| パニチェさん レスありがとうございます。
>> 定言命令に従うというのは、質料的、感性的な素材に一切制約されず、純粋なる善意志の発動として実行されること、少しでも功利的な動機があったらもはや自由意志ではないので、現代人には無理ではないかと思うくらいですね。それでも、そういう道徳律が内なる心に確実にあること自体が、その回路だけが、叡智界という物自体に帰属しうることを示しているんだと。間違っているかもしれませんが、わたしの大雑把に理解しているところではこんな感じです。
>なるほど。上記はknowing itselfさんのカント的な解釈ですか? それともknowing itselfさんもそのように考えているということでしょうか?
カント哲学の基本はそうなっているだろうと、わたしは考えています。カントの考えにすべて同意するということではまったくなく、カント哲学の体系や核心をまず理解するためには、このポイントは外せないと。これを抜いたらカント哲学は成り立たないと思います。
あと、永井氏が内山興正による自己漫画図の背景にカント哲学を読み取った真の意図は、カント哲学を祖述するとか、内山興正の思想をカント哲学に還元するという意図ではなく、むしろ、カントの限界や行き詰まりを超える可能性を内山興正に探るみたいな感じではないでしょうか。これは深読みすぎるかも知れませんが(笑)。これは永井氏でも新たに一冊書く必要があるくらい、難しいテーマだと思います。
しかし、永井氏は藤田氏や山下氏とはまったく別経路で、独自に内山興正を発見しているそうですね。宗教者、 禅僧としてではなく、哲学の可能性を秘めた著者として敬意をもったと。
中村元には哲学がないが、内山興正には哲学があるといった、過激というか、永井氏ならではの断言もしているようです(笑) 内山興正はカントを超える視点をもっていた、それがわかるのはデカルトとウィトゲンシュタインと自分(=永井氏)だけだとも、山下さんとの対談で発言しています。
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