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■20719 / inTopicNo.85)  Re[10]: うましかさんへ
  
□投稿者/ マジカルモンキー -(2022/02/07(Mon) 20:02:50)
    No20718に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > お邪魔しま〜す。
    > 「AはBである」こういうの、へんじゃない?誰が言い出したのかしら?
    > 〈AはA〉、〈BはB〉なのであって、〈AはBである〉はありえないんじゃなの?

    悪魔ちゃんへ

    とても意地悪な質問ですね (笑)
引用返信/返信 削除キー/
■20718 / inTopicNo.86)  Re[9]: うましかさんへ
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/02/07(Mon) 19:55:10)
    お邪魔しま〜す。
    「AはBである」こういうの、へんじゃない?誰が言い出したのかしら?
    〈AはA〉、〈BはB〉なのであって、〈AはBである〉はありえないんじゃなの?

引用返信/返信 削除キー/
■20717 / inTopicNo.87)  うましかさんへ
□投稿者/ pipit -(2022/02/07(Mon) 09:28:52)
    No20712
    うましかさん、おはようございます(^^)

    >私にはその導出方法がよく分かりません<

    試しに、命題という言葉を《判断》、導出という言葉を《出力》と考えてみれば、うましかさん的にはどう思われるでしょうか??

    ●元になる文章
    『「様々の諸時間は同時的に存在し得ない」という命題も、或る一般的概念からは導き出され得ないであろう。』


    ●変換した文章
    『「様々の諸時間は同時的に存在し得ない」という《判断》も、或る一般的概念からは《出力》され得ないであろう。

    ※※※※※※※※

    カントは『純粋理性批判』においては、

    AはBである。という命題を判断と考えて、
    AにBがすでに含まれているのを、分析判断、
    Aに含まれていないものも総合してBを判断において導きだしてるものを、総合判断、
    と言ってるのかなとpipitは今の時点では思っています。

引用返信/返信 削除キー/
■20714 / inTopicNo.88)  うましかさんへ (o^^o)
□投稿者/ pipit -(2022/02/07(Mon) 00:39:10)
    2022/02/07(Mon) 09:42:13 編集(投稿者)

    うましかさんへ
    こんばんは!
    くー、難しい!!(*_*)

    No20712
    まず、『一般的概念』ですが、pipitとしては、御子柴善之先生の『カント 純粋理性批判』p123の中頃にある
    『論弁的認識は、ある具体的な物体の表象を鉛筆という概念の「下に」、さらに鉛筆という概念を筆記用具という概念の「下に」位置づけることで成立しています。』
    という記述で言えば、
    『鉛筆』とか『筆記用具』が一般的概念と考えています。

    それでこの時、一般的概念の下に、いろんな個別があって、その個別は同時存在できますよね?

    たとえば、
    鉛筆という一般的概念の下に位置づけられている、個々の具体的物体の表象は、
    その鉛筆という概念の構成を使って、
    【複数の具体的物体が同時に存在している。】と命題化できる。

    では、
    《複数の具体的物体が同時には存在できない》という命題を、鉛筆という概念の構成を使って、引き出すことができるのか?
    それは不可能。
    この事態を表現したのが、

    >「さまざまに異なる時間は、同時に存在することはできない」という命題は、一般的な概念からは導くことはできないだろう。<

    という文章だと私は思っています。

    それで、この
    >「さまざまに異なる時間は、同時に存在することはできない」という命題は、一般的な概念からは導くことはできないだろう。<
    という文章は、

    >時間は論証的な概念ではないし、一般的な概念と呼ばれるものでもなく、感性による直観の純粋な形式である。<
    という文章を支える要素の一つとして挙げられている、と、私は考えます。

