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■36494 / inTopicNo.25)  音楽と言葉における「テーマ」
  
□投稿者/ knowingitself -(2024/02/10(Sat) 13:13:14)
    哲学研究者の中村昇(ウィトゲンシュタインについても何冊か)さんが、chuo onlineに公開されている対談で言われていました。

    中村昇 ウィトゲンシュタインが、言葉と音楽についてこんなことを言っています。音楽には、その曲を決定づけるフレーズなどの「テーマ」があることが多いと思いますが、われわれが言語において「意味」だと思っているものが、このテーマと同じようなものではないかと言うんですよ。例えば「コップの意味は?」と聞かれても、コップとしか答えようがない。音楽のテーマも、それが聞こえたら「あ、こういうテーマだな」と理解するもので、それ以外に表しようがない。
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■36492 / inTopicNo.26)  Re[54]: メタ音楽は認めない?
□投稿者/ knowingitself -(2024/02/10(Sat) 12:39:17)
    田秋さん、投稿ありがとうございます。

    私はメタ言語とメタ音楽を安直に並べすぎたかもしれません、メタ音楽という語を果たして使えるのかという疑問もあります。なかなか一筋縄ではいかないです。

    ただ、クラシック音楽はそもそもメタ音楽的だという捉え方も可能かと思います。

    ソナタ形式とかフーガとか、音楽内容とは別に、形式だけを抽出して認識可能ですね。バッハやベートーヴェンではなくても、自分の作曲ではこれらの様式を念頭においていますね。
    個性的な表現メッセージもさることながら、形式を踏まえなければ作曲にはならないと。

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■36479 / inTopicNo.27)  Re[53]: メタ音楽は認めない?
□投稿者/ 田秋 -(2024/02/09(Fri) 09:17:28)
    おはようございます、knowingitselfさん

    メタ音楽については考えたことがなかったのですが、「今ある音楽の上位に位置する音楽」という認識でいいですか?

    とりあえず浮かんでくるイメージは今ある様々なジャンルの音楽、クラシック、ジャズ、ロック、ポップス、演歌、雅楽、世界の民族音楽などの上位にある音楽なんですが、そういう理解でいいですか?

    一つの手段として過去にさかのぼって調べてみるというのがあると思うのですが、色々なジャンルに分かれる前の音楽は「上位」になりますか?

    もう一つ、バルトークの様にマジャール民俗音楽を研究してそのエッセンスを抽出しそれをもとに作った音楽はメタ音楽と言えますか?

    直接感じている感情とは別に本能で感じる音楽咸というのも関係してきそうですね。

    考え出すと面白そうな題材です。が、やりたいことは他にもあるので深入りは止めようと思います。

    何かわかりやすい説明ってありますか?

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■36476 / inTopicNo.28)  メタ音楽は認めない?
□投稿者/ knowingitself -(2024/02/08(Thu) 19:42:50)
    ウィトゲンシュタインにはメタ言語の発想がないが、音楽でもメタ音楽というものを認めないと思う。

    聴衆→実演→演奏家→スコア→作曲家→音楽の神

    右に向かうほど上位になるという階梯はない?

    これらを完全に否定するようなラディカリズムはもちろん現実にありえないが、いまここに鳴っている音楽とは別にメタ音楽をもってくることはないと思う。





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■36473 / inTopicNo.29)  全体と細部
□投稿者/ knowingitself -(2024/02/08(Thu) 17:17:06)
    「言語全体との関係でのみ語の意味も決まる」という「全体論的言語観」が論理哲学論考の言語観だとされる。
    野矢茂樹さんの著作でもお馴染みです。

    ウィトゲンシュタインは言語と音楽をどちらも想定しているように私には思われるが、フルトヴェングラーの音楽理解、たとえばベートーヴェンの交響曲全体が宿るように小さな細部における推移を造形していくというところなど、強引に結びつければある程度は、ウィトゲンシュタインの言語哲学と通じるのかもしれない。

    ウィトゲンシュタインがフルトヴェングラーに触れたとか、関心をもったとかは、寡聞にしてまったく知らないが。両者は基本的にはまったく別ですが、上に述べた範囲では案外通じるものがあったりして。
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■36453 / inTopicNo.30)  「カラマーゾフの兄弟」を50回読んだ
□投稿者/ knowingitself -(2024/02/06(Tue) 16:11:35)
    「論理哲学論考」の執筆をしていた同時期に、ウィトゲンシュタインが座右において圧倒的な影響を受けた書物が、トルストイの「要約福音書」。

