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■20622 / inTopicNo.1)  純粋理性批判を読んでみる。33
  
□投稿者/ パニチェ -(2022/02/01(Tue) 08:01:29)
    トピ主:pipitさん

    よろしくお願いします。
引用返信/返信 削除キー/
■20696 / inTopicNo.2)  Re[1]: 純粋理性批判を読んでみる。33
□投稿者/ pipit -(2022/02/06(Sun) 08:27:27)
    パニチェさん、おはようございます(^ ^)
    33の設置ありがとうございます!
    よろしくお願いします。

    ※※※※※※※※


    No20674
    の、無に関するJ. M. D. Meiklejohnさんの英訳は部分は、

    https://www.gutenberg.org/cache/epub/4280/pg4280-images.html#chap63

    上記ページを1ページ戻るとすぐに出てくる箇所です。
    純理B349あたりです。

    ens rationis
    って、なに?って検索して、

    出た!石川 求 さんというワード、、、と、無限判断、、、

    石川 求 さんの考え方は、気になってるけどまだ読んだことなくて。。。

    〈書 評〉
    石川求著
    『カントと無限判断の世界』 (法政大学出版局、2018年)
    佐藤 慶太さんの書評です。

    h
    ttp://japanische-kant-gesellschaft.org/data/kant21/13_shohyo_sato.pdf

    で、結局、ensってなに?って、再検索してたら、やっぱり頼りになるコトバンクさん

    存在の項目に
    >「ある」といわれるものすべてを総括する、もっとも一般的な類としての「存在者」on(ギリシア語)、ens(ラテン語)、das Seiende(ドイツ語)を意味する。<
    と出てきて、
    なるほどー、ensってそういう意味を含むのねー、と。

    哲学者によって言葉の意味を見た方がいい単語かもしれませんね。(わからんけど)
    ゆっくりでもカントの文章の読解、進めたらいいな!

    ensが出てきた
    コトバンクさんのページ↓

    https://kotobank.jp/word/%E5%AD%98%E5%9C%A8-90596

    『存在&#8232;そんざい&#8232;being 英語&#8232;&#234;tre フランス語&#8232;Sein ドイツ語
    (1)「ある」といわれるものすべてを総括する、もっとも一般的な類としての「存在者」on(ギリシア語)、ens(ラテン語)、das Seiende(ドイツ語)を意味する。存在者は、実在者だけではなく、非実在者をも含む。非実在者、たとえば天馬も、それが「天馬であるもの」として思考される限りにおいては、「一種のあるもの(仮想物)」だからである。また、「あらぬもの(非存在者)」も、ある意味では存在者の一種である。なぜなら、「あらぬもの」も、「あらぬもの」である限りにおいて思考され、また(そういうものとして)あるからである。この意味において、存在者はいっさいのものを総括する類である。アリストテレスは、すべてのものに関する一つの知恵としての哲学を「存在者である限りにおける存在者についての原理、原因の知識」と規定した。(2)より厳密な意味では、存在は存在者における「存在の働き」einai(ギリシア語)、esse(ラテン語)、das Sein(ドイツ語)を意味する。すべて存在するものは「或(あ)る何か」であり、「或る何か」である限りにおいて、われわれに知られる。存在者におけるこの「或る何か」は、それぞれの存在者に固有なものであり、存在者の属する類と種に従って特殊化される。この「何か」の特殊性によって、存在者はそれとは異なる他の存在者から区別される(人間にとっては人間、鉄にとっては鉄が、この「何か」である)。「何か」は、そのものの「何であるか」を規定するもの、そのものの「存在本質」&#363;si&#257;(ギリシア語)、essentia(ラテン語)、das Wesen(ドイツ語)である。
     これに反して、すべての存在者に述語される「ある」という述語は、すべての存在者に等しく述語される共通なものである。すべての存在本質がある一定の類のうちに限定されるのに対して、「ある」という述語は類という限定を越える。したがって、これは厳密な意味では類ではなく、類を越えるもの、「超越者」である。すべての存在者に共通な、この「ある」ということばの意味する「存在の働き」が「存在」である。すべての存在者は、特殊な存在本質と共通な存在の働きから成り立つ。存在者に向かうわれわれの認識は、それぞれの存在者について、その「何であるか」を問うとき、まず特殊な存在本質に向けられる。そして、その限りにおいて、われわれの知識は特殊化され、特殊科学の知識が生ずる。存在者が存在者である限りにおいてもつ、共通な「存在」は覆われ、「存在」への問いは忘れられる。特殊な存在者への問いにおいては忘れられている、この存在の共通の根としての存在そのものへの問いとして、哲学の問いが生ずるのである。
    [加藤信朗]
    [参照項目] | 存在論』
引用返信/返信 削除キー/
■20697 / inTopicNo.3)  石川求さん『カントと無限判断の世界』
□投稿者/ pipit -(2022/02/06(Sun) 09:22:49)
    No20696