    つまり、結論が
    【時間は論証的な概念ではないし、一般的な概念と呼ばれるものでもなく、感性による直観の純粋な形式である。】
    であり、

    その理由として2点あげられてて、

    @ 異なった時間とは、同じ時間の異なった部分に過ぎない。唯一の対象によってしか与えられない像は、[概念ではなく]直観である。

    A 「さまざまに異なる時間は、同時に存在することはできない」という命題は、一般的な概念からは導くことはできないだろう。この命題は総合的なものであり、概念だけからは導けないのである。だからこの命題は、直観のうちに、そして時間の像のうちに直接に含まれている
    (→個々別々の時間は同時に存在できない、という命題は直観の在り方という要素を抜きに導くことはできない。一般的概念(個別を一般化する仕組みでできている概念)のみから分析的に導くことのできる命題ではない。)

    という文章だとpipitは今のところ思っています。

    関連してなんですけど、
    たとえば直観を元に、時間空間を概念として捉えてみることも可能ではありますよね。
    そうすることで直観と概念の区別をわかりやすく説明しようと工夫されている試みが、
    御子柴善之先生の
    『カント哲学の核心』p88、89に載っています。
    『それにしても、空間や時間が〈直観〉であるとは、どのようなことだろうか。』と始まる箇所です。


引用返信/返信 削除キー/
■20712 / inTopicNo.89)  pipitさんへ、ありがたやー(^人^)
□投稿者/ うましか -(2022/02/06(Sun) 21:45:46)
    2022/02/06(Sun) 22:00:53 編集(投稿者)
    2022/02/06(Sun) 21:48:25 編集(投稿者)

    pipitさん、こんばんはー

    No.20708 (pipitさん)

    >御子柴善之先生の『カント純粋理性批判』のp122

    読みました! (・∀・)

    御子柴善之泉、ありがたやー


    >中山元先生独自場合では第二巻の102知性と判断、のところです。

    確認しました! (・∀・)

    中山乃元泉、ありがたやー

    *******

    ところで、、、(;´・ω・)

    >もし時間を一般的概念と考えるなら、【様々の諸時間は同時的に存在し得ない】
    という命題は導くことはできないので、上記の命題が成立するということは、時間は一般的概念ではない、と言ってるのではないかと私は考えました。<

    ウーン、私にはこれ分かりません(;´・ω・)

    カントは4の冒頭で"時間は一般的概念ではない"と言っています。それを敢えて「一般的概念だと考えるなら」というのがちょっと分からないです。もっとも、私にはカントの言う「一般的概念」がどういうものを言うのかが分からないレベルなんですが…( ノД`)シクシク…

    >フルーツを一般的概念と考える場合、と比較してみますね。[様々の諸フルーツ(イチゴ、ミカン、ブドウ…)は同時的に存在し得ない]って、フルーツという概念から導き出せる命題とうましかさんは思われますか?<


    フルーツを一般的概念とするpipitさんのアイデアには、なるほどと思いました(・∀・)!

    ただ、一般的概念である「フルーツ」から「様々の諸フルーツ(イチゴ、ミカン、ブドウ…)は同時的に存在し得ない」を導き出すとは、どういうことなのか、そもそも「できる」「できない」を考える以前に、私にはその導出方法がよく分かりません…( ノД`)シクシク…


    (/・ω・)/沼〜


    あらためて、、 No.20699 より。

    >4 時間は、いかなる論弁的概念、ないしは、よく名づけられているように、一般的概念でもなく、感性的直観の一つの純粋な形式である。様々の諸時間は同一の時間の諸部分に過ぎない。しかし、たった一つの対象を通じてのみ与えられ得る表象は、直観である。また、「様々の諸時間は同時的に存在し得ない」という命題も、或る一般的概念からは導き出され得ないであろう。この命題は綜合的であり、だから概念からだけでは生じ得ない。それゆえ、この命題は時間の直観や表象の内に直接含まれている。<

