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■20563 / inTopicNo.25)  うましかさんへ
  
□投稿者/ pipit -(2022/01/28(Fri) 12:31:46)
    こんにちは!

    大変かもな時に投稿をありがとうございます

    どうぞご無理されないでくださいね

    うましかさんのおかげで、哲学の楽しさを、より知ることができたのではないかと思っています。

    ありがとうございます
    (^人^)♪

引用返信/返信 削除キー/
■20559 / inTopicNo.26)  pipitさんへ
□投稿者/ うましか -(2022/01/28(Fri) 09:24:10)
    おはようございます

    ちょっといろいろありまして、しばらく投稿できませんでした(;´・ω・)

    また余裕ができたところでカント沼に再トライしたいとおもいます。

    よろしくお願いいたしますm(__)m
引用返信/返信 削除キー/
■20556 / inTopicNo.27)  感想
□投稿者/ pipit -(2022/01/27(Thu) 23:59:22)
    pipitの読解を書きます。

    No20554に返信(pipitさんの記事)
    > 中山元先生訳本『純粋理性批判2』p157より引用※〈 〉は中山先生による強調、[ ]は中山先生による補注。
    >
    > 『これにたいして、さまざまな像一般の 多様なものの 超越論的な総合において、
    > すなわち自己統合の意識による 根源的で総合的な統一において、
    > わたしがみずからを意識するときには、<

    (私は、、、考える)でまとめる統覚の働きで、自らを意識するとき


    > わたしにとって〈わたし〉は〈現れるがままに〉にでもなく、<

    わたしにとって、わたしは、現象でもなく

    > 〈わたし〉自体の〈あるがままに〉において意識するのでもない。<

    物自体のわたしを意識するのでもない。

    > ただわたしが存在するということだけが意識されるのである。<


    この@[わたしが存在する]という意識は、現象の認識でもなく、物自体の認識でもない。


    > この[存在するものという]観念[=表象]は 直観のもたらす観念ではなく、思考のもたらす観念である。<

    @は、思考の観念である。


    > [この総合では わたしは みずからを認識するのではなく、自己の存在を 意識しているにすぎない。]

    > ところがわたしたちがみずからを認識するという場合には、思考の働きだけではなく、ある特定の種類の直観を必要とする。<

    だから、@は、自らという対象の認識ではない。

    > 思考の働きは、すべての可能な直観のうちに含まれる多様なものを、自己統合の意識において、統一にもたらすのであり、直観はこの多様なものをわたしに与えるのである。<

    思考の働きは、直観において与えられた多様を、統覚の意識において統一することである。
    (が、@には、思考の働きだけで、直観が欠如している)


    > もちろんわたしの現実存在は現象ではないが(ましてや たんなる仮象ではない)、
    > わたしの現実存在が規定されるためには(注)、
    > その規定が わたしの内的な感覚能力の形式に適合したものであること、
    > そしてわたしが結びつける多様なものが、
    > 内的な直観に与えられる特定の仕方で結びつけられることが必要である。<

    現実存在の【規定】は、時間という形式に沿った直観と、特定の結びつきが必要条件となる。


    > だからわたしが自分を認識するときは、あるがままのわたしを認識するのではなく、わたしが自分に〈現れるがままに〉認識するのである。<

    そのような条件にそった形で現れた 自分 は、現れたままの現象として、認識できる。

    > わたしたちはカテゴリーによって、自己統合の意識において多様なものを結合し、そのことによって 客体そのものを 思考するのではあるが、自己[の存在]を意識するときには、いかなるカテゴリーによっても、まだ自己の認識にはいたらないのである。<


    直観に現れたものをカテゴリーによって思考し、認識となすが、ただの@[自分は存在する]という意識だけでは、カテゴリーを使用する対象の直観がないので、自己の認識にはならない。

    >
    > (続く)

    とりあえずこのように読みました。
    違うかもしれませんが、また明日以降に、後半を読んでみたいと思います。

    おやすみなさい ☆彡

引用返信/返信 削除キー/
■20555 / inTopicNo.28)  Re[30]: 『純粋理性批判』B157
□投稿者/ pipit -(2022/01/27(Thu) 23:19:50)
    No20555
    引用を続けます。

    (続き)
    わたしが自分とは異なる客体を認識するときには、客体そのものについての(カテゴリーによる)思考のほかに、
    さらに直観を必要とするのであり、この直観をつうじて普遍的な概念を規定するのである。

    それと同じように わたしは自分自身を認識するときにも、
    [わたしが存在するという]意識のほかに、
    そして〈わたしが自分のことを考える〉ということのほかに、
    わたしのうちにおける多様なものの直観を必要とするのであり、
    この直観によってわたしはこの思考を規定するのである。

    たしかにわたしは叡智的な主体として存在しているのであり、この叡智的な主体はみずからの結合能力を意識している。
    しかしこの叡智的な主体も、[自己の認識において]みずから結合する多様なものについては、内的な感覚能力と呼ばれるある制約にしたがうのである。

    そしてこの結合を意識するときには、ほんらいの知性の概念の外部にある時間の関係にしたがって直観するしかないのである。

    だからこの叡智的なものが自己を認識するのは直観によってであって(この直観は叡智的直観ではないことに注意しよう。これは知性がみずからもたらす直観ではないからである)、みずからにたんに現れるかぎりにおいて認識するのである。
    そしてこの直観が叡智的直観であった場合に認識するようには、みずからを認識することができないのである。』
    引用終了
引用返信/返信 削除キー/
■20554 / inTopicNo.29)  『純粋理性批判』B157
□投稿者/ pipit -(2022/01/27(Thu) 22:34:47)
    みなさま、こんばんは (^_^)