    あと、読んだ時期は不明だが、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」は50回読んだと言う。

    これは凄くないか。今の日本なら、かなりのの文学愛好家やロシア文学研究所でも、50回はいかないのではないか。

    ウィトゲンシュタインの根っ子にはキリスト教文学に通じるものがあるのか。
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■36434 / inTopicNo.31)  ベートーヴェンの後期弦楽四重奏曲
□投稿者/ knowingitself -(2024/02/05(Mon) 17:16:32)
    >「おそらく彼(ラムジー)が何より愛したベートーヴェンの最後の弦楽四重奏曲の一つの最終楽章について、ここで天が開くように感じる、と彼は私に語った」とあります。

    >「最後の弦楽四重奏曲の一つの最終楽章」
    これがどの楽章を指すのかについては注意が必要です。これが文字通り最後の弦楽四重奏曲、即ち第16番なら「の一つの」は必要なく、「最後の弦楽四重奏曲の最終楽章」と書くはずです。

    やはり原文がどうなってるかですね。「最後の弦楽四重奏曲の一つの最終楽章」という訳語は不正確かつ曖昧ですね。晩年の弦楽四重奏曲群とかならわかります。ただ、一つの曲の最終楽章に特定する文意であることは間違いないと思います。

    ベートーヴェンの最終期の五つの弦楽四重奏曲を愛する人なら、いずれも愛するけれど、そのうちの一曲をから特に「天が開く」印象を受けたと。ラムジーはどの曲を特に念頭においていた、もしくは特に愛していたのでしょうか。たぶん13番ではないと思います。最後に置かれた大フーガより、13番の最終楽章がいいとは普通はならないのでは?大フーガはすごいですから。12番もいいですが、それ以降の14番、15番、16番ですかね。

    この3曲の終楽章だけとって比較して、音楽から受ける印象として「天が開くように感じる」のはどれか?

    やはり16番ですかね。私としてはこの3曲で一番心動かされるのは15番ですが。一般的には14番が最高傑作とする人が多い感じですね。







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■36433 / inTopicNo.32)  ウィトゲンシュタインとラムジーの交流
□投稿者/ knowingitself -(2024/02/05(Mon) 16:37:27)
    田秋さん 書き込みありがとうございます

    >ウィトゲンシュタイン哲学宗教日記の1930年4月27日の日記に数学者ラムジ―について書かれています。
    「おそらく彼(ラムジー)が何より愛したベートーヴェンの最後の弦楽四重奏曲の一つの最終楽章について、ここで天が開くように感じる、と彼は私に語った」とあります。

    1930年に1月に、天才数学者といわれ経済学にも業績を残したラムジーが27才で夭折していますね。
    ラムジーは18歳で「論理哲学論考」の英訳を手がけて大きな影響を受け、莫大な遺産を放棄して極貧の生活をしながら小学校教師をしていたウィトゲンシュタインに何度か会いにいってました。ケンブリッジ復帰をもちかけたり、ウィトゲンシュタインのケンブリッジ復帰を熱望するケインズ(あの大経済学者)からの渡航資金援助の申し出なども取り次いで。ウィトゲンシュタインは首を縦に振らなかったそうですが。

    その後、ウィトゲンシュタインがケンブリッジに戻ったとき、ケインズは「さて、神が到着した。五時十五分の列車だ彼に私は会った。」と手紙に書いています。

    ケンブリッジに復帰してから、ウィトゲンシュタインとラムジーは、対等な立場で議論したそうです。

    ラムジーの死はかなりの衝撃だったのではないでしょうか。
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■36426 / inTopicNo.33)  全財産の放棄
□投稿者/ 田秋 -(2024/02/04(Sun) 16:01:51)
    2024/02/04(Sun) 16:06:21 編集(投稿者)

    こんにちは、 knowing itselfさん

    >そういう恵まれすぎる環境(ちょっとすごすぎる)だと、レコードを聴く気になるかどうかわかりませんね。(研究所より転記)
    そうですね。一流の生演奏が聴けるのならレコードは要りませんね。

    ウィトゲンシュタイン哲学宗教日記の1930年4月27日の日記に数学者ラムジ―について書かれています。
    「おそらく彼(ラムジー)が何より愛したベートーヴェンの最後の弦楽四重奏曲の一つの最終楽章について、ここで天が開くように感じる、と彼は私に語った」とあります。

    「最後の弦楽四重奏曲の一つの最終楽章」
    これがどの楽章を指すのかについては注意が必要です。これが文字通り最後の弦楽四重奏曲、即ち第16番なら「の一つの」は必要なく、「最後の弦楽四重奏曲の最終楽章」と書くはずです。

    「最後の弦楽四重奏曲の一つ」というと最後の弦楽四重奏曲が幾つかあって「そのうちの一つ」と捉えるのが自然です。では”最後の”弦楽四重奏曲は何番を指すのか?
    これは容易に想像できます。第11番「セリオーソ」は1810年の作なのに対し、12番以降はどれも15年後の1825〜6年に書かれているので「最後の弦楽四重奏曲」は12番から16番までの5曲を指しているとみて間違いありません。そのうち13番は最初終楽章に「大フーガ」を書きましたが、後に別の終楽章を書いているので結局12番〜16番の最終楽章は全部で6つあることになります。