    中山元訳1を久々に参照します。p.98

    >(四) 時間は論証的な概念ではないし、一般的な概念と呼ばれるものでもなく、感性による直観の純粋な形式である。異なった時間とは、同じ時間の異なった部分に過ぎない。唯一の対象によってしか与えられない像は、[概念ではなく]直観である。「さまざまに異なる時間は、同時に存在することはできない」という命題は、一般的な概念からは導くことはできないだろう。この命題は総合的なものであり、概念だけからは導けないのである。だからこの命題は、直観のうちに、そして時間の像のうちに直接に含まれているものなのである。<





引用返信/返信 削除キー/
■20711 / inTopicNo.90)  うましかさんへ (o^^o)
□投稿者/ pipit -(2022/02/06(Sun) 21:24:57)
    うましかさん、いつも有用な情報を教えてくださりありがとうございます

    No20707
    > pipitさんの↑をみて、あわてて『哲学の歴史 5 −デカルト革命 17世紀◆ 神・人間・自然 −』(中央公論新社)をひらいてみると、まさに「スピノザとドイツ観念論」p.455〜 という論考をみつけました。
    >
    > 樋口善郎という方による論考です。
    >
    > それによれば、スピノザ(1632-1677)は18世紀後半のドイツで再評価を受け、ドイツ観念論の発火点となったとのことでした。(p.455参照)
    >
    > ちなみに前述の村岡によれば、「ドイツ観念論」とはカント『純粋理性批判』(1781)からヘーゲル『法哲学』(1821)の40年のあいだ起こったことを言うのだとか。(村岡、p.6〜p.8)<

    あの時代前後の哲学者の勢いはすごそうですね。
    知性が多重の層になってる印象です。

    渦中にいた方たちは楽しかったかもー、と、今想像しちゃいました
     (*^o^*)

引用返信/返信 削除キー/
■20708 / inTopicNo.91)  うましかさんへ (*^_^*)v
□投稿者/ pipit -(2022/02/06(Sun) 20:53:40)
    うましかさん、コメントありがとうございます!
    対話してもらうことでものすごく勉強になっています
    (^人^)(o^^o)

    No20704
    > 「様々の諸フルーツは同時に存在し得ない」から、「様々の諸時間は同時的に存在し得ない」は、カントによれば「導き出され得ない」ということなんですかねー<

    私見書きますね。

    もし時間を一般的概念と考えるなら、
    【様々の諸時間は同時的に存在し得ない】
    という命題は導くことはできないので、
    上記の命題が成立するということは、
    時間は一般的概念ではない、と言ってるのではないかと私は考えました。

    フルーツを一般的概念と考える場合、と比較してみますね。
    [様々の諸フルーツ(イチゴ、ミカン、ブドウ…)は同時的に存在し得ない]
    って、フルーツという概念から導き出せる命題とうましかさんは思われますか?
    ちょっと無理っぽいですよね?

    でも、時間というお題からなら、
    【昨日と今日は、同時的に存在し得ない】
    という命題を導くことも可能なので、
    お題としての、『時間』と『フルーツ』は身分が違うという考え方ではないかと、pipitは思いました。
    (『時間』は一般的概念ではない。
    『フルーツ』はpipitの考えでは、一般的概念。)

    御子柴善之先生の『カント純粋理性批判』のp122に、
    『ここで概念をめぐる三つの用語、「論弁的」「機能」「下に」を理解しましょう。』と御子柴先生が解説されています。
    p122の一行目から、p124の中頃まで読むと、感性論での記述もわかりやすくなるかもしれないと思いました。
    (※読みたい方があれば喜んで引用しますのでどなたでもおっしゃってくださいませ。)

    > ちなみに、カント事典で調べてみたら、p.447〜p.448に鈴木崇夫による解説で、"diskursiv"が、「比量的」と訳されていました。「直観的」と対比関係にあるとのこと。詳しくは先述のページをご参照ください<