    >〈書 評〉
    石川求著
    『カントと無限判断の世界』 (法政大学出版局、2018年)
    佐藤 慶太さんの書評です。
    h
    ttp://japanische-kant-gesellschaft.org/data/kant21/13_shohyo_sato.pdf<

    佐藤慶太さんによる書評の冒頭を引用します。
    『「原書の一文一文にこだわって読め、そこから見えてくるものがある」― 哲学史研究に携わ る者ならば、これに類する格言を一度は耳にしたことがあるのではないだろうか。そこにこの分 野の存在意義もかかっているといえるのだが、哲学の古典を前にして迷わずにその言葉に従うこ とは必ずしも容易ではない。膨大な先行研究の蓄積、迅速な成果発表への要求、無益な議論に嵌 る恐れ......阻害要因はいろいろとある。だが、冒頭の挙げた言葉が可能であることをはっきりと 示してくれる著作がまれにあり、そういった著作に出会うと勇気づけられる思いがする。『カン トと無限判断の世界』はそういう書物である。カントが「無限判断」について残した「一頁半にも満 たないたった一つの段落」にこだわりぬき、これまで見過ごされてきた哲学史の筋とカント哲学 全体を支える着想を浮かび上がらせる。文字通り、一文へのこだわりからカント解釈の新局面を 開いた著作であり、哲学史研究者の面目躍如たる仕事である。
    本書は、第三十一回和辻哲郎文化賞(学術部門)を受賞しており、「読み進むうちに興奮すら覚 える、近年まれな哲学的達成(」選評より)であることはすでに裏づけられている 1 。そこで以下で は、本書のカント解釈に焦点を絞って、紹介、批評を行いたい。』
    引用終了

    別の方の要約紹介も探したらありました。
    『石川 求著『カントと無限判断の世界』 要約紹介とコメント若干』
    野 本 和 幸 さん

    https://tokyo-metro-u.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=8422&item_no=1&attribute_id=18&file_no=1

    多分、実践的な事柄まで射程は伸びていきそうですね

引用返信/返信 削除キー/
■20699 / inTopicNo.4)  超越論的感性論 第四項:X−3
□投稿者/ うましか -(2022/02/06(Sun) 12:36:40)
    2022/02/06(Sun) 22:02:09 編集(投稿者)
    2022/02/06(Sun) 12:37:41 編集(投稿者)

    pipitさん、こんにちはー

    「純粋理性批判を読んでみる。33」、おじゃましますー(゚Д゚;)


    *******

    ◆ 3 このア・プリオリな必然性に、時間の諸関係についての確然的な諸原則の、或いは時間一般についての諸公理の可能性もまた根拠付けられている。時間は一次元だけを持っている。様々の諸時間は同時的にではなく、継起的に存在する(様々の諸空間が継起的にではなく、同時的に存在するのと同様である)。これらの諸原則は経験からは引きだされ得ない。なぜなら経験は、厳密な普遍性をも、確然的な確実性をも与えるはずがないからである。私たちは普通の知覚がそのように教えると言い得るだけであって、そのようになっていなければならないと言うことはできないであろう。これらの諸原則は、総じて経験がそのもとでのみ可能であるという規則とみなされ、だから私たちに経験に先立って教えるのであって、経験を通じて教えるのではない。

    --- No.20578 からの続き ---

    ◇ 4 時間は、いかなる論弁的〔diskursiver〕概念、ないしは、よく名づけられているように、一般的概念〔allgemeiner Begriff〕でもなく、感性的直観の一つの純粋な形式である。様々の諸時間は同一の時間の諸部分に過ぎない。しかし、たった一つの対象を通じてのみ与えられ得る表象は、直観である。

