| たまたまメルポンの『見えるものと見えないもの』の中の「問いかけと直観」「絡み合い」のところ、滝沢静雄、木田元共訳と山中元訳のがあって、タイピング終わった。 この二つの訳を見くらべて考えて見たのをすこしづつおひろめしてく。
No25391のつづき メルポンのフィロソフィアで、「哲学的な問いかけ」について記述していること、 「問いかけと直観」の結論みたいな、最後の一節を写して見ます。
滝浦静雄/木田元 共訳 ********** 以上のようにすれば、ついには、哲学的問いかけとは何であるか、がわかるであろう。それは、〈存在〉を暗にほのめかす「…‥であろうか」(an sit)や懐疑でもなければ、そこにすでに観念の絶対的確実性が貫いているような「私は何も知らないことを知っている」でもなく、本当の意味での「私は何を知っているのか」(que sais-je?)、必ずしもモンテーニュが言ったのと同じではないような「私は何を知っているのか」なのである。本当の意味でのというも、「私は何を知っているのか」は、知るという観念をまったく吟味にかけずに、ただわれわれの知っている物の解明を求めることでもありうるからである。その場合には、その問いは、「私はどこにいるのか」という問いもそうでありうるように、認識上の問いの一つなのであって、そこでのためらいはただ、それ自身で自明なものと解された存在者、例えば空間や知にどんな呼称がふさわしいかという点にあるにすぎない。だが、私が或る文の中で「私は何を知っているのか」*と言うとき、そこに生れるのは違った種類の問いである。というのも、その問いは、知そのものの観念にあふれ出し、私には欠落してるさまざまの事実や事例や観念がそこに見いだされるはずの或る英知的な場所を呼び出し、そしてこうほのめかすからである、――疑問文とは、直説法や肯定文の転倒ないし逆転から派生した叙法でもなければ、覆われたあるいは期待されている肯定ないし否定でもなく、何ものかを思念する独自の仕方であり、どんな言表や「答え」も原理的にそれを乗り越えることのできないいわば知としての問い(question-savoir)であって、したがっておそらくはわれわれの〈存在〉との関係に固有な叙法であり、まるで〈存在〉がわれわれのさまざまな問いの無言のあるいは寡黙な相手でもあるかのようなのだ、と。「私は何を知っているのか」というのは、単に「知るとは何か」ではないし、単に「私は誰か」というのでもなく、結局は「何があるのか」、さらには「あるとは何か」ということである。こうした問いは、その問いに終止符を打つような何か特定の物の提示を求めているのではなく、措定(物事を、その定義とともに呈示すること。=定立:最初に判断や主張を提出すること)されたものではないような〈存在〉の露呈を求めてるのだ。〈存在〉が措定されたものでないというのは、それは措定される必要がなく、われわれのあらゆる肯定や否定の背後に、さらには言葉に表されれたあらゆる問いの背後に沈黙したままあるからであり、それもそれらの問いを〈存在〉の沈黙のうちに忘れ去る必要があるためでも、その沈黙をわれわれのおしゃべりの中に閉じ込める必要があるためでもなく、哲学が、沈黙と言葉(パロール)との相互転換だからである。「それ自身の意味の純粋な表現にもたらされる必要があるのは、まだ無言な[…‥]経験である」(1)。
原注(1)[Husserl, Méditations cartisiennes, trad. Fr., Vrin, Paris, 1947,p.33](Cariesianische Meditationen: Husserliana Bd.I.1963の版では、S.77.『デカルト的省察』、船橋弘訳、中央公論『世界の名著』第51巻、221頁。)
訳注*「私は何を知っているのか」−―フランス語のque sais-je?という文は、単に「私は何を知っているのか」という疑問文であるだけでなく、間投句として、例えばDes robes, des chapeaux, des gants, que sais-je!(服や、帽子や手袋や、何かかや!)といったふうにも使われるので、こういう言い方がされるのだと思われる。なおAlphonso Lingisの英訳(The visible and the invisible, Northwestern Univ. Pres,1968,n.9)も、そのように解している。 *********
中山元 訳 ********* このようにして、哲学の問い掛けとは何かという問題が明らかになってきた。この問い掛けは、「存在すること」が暗黙のうちに前提とされている〈…があるのかどうか〉(an sit)という問いや懐疑ではない。また、理念の絶対的な確実性がすでに入り込んでいる「わたしは何も知らないことを知っている」ということでもない。哲学の問いかけとは、真の意味での「私は何を知っているか」という問いであるが、これはモンテーニュの問いとはいくらか異なる。「私は何を知っているか」という問いが、知の理念を吟味するのもではなく、たんにわたしたちが知っている物事を解明することを求める場合もあるからだ。このような場合にはこの問いは、知識についての問い、たとえば「わたしはどこにいるか」のように、空間や知などの実体をそれ自体では自明なものとみなし、それをどう呼ぶかについての戸惑いを示すものにすぎない。しかしわたしがある文を語る途中で、「わたしは何を知っているのか」と問うと、そこには別の種類の問いが生まれる。この問いは知そのものの理念をはみ出す問いであり、わたしに欠けている事実、実例、観念が存在するはずの叡智的な場所を呼び出すからである。この問いが暗に示唆するのは、疑問文とはたんに直接法の文や肯定の文の語順を置き換えたり、転倒させてえられる派生的な文ではなく、隠され、あるいは予期された肯定や否定でもなく、あるもの、いわば〈問い・知〉とでもいうものを目指す原初的な方法だとうことである。この〈問い・知〉とは、いかなる発語や「解答」によっても原理的に乗り越えられないものであり、「存在」に対するわたしたちの固有の関係である――あたかも「存在」とは、わたしたちの問いに対して、無言で、敢えて沈黙をもって迎える対話の相手であるかのように。「私は何を知っているか」という問いは、「知とは何か」とか「わたしはだれか」という問いではなく、最終的には「何が存在するか」という問い、「あるというのはどういうことか」という問いである。これらの問いは、何か語られたものを指し示すことによって終わるものではなく、措定されていない「存在」をあらわにすることである。「存在」とは措定されたものである必要がなく、わたしたちのすべての肯定、否定の背後で、提示されたすべての疑問の背後で黙しているものだからである。わたしたちの課題は、その沈黙のうちにこれを忘却することや、わたしたちの饒舌のうちにこれを閉じ込めることではない。哲学とは、沈黙と言葉を互いに交換することだから。「この…まだ沈黙している経験を、その固有の意味において、純粋な表現にもたらすことが重要だ」。〔8〕
原注〔8〕フッサール『デカルト的省察』フランス語、ヴラン、パリ、1947年 **********
長くなっちゃので、ここの、わたしの見えは後にします。
|