    読みました!
    カント事典には、本当に私はよく助けてもらってます。ありがたやー
    このカント事典の項目にも載ってる、B93もおもしろいですよ。

    >「比量的」と訳されていました。「直観的」と対比関係にあるとのこと。<

    を、カント自身が説明してくれてますよ。
    中山元先生独自場合では第二巻の102知性と判断、のところです。
    (*^▽^*)v

引用返信/返信 削除キー/
■20707 / inTopicNo.92)  pipitさんへ(゚Д゚;)
□投稿者/ うましか -(2022/02/06(Sun) 20:52:31)
    こんばんはー

    No.20706 (pipitさん)

    >なんか、スピノザさんの名前を思い出してしまいました。(pipitは、まっったく哲学史とかにも明るくないんですけど)

    pipitさんはやっぱりすごいなー(;゚Д゚)

    pipitさんの↑をみて、あわてて『哲学の歴史 5 −デカルト革命 17世紀◆ 神・人間・自然 −』(中央公論新社)をひらいてみると、まさに「スピノザとドイツ観念論」p.455〜 という論考をみつけました。

    樋口善郎という方による論考です。

    それによれば、スピノザ(1632-1677)は18世紀後半のドイツで再評価を受け、ドイツ観念論の発火点となったとのことでした。(p.455参照)

    ちなみに前述の村岡によれば、「ドイツ観念論」とはカント『純粋理性批判』(1781)からヘーゲル『法哲学』(1821)の40年のあいだ起こったことを言うのだとか。(村岡、p.6〜p.8)


引用返信/返信 削除キー/
■20706 / inTopicNo.93)  Re[6]: 底なし沼探査レポ(/・ω・)/その五
□投稿者/ pipit -(2022/02/06(Sun) 19:51:26)
    うましかさん、こんばんはー
    興味深い話題をありがとうございます!

    No20703
    > 私うましかは、最近、ときどき『ドイツ観念論 カント・フィヒテ・シェリング・ヘーゲル』という本をめくっています。
    >
    > 村岡晋一という方の著作で、講談社(選書メチエ)から出ています。
    >
    > この本で、フィヒテの解説中、p.77〜の「〈私〉という存在と自由」と、シェリングの解説中、p.97〜「シェリングの自然観」をひろい読みしているところです。
    >
    > *******
    >
    > >したがって〈私〉という存在には、いままで外に向いていた意識が一八〇度回転して自分自身に向かうという働きが不可欠である。〈私〉という存在は、ただそこにあるという事実(Tatsache)ではなく、みずからを振りかえる行為(Handlung)と不可分であるような事実である。だから、フィヒテはこの〈私〉の奇妙な存在の仕方をTathandlung(事行)と呼ぶ。そうだとすれば、「私」は、自分が自分を対象化して、対象化された自分を自分として認知するときはじめて存在する。いやむしろこうした運動の全体こそが〈私〉の真の存在なのである。<
    >
    > →村岡、p.78<

    オートポイエーシス論の河本英夫先生が講義YouTubeで、フィヒテについて言及してたなぁ。
    気づいてるけど上手く言えない(表現できない)んだ、みたいな?
    河本先生はやっぱりドイツ観念論にシンパシー感じてるのかなあ?

    > >シェリングはなぜフィヒテのもとにとどまれなかったのだろうか。フィヒテの知識学においては、自然は人間がみずからの本質を実現するために克服すべき障害としかみなされていないからである。ところが、じっさいにはフィヒテの「自我」の概念のうちには、自然こそが自我を可能にする基礎であることが含意されている。なぜか。フィヒテによれば、知られ意識される〈私〉は、自分をみずからの外部に対象化し、そして対象化されたものによって自分を規定するような運動の成果なのだが、そうだとすれば、この運動そのものは私の意識以前の活動、つまり無意識的活動ということになる。<

    私が誤解してるかもだけど、すごくおもしろい考え方だと思いました。
    カントの観念論論駁にも
    外部が自己を規定する、自我の存在が既に外部の存在の証、みたいな考え方がでてくるのかなと思ってるのですが、
    カントの場合は、単純に外部から自己規定への流れっぽいのかなと思ってるのですが、
    うましかさんの記事を読むに、
    フィヒテは、