    ◇また、「様々の諸時間は同時的に存在し得ない〔verschiedene Zeiten nicht zugleich sein koennen,〕」という命題も、或る一般的概念からは導き出され得ないであろう。この命題は綜合的〔synthetisch〕であり、だから概念からだけでは生じ得ない。それゆえ、この命題は時間の直観や表象の内に直接含まれている。



    † 原佑訳上巻、p.161参照
    †≠ナ囲まれた言葉は、カントが『純粋理性批判』文中で強調したものです。
    † 翻訳は参照しますが、◇〜は私が便宜上用いた区分けであり文章は原文・訳文の通りではありません。
    † 文中〔〕内は私による挿入、*1、*2〜や、※1、※2〜は私の覚書とします。これらは後に訂正、削除、修正等することがあります。
    † ◆〜は原典における段落とします。

    *******

    X−1 No.20568、X−2 No.20578、X−3 No.20699
    W−10 No.20434
    W−7 No.19817、W−8 No.20105、W−9 No.20168
    W−4 No.19542、W−5 No.19668、W−6 No.19682
    W−1 No.18802、W−2 No.19157、W−3 No.19216
    V−7 No.18378、V−8 No.18764
    V−4 No.17945、V−5 No.18058、V−6 No.18323
    V−1 No.17515、V−2 No.17588、V−3 No.17841
    U−1 No.16741、U−2 No.16783
    T−1 No.16440、T−2 No.16454、T−3 No.16495

    *******

    第一項 No.16440,16454,16495,16741,16783
    第二項 No.17515,17588,17841,17945,18058,18323,18378,18764
    第三項 No.18802,19157,19216,19542,19668,19682,19817,20105,20168,20434
    第四項 No.20568,20578,20699

引用返信/返信 削除キー/
■20700 / inTopicNo.5)  カントの無の表について
□投稿者/ pipit -(2022/02/06(Sun) 15:13:00)
    No20674
    御子柴善之先生の解説はやっぱりすごくわかりやすいね!(詳細、丁寧だからかな)

    『シリーズ 世界の思想 カント 純粋理性批判』
    御子柴善之先生、角川選書p324-359
    の解説が、無の表を理解する上でわかりやすいんじゃないかなと思いました。

    ただ、いろんな解釈はありうるんでしょうけどね。
引用返信/返信 削除キー/
■20702 / inTopicNo.6)  Re[4]: 超越論的感性論 第四項:X−3
□投稿者/ pipit -(2022/02/06(Sun) 15:48:51)
    No20699
    うましかさん、こんにちは!
    こちらは雪降って寒いですー 
    (OvO)

    >◇ 4 時間は、いかなる論弁的〔diskursiver〕概念、ないしは、よく名づけられているように、一般的概念〔allgemeiner Begriff〕でもなく、感性的直観の一つの純粋な形式である。様々の諸時間は同一の時間の諸部分に過ぎない。

    ◇しかし、たった一つの対象を通じてのみ与えられ得る表象は、直観である。また、「様々の諸時間は同時的に存在し得ない〔verschiedene Zeiten nicht zugleich sein koennen,〕」という命題も、或る一般的概念からは導き出され得ないであろう。この命題は綜合的〔synthetisch〕であり、だから概念からだけでは生じ得ない。それゆえ、この命題は時間の直観や表象の内に直接含まれている。<

    感想を投稿させていただきます。
    時間は論弁的概念ではない、というカントの意見って、哲学的な思考としては珍しいのかなと思いました。
    「様々の諸時間は同時的に存在し得ない」という命題って、
    (昨日、と、今日、は同時に存在しえない)みたいな意味なのかなーと思ったのですが、
    もし一般的概念、たとえばフルーツだったら、
    様々の諸フルーツは同時に存在し得ない、なんて命題は、導くことができないのかなーと思いました。
     
    記憶、って、現在(今この瞬間)の出力かもしれないけど、
    やっぱり『経験』の再現としての出力と素直に思うと、
    経験の点灯の順番というか、
    【時間は感性的直観の一つの純粋な形式】というカントの考え方は面白く感じました。



