるから。 つまり両者の関係をコプラ(=繋辞)において「---である」とか「---でない」とか言明をする以前に、そもそも一方が他方でないという否定をその「ある」に介入させ、肝腎かなめの「ある」がすでに〈ない〉にまみれていた、という不始末を宿すからである。 二つに分けることそれ自体が「ある」全体が連続的である((ク)シュネケス・パーン・エスティン)という永遠の真理をはなから否定している。しかしこれは、すでに分たれていたものを繋げないと語る事後の否定ではなく、むしろ事前の、いわば法外の否定であろう。
分けてはならぬ---この禁則を鉄の掟とするパルメニデスは、二つ以上の多を背理とみなした。二つを認めるやいなや、その間を三つと数えなければならず、これが限りなく続いてしまうからである。「間」は呪わしき無限の泥海なのだ。あのアキレスと亀がそうであったように、(分かたれた)二者がいくら無限に接近しようとも、やはりその間には無限の隔たりを考えることができる。ここにあっては、限りなく近づくことが、じつに限りなく遠ざかることなのだ。
こんなことは不条理ではないか。判断における主語と述語の多、すなわちそれらの「間」にしても同じである。 ならば、パルメニデスの禁令に背いて双頭の判断を知の道具にしようとする者は、いやが上にもこの無理難題を、パルメニデスの表現では「唖然の(テテーポテス)」あるいは「怪物的」論理という疚しさを、自らに引き受ける覚悟がなければならない。
つまりプラトンは(彼もまた)判断という知の形式を甘受する。分かつことで生み落とされる主/述の「多」の委細を承知の上で、パルメニデスが告発してやまぬ「背理」を、ある規定が無限の否定を背負うこととして、しかと引き取ったのである。 (略)』
以上抜粋引用終わりまーす。
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