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底なし沼探査レポ(/・ω・)/その五
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□投稿者/ うましか -(2022/02/06(Sun) 17:01:43)
| 2022/02/06(Sun) 17:54:26 編集(投稿者)
pipitさん、こんにちはー
私うましかは、最近、ときどき『ドイツ観念論 カント・フィヒテ・シェリング・ヘーゲル』という本をめくっています。
村岡晋一という方の著作で、講談社(選書メチエ)から出ています。
この本で、フィヒテの解説中、p.77〜の「〈私〉という存在と自由」と、シェリングの解説中、p.97〜「シェリングの自然観」をひろい読みしているところです。
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>したがって〈私〉という存在には、いままで外に向いていた意識が一八〇度回転して自分自身に向かうという働きが不可欠である。〈私〉という存在は、ただそこにあるという事実(Tatsache)ではなく、みずからを振りかえる行為(Handlung)と不可分であるような事実である。だから、フィヒテはこの〈私〉の奇妙な存在の仕方をTathandlung(事行)と呼ぶ。そうだとすれば、「私」は、自分が自分を対象化して、対象化された自分を自分として認知するときはじめて存在する。いやむしろこうした運動の全体こそが〈私〉の真の存在なのである。<
→村岡、p.78
>シェリングはなぜフィヒテのもとにとどまれなかったのだろうか。フィヒテの知識学においては、自然は人間がみずからの本質を実現するために克服すべき障害としかみなされていないからである。ところが、じっさいにはフィヒテの「自我」の概念のうちには、自然こそが自我を可能にする基礎であることが含意されている。なぜか。フィヒテによれば、知られ意識される〈私〉は、自分をみずからの外部に対象化し、そして対象化されたものによって自分を規定するような運動の成果なのだが、そうだとすれば、この運動そのものは私の意識以前の活動、つまり無意識的活動ということになる。もし人間の本質が自己意識にあるとすれば、この活動の主体は人間ではない。むしろ、人間はこの活動によってはじめて人間になる。人間に先だって存在し、人間を生みだすような無意識的な生産力とは、生命活動(Leben)であり、生きた自然(natura naturans)である。<
→村岡、p.97
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底なし沼シリーズ No.18341,18382,18440,18490,19701,19720,19763,19807,20703
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