引用返信/返信 削除キー/
■20703 / inTopicNo.7)  底なし沼探査レポ(/・ω・)/その五
□投稿者/ うましか -(2022/02/06(Sun) 17:01:43)
    2022/02/06(Sun) 17:54:26 編集(投稿者)

    pipitさん、こんにちはー

    私うましかは、最近、ときどき『ドイツ観念論 カント・フィヒテ・シェリング・ヘーゲル』という本をめくっています。

    村岡晋一という方の著作で、講談社(選書メチエ)から出ています。

    この本で、フィヒテの解説中、p.77〜の「〈私〉という存在と自由」と、シェリングの解説中、p.97〜「シェリングの自然観」をひろい読みしているところです。

    *******

    >したがって〈私〉という存在には、いままで外に向いていた意識が一八〇度回転して自分自身に向かうという働きが不可欠である。〈私〉という存在は、ただそこにあるという事実(Tatsache)ではなく、みずからを振りかえる行為(Handlung)と不可分であるような事実である。だから、フィヒテはこの〈私〉の奇妙な存在の仕方をTathandlung(事行)と呼ぶ。そうだとすれば、「私」は、自分が自分を対象化して、対象化された自分を自分として認知するときはじめて存在する。いやむしろこうした運動の全体こそが〈私〉の真の存在なのである。<

    →村岡、p.78

    >シェリングはなぜフィヒテのもとにとどまれなかったのだろうか。フィヒテの知識学においては、自然は人間がみずからの本質を実現するために克服すべき障害としかみなされていないからである。ところが、じっさいにはフィヒテの「自我」の概念のうちには、自然こそが自我を可能にする基礎であることが含意されている。なぜか。フィヒテによれば、知られ意識される〈私〉は、自分をみずからの外部に対象化し、そして対象化されたものによって自分を規定するような運動の成果なのだが、そうだとすれば、この運動そのものは私の意識以前の活動、つまり無意識的活動ということになる。もし人間の本質が自己意識にあるとすれば、この活動の主体は人間ではない。むしろ、人間はこの活動によってはじめて人間になる。人間に先だって存在し、人間を生みだすような無意識的な生産力とは、生命活動(Leben)であり、生きた自然(natura naturans)である。<

    →村岡、p.97


    *******

    底なし沼シリーズ
    No.18341,18382,18440,18490,19701,19720,19763,19807,20703

    私うましかの「底なし沼」に返信くださった投稿につきましては、「検索」ボタンに「底なし沼」と記入していただくと表示されます(・ω・)ノ
引用返信/返信 削除キー/
■20704 / inTopicNo.8)  pipitさんへ (;´・ω・)
□投稿者/ うましか -(2022/02/06(Sun) 17:48:46)
    2022/02/06(Sun) 19:49:49 編集(投稿者)

    こんばんはー

    感想いただきまして光栄です! (◎_◎;)

    No.20702 (pipitさん)

    私うましか、分からない点をごまかしごまかし前進しております。

    たとえば、

    >時間は論弁的概念ではない、というカントの意見 (pipitさん)

    実は、、、カントの言う「論弁的(概念)」って意味がわからないのでした( ノД`)シクシク…
    "diskursiver"は、石川文康訳では「論証的」、有福孝岳訳では「討議的」という訳語があてられていますが、そもそもなぜ「論弁的」が出てくるの?という。
    カントが想定する一般的な読者の多くが時間を「論弁的概念」だと思っていたということなのかな?(;´・ω・)?

    >「様々の諸時間は同時的に存在し得ない」という命題って、(昨日、と、今日、は同時に存在しえない)みたいな意味なのかなーと思った(pipitさん)

    なるほどー(゚д゚)!
    そう読み換えれば、分かりやすいです。

    >もし一般的概念、たとえばフルーツだったら、様々の諸フルーツは同時に存在し得ない、なんて命題は、導くことができないのかなーと思いました。(pipitさん)

    カントが言う「一般的概念」というのがどういうものか、そもそも私には分からないのですが、pipitさんの「フルーツ」が「一般的概念」にあたるとして、

    「様々の諸フルーツは同時に存在し得ない」から、「様々の諸時間は同時的に存在し得ない」は、カントによれば「導き出され得ない」ということなんですかねー
    (;´・ω・)??