    >自分をみずからの外部に対象化し、そして対象化されたものによって自分を規定するような運動<

    と、もう一段階、運動が付け加えられてるのかな、って。

    でも、カントもややこしいので、私が考えている以外、以上の運動を記述してるのかもしれませんが。


    >もし人間の本質が自己意識にあるとすれば、この活動の主体は人間ではない。むしろ、人間はこの活動によってはじめて人間になる。人間に先だって存在し、人間を生みだすような無意識的な生産力とは、生命活動(Leben)であり、生きた自然(natura naturans)である。<
    >
    > →村岡、p.97<

    うーん、おもしろいです。!(◎_◎;)

    なんか、スピノザさんの名前を思い出してしまいました。(pipitは、まっったく哲学史とかにも明るくないんですけど)
引用返信/返信 削除キー/
■20704 / inTopicNo.94)  pipitさんへ (;´・ω・)
□投稿者/ うましか -(2022/02/06(Sun) 17:48:46)
    2022/02/06(Sun) 19:49:49 編集(投稿者)

    こんばんはー

    感想いただきまして光栄です! (◎_◎;)

    No.20702 (pipitさん)

    私うましか、分からない点をごまかしごまかし前進しております。

    たとえば、

    >時間は論弁的概念ではない、というカントの意見 (pipitさん)

    実は、、、カントの言う「論弁的(概念)」って意味がわからないのでした( ノД`)シクシク…
    "diskursiver"は、石川文康訳では「論証的」、有福孝岳訳では「討議的」という訳語があてられていますが、そもそもなぜ「論弁的」が出てくるの?という。
    カントが想定する一般的な読者の多くが時間を「論弁的概念」だと思っていたということなのかな?(;´・ω・)?

    >「様々の諸時間は同時的に存在し得ない」という命題って、(昨日、と、今日、は同時に存在しえない)みたいな意味なのかなーと思った(pipitさん)

    なるほどー(゚д゚)!
    そう読み換えれば、分かりやすいです。

    >もし一般的概念、たとえばフルーツだったら、様々の諸フルーツは同時に存在し得ない、なんて命題は、導くことができないのかなーと思いました。(pipitさん)

    カントが言う「一般的概念」というのがどういうものか、そもそも私には分からないのですが、pipitさんの「フルーツ」が「一般的概念」にあたるとして、

    「様々の諸フルーツは同時に存在し得ない」から、「様々の諸時間は同時的に存在し得ない」は、カントによれば「導き出され得ない」ということなんですかねー
    (;´・ω・)??

    >「様々の諸時間は同時的に存在し得ない」という命題も、或る一般的概念からは導き出され得ないであろう。(カント)



    (/・ω・)/沈む〜
    ----------------

    【追記】

    "diskursiver"は、「空間」についての第二項でも言われていました。

    No.18323 では、

    >◇ 4〔*1〕 空間は、諸物一般の諸関係についてのいかなる論弁的な〔diskursiver〕概念ないしは、よく言われるように、一般的な〔allgemainer〕概念ではなく、一つの純粋な直観である。なぜなら、第一に、人は唯一の空間〔einigen Raum〕を表象し得るに過ぎず、だから多くの諸空間についての語るときには、それらを同一の唯一の空間の諸部分と解しているに過ぎないからである。<

    ちなみに、カント事典で調べてみたら、p.447〜p.448に鈴木崇夫による解説で、"diskursiv"が、「比量的」と訳されていました。「直観的」と対比関係にあるとのこと。詳しくは先述のページをご参照くださいm(__)m

