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Re[6]: 底なし沼探査レポ(/・ω・)/その五
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□投稿者/ pipit -(2022/02/06(Sun) 19:51:26)
| うましかさん、こんばんはー 興味深い話題をありがとうございます!
■No20703 > 私うましかは、最近、ときどき『ドイツ観念論 カント・フィヒテ・シェリング・ヘーゲル』という本をめくっています。 > > 村岡晋一という方の著作で、講談社(選書メチエ)から出ています。 > > この本で、フィヒテの解説中、p.77〜の「〈私〉という存在と自由」と、シェリングの解説中、p.97〜「シェリングの自然観」をひろい読みしているところです。 > > ******* > > >したがって〈私〉という存在には、いままで外に向いていた意識が一八〇度回転して自分自身に向かうという働きが不可欠である。〈私〉という存在は、ただそこにあるという事実(Tatsache)ではなく、みずからを振りかえる行為(Handlung)と不可分であるような事実である。だから、フィヒテはこの〈私〉の奇妙な存在の仕方をTathandlung(事行)と呼ぶ。そうだとすれば、「私」は、自分が自分を対象化して、対象化された自分を自分として認知するときはじめて存在する。いやむしろこうした運動の全体こそが〈私〉の真の存在なのである。< > > →村岡、p.78<
オートポイエーシス論の河本英夫先生が講義YouTubeで、フィヒテについて言及してたなぁ。 気づいてるけど上手く言えない(表現できない)んだ、みたいな? 河本先生はやっぱりドイツ観念論にシンパシー感じてるのかなあ?
> >シェリングはなぜフィヒテのもとにとどまれなかったのだろうか。フィヒテの知識学においては、自然は人間がみずからの本質を実現するために克服すべき障害としかみなされていないからである。ところが、じっさいにはフィヒテの「自我」の概念のうちには、自然こそが自我を可能にする基礎であることが含意されている。なぜか。フィヒテによれば、知られ意識される〈私〉は、自分をみずからの外部に対象化し、そして対象化されたものによって自分を規定するような運動の成果なのだが、そうだとすれば、この運動そのものは私の意識以前の活動、つまり無意識的活動ということになる。<
私が誤解してるかもだけど、すごくおもしろい考え方だと思いました。 カントの観念論論駁にも 外部が自己を規定する、自我の存在が既に外部の存在の証、みたいな考え方がでてくるのかなと思ってるのですが、 カントの場合は、単純に外部から自己規定への流れっぽいのかなと思ってるのですが、 うましかさんの記事を読むに、 フィヒテは、
>自分をみずからの外部に対象化し、そして対象化されたものによって自分を規定するような運動<
と、もう一段階、運動が付け加えられてるのかな、って。
でも、カントもややこしいので、私が考えている以外、以上の運動を記述してるのかもしれませんが。
>もし人間の本質が自己意識にあるとすれば、この活動の主体は人間ではない。むしろ、人間はこの活動によってはじめて人間になる。人間に先だって存在し、人間を生みだすような無意識的な生産力とは、生命活動(Leben)であり、生きた自然(natura naturans)である。< > > →村岡、p.97<
うーん、おもしろいです。!(◎_◎;)
なんか、スピノザさんの名前を思い出してしまいました。(pipitは、まっったく哲学史とかにも明るくないんですけど)
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