    >「様々の諸時間は同時的に存在し得ない」という命題も、或る一般的概念からは導き出され得ないであろう。(カント)



    (/・ω・)/沈む〜
    ----------------

    【追記】

    "diskursiver"は、「空間」についての第二項でも言われていました。

    No.18323 では、

    >◇ 4〔*1〕 空間は、諸物一般の諸関係についてのいかなる論弁的な〔diskursiver〕概念ないしは、よく言われるように、一般的な〔allgemainer〕概念ではなく、一つの純粋な直観である。なぜなら、第一に、人は唯一の空間〔einigen Raum〕を表象し得るに過ぎず、だから多くの諸空間についての語るときには、それらを同一の唯一の空間の諸部分と解しているに過ぎないからである。<

    ちなみに、カント事典で調べてみたら、p.447〜p.448に鈴木崇夫による解説で、"diskursiv"が、「比量的」と訳されていました。「直観的」と対比関係にあるとのこと。詳しくは先述のページをご参照くださいm(__)m

引用返信/返信 削除キー/
■20706 / inTopicNo.9)  Re[6]: 底なし沼探査レポ(/・ω・)/その五
□投稿者/ pipit -(2022/02/06(Sun) 19:51:26)
    うましかさん、こんばんはー
    興味深い話題をありがとうございます!

    No20703
    > 私うましかは、最近、ときどき『ドイツ観念論 カント・フィヒテ・シェリング・ヘーゲル』という本をめくっています。
    >
    > 村岡晋一という方の著作で、講談社(選書メチエ)から出ています。
    >
    > この本で、フィヒテの解説中、p.77〜の「〈私〉という存在と自由」と、シェリングの解説中、p.97〜「シェリングの自然観」をひろい読みしているところです。
    >
    > *******
    >
    > >したがって〈私〉という存在には、いままで外に向いていた意識が一八〇度回転して自分自身に向かうという働きが不可欠である。〈私〉という存在は、ただそこにあるという事実(Tatsache)ではなく、みずからを振りかえる行為(Handlung)と不可分であるような事実である。だから、フィヒテはこの〈私〉の奇妙な存在の仕方をTathandlung(事行)と呼ぶ。そうだとすれば、「私」は、自分が自分を対象化して、対象化された自分を自分として認知するときはじめて存在する。いやむしろこうした運動の全体こそが〈私〉の真の存在なのである。<
    >
    > →村岡、p.78<

    オートポイエーシス論の河本英夫先生が講義YouTubeで、フィヒテについて言及してたなぁ。
    気づいてるけど上手く言えない(表現できない)んだ、みたいな?
    河本先生はやっぱりドイツ観念論にシンパシー感じてるのかなあ?

    > >シェリングはなぜフィヒテのもとにとどまれなかったのだろうか。フィヒテの知識学においては、自然は人間がみずからの本質を実現するために克服すべき障害としかみなされていないからである。ところが、じっさいにはフィヒテの「自我」の概念のうちには、自然こそが自我を可能にする基礎であることが含意されている。なぜか。フィヒテによれば、知られ意識される〈私〉は、自分をみずからの外部に対象化し、そして対象化されたものによって自分を規定するような運動の成果なのだが、そうだとすれば、この運動そのものは私の意識以前の活動、つまり無意識的活動ということになる。<

    私が誤解してるかもだけど、すごくおもしろい考え方だと思いました。
    カントの観念論論駁にも
    外部が自己を規定する、自我の存在が既に外部の存在の証、みたいな考え方がでてくるのかなと思ってるのですが、
    カントの場合は、単純に外部から自己規定への流れっぽいのかなと思ってるのですが、
    うましかさんの記事を読むに、
    フィヒテは、

    >自分をみずからの外部に対象化し、そして対象化されたものによって自分を規定するような運動<

    と、もう一段階、運動が付け加えられてるのかな、って。

    でも、カントもややこしいので、私が考えている以外、以上の運動を記述してるのかもしれませんが。


    >もし人間の本質が自己意識にあるとすれば、この活動の主体は人間ではない。むしろ、人間はこの活動によってはじめて人間になる。人間に先だって存在し、人間を生みだすような無意識的な生産力とは、生命活動(Leben)であり、生きた自然(natura naturans)である。<
    >
    > →村岡、p.97<

    うーん、おもしろいです。!(◎_◎;)

    なんか、スピノザさんの名前を思い出してしまいました。(pipitは、まっったく哲学史とかにも明るくないんですけど)
引用返信/返信 削除キー/
■20707 / inTopicNo.10)  pipitさんへ(゚Д゚;)
□投稿者/ うましか -(2022/02/06(Sun) 20:52:31)
    こんばんはー

    No.20706 (pipitさん)