引用返信/返信 削除キー/
■20703 / inTopicNo.95)  底なし沼探査レポ(/・ω・)/その五
□投稿者/ うましか -(2022/02/06(Sun) 17:01:43)
    2022/02/06(Sun) 17:54:26 編集(投稿者)

    pipitさん、こんにちはー

    私うましかは、最近、ときどき『ドイツ観念論 カント・フィヒテ・シェリング・ヘーゲル』という本をめくっています。

    村岡晋一という方の著作で、講談社(選書メチエ)から出ています。

    この本で、フィヒテの解説中、p.77〜の「〈私〉という存在と自由」と、シェリングの解説中、p.97〜「シェリングの自然観」をひろい読みしているところです。

    *******

    >したがって〈私〉という存在には、いままで外に向いていた意識が一八〇度回転して自分自身に向かうという働きが不可欠である。〈私〉という存在は、ただそこにあるという事実(Tatsache)ではなく、みずからを振りかえる行為(Handlung)と不可分であるような事実である。だから、フィヒテはこの〈私〉の奇妙な存在の仕方をTathandlung(事行)と呼ぶ。そうだとすれば、「私」は、自分が自分を対象化して、対象化された自分を自分として認知するときはじめて存在する。いやむしろこうした運動の全体こそが〈私〉の真の存在なのである。<

    →村岡、p.78

    >シェリングはなぜフィヒテのもとにとどまれなかったのだろうか。フィヒテの知識学においては、自然は人間がみずからの本質を実現するために克服すべき障害としかみなされていないからである。ところが、じっさいにはフィヒテの「自我」の概念のうちには、自然こそが自我を可能にする基礎であることが含意されている。なぜか。フィヒテによれば、知られ意識される〈私〉は、自分をみずからの外部に対象化し、そして対象化されたものによって自分を規定するような運動の成果なのだが、そうだとすれば、この運動そのものは私の意識以前の活動、つまり無意識的活動ということになる。もし人間の本質が自己意識にあるとすれば、この活動の主体は人間ではない。むしろ、人間はこの活動によってはじめて人間になる。人間に先だって存在し、人間を生みだすような無意識的な生産力とは、生命活動(Leben)であり、生きた自然(natura naturans)である。<

    →村岡、p.97


    *******

    底なし沼シリーズ
    No.18341,18382,18440,18490,19701,19720,19763,19807,20703

    私うましかの「底なし沼」に返信くださった投稿につきましては、「検索」ボタンに「底なし沼」と記入していただくと表示されます(・ω・)ノ
引用返信/返信 削除キー/
■20702 / inTopicNo.96)  Re[4]: 超越論的感性論 第四項:X−3
□投稿者/ pipit -(2022/02/06(Sun) 15:48:51)
    No20699
    うましかさん、こんにちは!
    こちらは雪降って寒いですー 
    (OvO)

    >◇ 4 時間は、いかなる論弁的〔diskursiver〕概念、ないしは、よく名づけられているように、一般的概念〔allgemeiner Begriff〕でもなく、感性的直観の一つの純粋な形式である。様々の諸時間は同一の時間の諸部分に過ぎない。

    ◇しかし、たった一つの対象を通じてのみ与えられ得る表象は、直観である。また、「様々の諸時間は同時的に存在し得ない〔verschiedene Zeiten nicht zugleich sein koennen,〕」という命題も、或る一般的概念からは導き出され得ないであろう。この命題は綜合的〔synthetisch〕であり、だから概念からだけでは生じ得ない。それゆえ、この命題は時間の直観や表象の内に直接含まれている。<

    感想を投稿させていただきます。
    時間は論弁的概念ではない、というカントの意見って、哲学的な思考としては珍しいのかなと思いました。
    「様々の諸時間は同時的に存在し得ない」という命題って、
    (昨日、と、今日、は同時に存在しえない)みたいな意味なのかなーと思ったのですが、
    もし一般的概念、たとえばフルーツだったら、
    様々の諸フルーツは同時に存在し得ない、なんて命題は、導くことができないのかなーと思いました。
     
    記憶、って、現在(今この瞬間)の出力かもしれないけど、
    やっぱり『経験』の再現としての出力と素直に思うと、
    経験の点灯の順番というか、
    【時間は感性的直観の一つの純粋な形式】というカントの考え方は面白く感じました。



引用返信/返信 削除キー/

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