    言葉通りに捉えるならラムジーはこの6つの楽章のうちのどれかを聴いて「ここで天が開くように感じる」と言ったことになります。が、6曲の中のどれかはわからない状態で、果たしてウィトゲンシュタインは満足したでしょうか?
    「そのうちの一つって、一体何番のことだい?」と尋ねずにはおかないでしょう。
    ここは、一度原文に当たる必要があると思います。

    で、ボクの推察はやはり第16番、最後の弦楽四重奏曲の最終楽章ではないのかと思います。というのもこの最終楽章の頭にベートーベンの自筆で「Muss es sein」、「Es muss sein」の動機が表示されているからです。

    下はジュリアード弦楽四重奏団による16番です。4楽章は20’15”からです。
    https://www.youtube.com/watch?v=c9rvlKRUY2U

    会話の分析が長くなってしまいましたが、ボクが言いたかったのはウィトゲンシュタインもラムジ―もベートーベンの後期の弦楽四重奏曲をよく知っていたということです。知っているだけでなく、それを通して自分を表現し、またそれを聞いた側もそれを理解する。こういうのを教養というんですかね!?
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■36412 / inTopicNo.34)  knowing itselfさんへ
□投稿者/ パニチェ -(2024/02/03(Sat) 18:39:49)
    2024/02/03(Sat) 18:41:05 編集(投稿者)

    こんばんは、knowing itselfさん。レスありがとうございます。

    No36400に返信(knowingitselfさんの記事)
    > 詳しいどころか、基本的なことの理解もグラついていることを自覚しています。

    そうなんですね。私がブレブレだったのでknowing itselfさんにはあまりグラついているところが感じられなかったのでレスしました。

    > 「論理哲学論考」一冊なんですよね、生前公刊されたのは。同書を完成した後、哲学とケンブリッジの地位を捨てて、小学校教師になり、約10年後にケンブリッジに復帰する。その頃に学位論文として同書を提出した。その口頭審査をしたのがラッセルと哲学教授のムーアで、その席でウィトゲンシュタインは二人の肩を叩き、「心配しなくていい、これをあなた方が理解できないことはわかっている」と言ったそうですね。

    > ムーアは審査報告で「私自身は氏の学位論文を天才の仕事だと見なしている。仮に氏が天才でも何でもなくても、ケンブリッジ大学のPh.Dに必要な水準は優に超えている」、などと評しているそうです。

    これ実話なら凄いですよね。

    > ウィトゲンシュタインは、スピノザやニーチェと著述スタイルが似ているとされることもありますが、生前不遇だった彼らに比べてウィトゲンシュタインは生前既に名声を得ていますが、どこまで理解されてきたかとなると、まだまだ未開のところが多いと思います。

    確かに。同意します。
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■36411 / inTopicNo.35)  全財産の放棄
□投稿者/ knowingitself -(2024/02/03(Sat) 18:37:05)
    ウィトゲンシュタインが蓄音機をもっていたかレコードを聴いていたかですが、第一大戦の直前に莫大な遺産相続でヨーロッパ有数の富豪といえるほどだったのが、従軍し、戦後収容所から解放されると、全財産を放棄しています。ほぼ無一文で質素な生活をせざるえない状態を自ら選んでいます。ケンブリッジもやめて小学校教師になっている。30歳くらいですね。以後は優雅に音楽を鑑賞するようなことはできなかったのかもしれない。
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■36400 / inTopicNo.36)  パニチェさんへ
□投稿者/ knowingitself -(2024/02/03(Sat) 09:02:01)
    詳しいどころか、基本的なことの理解もグラついていることを自覚しています。

    「論理哲学論考」一冊なんですよね、生前公刊されたのは。同書を完成した後、哲学とケンブリッジの地位を捨てて、小学校教師になり、約10年後にケンブリッジに復帰する。その頃に学位論文として同書を提出した。その口頭審査をしたのがラッセルと哲学教授のムーアで、その席でウィトゲンシュタインは二人の肩を叩き、「心配しなくていい、これをあなた方が理解できないことはわかっている」と言ったそうですね。

    ムーアは審査報告で「私自身は氏の学位論文を天才の仕事だと見なしている。仮に氏が天才でも何でもなくても、ケンブリッジ大学のPh.Dに必要な水準は優に超えている」、などと評しているそうです。

    ウィトゲンシュタインは、スピノザやニーチェと著述スタイルが似ているとされることもありますが、生前不遇だった彼らに比べてウィトゲンシュタインは生前既に名声を得ていますが、どこまで理解されてきたかとなると、まだまだ未開のところが多いと思います。



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