    >なんか、スピノザさんの名前を思い出してしまいました。(pipitは、まっったく哲学史とかにも明るくないんですけど)

    pipitさんはやっぱりすごいなー(;゚Д゚)

    pipitさんの↑をみて、あわてて『哲学の歴史 5 −デカルト革命 17世紀◆ 神・人間・自然 −』(中央公論新社)をひらいてみると、まさに「スピノザとドイツ観念論」p.455〜 という論考をみつけました。

    樋口善郎という方による論考です。

    それによれば、スピノザ(1632-1677)は18世紀後半のドイツで再評価を受け、ドイツ観念論の発火点となったとのことでした。(p.455参照)

    ちなみに前述の村岡によれば、「ドイツ観念論」とはカント『純粋理性批判』(1781)からヘーゲル『法哲学』(1821)の40年のあいだ起こったことを言うのだとか。(村岡、p.6〜p.8)


引用返信/返信 削除キー/
■20708 / inTopicNo.11)  うましかさんへ (*^_^*)v
□投稿者/ pipit -(2022/02/06(Sun) 20:53:40)
    うましかさん、コメントありがとうございます!
    対話してもらうことでものすごく勉強になっています
    (^人^)(o^^o)

    No20704
    > 「様々の諸フルーツは同時に存在し得ない」から、「様々の諸時間は同時的に存在し得ない」は、カントによれば「導き出され得ない」ということなんですかねー<

    私見書きますね。

    もし時間を一般的概念と考えるなら、
    【様々の諸時間は同時的に存在し得ない】
    という命題は導くことはできないので、
    上記の命題が成立するということは、
    時間は一般的概念ではない、と言ってるのではないかと私は考えました。

    フルーツを一般的概念と考える場合、と比較してみますね。
    [様々の諸フルーツ(イチゴ、ミカン、ブドウ…)は同時的に存在し得ない]
    って、フルーツという概念から導き出せる命題とうましかさんは思われますか?
    ちょっと無理っぽいですよね?

    でも、時間というお題からなら、
    【昨日と今日は、同時的に存在し得ない】
    という命題を導くことも可能なので、
    お題としての、『時間』と『フルーツ』は身分が違うという考え方ではないかと、pipitは思いました。
    (『時間』は一般的概念ではない。
    『フルーツ』はpipitの考えでは、一般的概念。)

    御子柴善之先生の『カント純粋理性批判』のp122に、
    『ここで概念をめぐる三つの用語、「論弁的」「機能」「下に」を理解しましょう。』と御子柴先生が解説されています。
    p122の一行目から、p124の中頃まで読むと、感性論での記述もわかりやすくなるかもしれないと思いました。
    (※読みたい方があれば喜んで引用しますのでどなたでもおっしゃってくださいませ。)

    > ちなみに、カント事典で調べてみたら、p.447〜p.448に鈴木崇夫による解説で、"diskursiv"が、「比量的」と訳されていました。「直観的」と対比関係にあるとのこと。詳しくは先述のページをご参照ください<

    読みました!
    カント事典には、本当に私はよく助けてもらってます。ありがたやー
    このカント事典の項目にも載ってる、B93もおもしろいですよ。

    >「比量的」と訳されていました。「直観的」と対比関係にあるとのこと。<

    を、カント自身が説明してくれてますよ。
    中山元先生独自場合では第二巻の102知性と判断、のところです。
    (*^▽^*)v

引用返信/返信 削除キー/
■20711 / inTopicNo.12)  うましかさんへ (o^^o)
□投稿者/ pipit -(2022/02/06(Sun) 21:24:57)
    うましかさん、いつも有用な情報を教えてくださりありがとうございます

    No20707
    > pipitさんの↑をみて、あわてて『哲学の歴史 5 −デカルト革命 17世紀◆ 神・人間・自然 −』(中央公論新社)をひらいてみると、まさに「スピノザとドイツ観念論」p.455〜 という論考をみつけました。
    >
    > 樋口善郎という方による論考です。
    >
    > それによれば、スピノザ(1632-1677)は18世紀後半のドイツで再評価を受け、ドイツ観念論の発火点となったとのことでした。(p.455参照)
    >
    > ちなみに前述の村岡によれば、「ドイツ観念論」とはカント『純粋理性批判』(1781)からヘーゲル『法哲学』(1821)の40年のあいだ起こったことを言うのだとか。(村岡、p.6〜p.8)<

    あの時代前後の哲学者の勢いはすごそうですね。
    知性が多重の層になってる印象です。

    渦中にいた方たちは楽しかったかもー、と、今想像しちゃいました
     (*^o^*)

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