| 2022/08/08(Mon) 14:46:25 編集(投稿者)
■No25391に返信(悪魔ちゃんさんの記事) > メルポンの『見えるものと見えないもの』の訳本で、 > > 滝沢静雄、木田元共訳と山中元訳のを今タイピングして考えてるんだけど、 > 「絡み合い」のタイピンんぐは終わったので、今は「問いかけと直観」に取り組んでる。 > > 同じところと思われる、この書き出しの一節をまた書き写うして見ますね。 > > 滝沢静雄/木田元共訳では、 > ******** > 哲学は、間隙を少しずつ埋めていくというような問いを立てたり、答えをもたらしたりするものではない。問いはわれわれの歴史の内部になるのだ。問いはわれわれの生と歴史の内部で生まれ、そこで死んでいくのであって、もし問いに答えが見いだされたとすれば、問いは大抵の場合そこで変貌するが、いずれにしても、問いというこの大きな口に、経験と知の過去はいつかは呑み込まれてしまうのである。哲学は、文脈を所与のものとしては受け取らず、問いの起源と意味、答えの意味、問う者の身元を求めて立ち帰るのであり、そのようにして哲学は、あらゆる認識上の問いを生気づけてはいるがそれとは別な種類の問いかけにたどりつくのである。 > ******** > > 山中元訳では、 > ********* > 哲学とは、問いを提起し、この問いに答えることで、欠けていた空白部分が少しづつ埋まっていくという性質のものではない。問いとは、人間の生と人間の歴史の内側に属するものであり、ここで生まれ、ここで死ぬ。問いに解答が見つかると、問いそのものが姿を変えてしまうことも多い。いずれにせよ、空虚な欠落部分に到達するのは、経験と知の一つの過去である。哲学は文脈を所与のものとして受け取ることはない。哲学は問いの起源と意味を探るために、答えの意味、問い掛ける者の身分を探るために、文脈に立ち戻る。そしてそこから、すべての知識への問いを活気づけている〈問い掛け〉へと至るのである。〈問い掛け〉とは、問いとは異なるものである。 > ********* > > いろいろみたんだけど、「直観intuition」っていうのはどうやら〈感性〉の領域に現れてるものを指しているみたいなんだけど、 > いや、そうじゃないよ、っていうのがあたら言って。
誰に訪ねているのか?
【 追加 】
悪魔ちゃんには感謝しているが、悪魔ちゃん自身は、 NO25165,25169,25391 を理解してますか?
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