    まず、
    > 167 自己の存在の認識 と 客体としての自己の認識<
    の箇所を引用します。

    中山元先生訳本『純粋理性批判2』p157より引用※〈 〉は中山先生による強調、[ ]は中山先生による補注。

    『これにたいして、さまざまな像一般の 多様なものの 超越論的な総合において、
    すなわち自己統合の意識による 根源的で総合的な統一において、
    わたしがみずからを意識するときには、
    わたしにとって〈わたし〉は〈現れるがままに〉にでもなく、
    〈わたし〉自体の〈あるがままに〉において意識するのでもない。
    ただわたしが存在するということだけが意識されるのである。

    この[存在するものという]観念[=表象]は 直観のもたらす観念ではなく、思考のもたらす観念である。
    [この総合では わたしは みずからを認識するのではなく、自己の存在を 意識しているにすぎない。]

    ところがわたしたちがみずからを認識するという場合には、思考の働きだけではなく、ある特定の種類の直観を必要とする。
    思考の働きは、すべての可能な直観のうちに含まれる多様なものを、自己統合の意識において、統一にもたらすのであり、直観はこの多様なものをわたしに与えるのである。

    もちろんわたしの現実存在は現象ではないが(ましてや たんなる仮象ではない)、
    わたしの現実存在が規定されるためには(注)、
    その規定が わたしの内的な感覚能力の形式に適合したものであること、
    そしてわたしが結びつける多様なものが、
    内的な直観に与えられる特定の仕方で結びつけられることが必要である。
    だからわたしが自分を認識するときは、あるがままのわたしを認識するのではなく、わたしが自分に〈現れるがままに〉認識するのである。

    わたしたちはカテゴリーによって、自己統合の意識において多様なものを結合し、そのことによって 客体そのものを 思考するのではあるが、自己[の存在]を意識するときには、いかなるカテゴリーによっても、まだ自己の認識にはいたらないのである。

    (続く)

    ※※※※※

    ここでいったん投稿します。
    続きは、また後ほど投稿します。

引用返信/返信 削除キー/
■20553 / inTopicNo.30)  Re[28]: (私は、、、考える)と(存在)
□投稿者/ pipit -(2022/01/27(Thu) 21:52:15)
    No20540の続きですが、
    丁寧に見ていきたいので、『純粋理性批判』B157をまず引用します。
    中山元先生訳で、第二巻p157.158、で、中山先生独自段落番号と段落題名は、

    167 自己の存在の認識 と 客体としての自己の認識

    167n 自発性としての自己直観について



引用返信/返信 削除キー/
■20545 / inTopicNo.31)  続 ・分別経
□投稿者/ pipit -(2022/01/27(Thu) 13:20:46)
    No20544
    引き続き、『分別経』の話題を。。。

    Bhikkhu Bodhiさまの英訳
    https://suttacentral.net/sn12.2/en/bodhi

    Bhikkhu Sujatoさまの英訳
    https://suttacentral.net/sn12.2/en/sujato?layout=plain&reference=none&notes=asterisk&highlight=false&script=latin

    で、Bhikkhu Bodhiさまの
    十二因縁
    『無明によりて行が生じ、
    行によりて識が生じ、… 』
    With ignorance as condition, volitional formations come to be;
    with volitional formations, consciousness …

    Bhikkhu Sujatoさまの
    十二因縁
    『無明によりて行が生じ、行によりて識が生じ、識によりて名色が生じ、
    Ignorance is a condition for choices. Choices are a condition for
    consciousness.
    Consciousness is a condition for name and form.

    『行』の英訳が、『volitional formations』、これは、日本語訳でも、行(サンカーラ)を形成作用と訳されてた覚えもあるから感覚的にわかるけど、
    もう一つが『choices』選択、と訳されてたのが新鮮に思えました。

    いろいろでおもしろいなぁ

引用返信/返信 削除キー/
■20544 / inTopicNo.32)  (仏教)wikiの出典先を調べてみた日記
□投稿者/ pipit -(2022/01/27(Thu) 09:30:50)
    2022/01/27(Thu) 09:34:12 編集(投稿者)

    No20526で引用した経典文章ですが、
    引用元のwikiには、

    >比丘たちよ、名色とは何か? 感情(ヴェダナー)、認識(サンニャー)、意思(チェータナー)、接触(パッサ)、作意(マナシカーラ)、これらを名(ナーマ)と呼ぶ。四大要素と、四大要素に依存するもの、これらを色(ルーパ)と呼ぶ。このナーマとルーパを名色と呼ぶ。<

    の出典が
    『Vibhangasuttam1.1.2, Sri Lanka Tripitaka Project』
    と載ってて、これだけでは何の経典か、わたしにはわからなくて、リンクを開いたら、

    ↓につながって
    https://www.accesstoinsight.org/tipitaka/sltp/

    いろいろ別サイトでも、調べてみて、このページでは、
    Samyutta Nikaya: S i | S ii | S iii | S iv | S v
    の、『SA』を開いて

    https://www.accesstoinsight.org/tipitaka/sltp/SN_II_utf8.html

    『1. 1. 2,
    Vibhangasuttam』

    だと辿り着けました(^◇^;)

    光明寺経蔵さん

    https://komyojikyozo.web.fc2.com/

    では、

    パーリ三蔵
    『相応部』

    『因縁篇』

    『因縁相応』

    「仏陀品」

    →次へ、で出てくる2番目の経典
    「分別経」

    だと思います。

    それで、おもしろいな、と、思ったのが、
    この『分別経』の英訳が、『Analysis』となってたことです。

    Bhikkhu Sujatoさま訳
    https://suttacentral.net/sn12.2/en/sujato?layout=plain&reference=none&notes=asterisk&highlight=false&script=latin

    『Analysis』分解、解析、などを意味するアナリシスですね。

    ついでに、相応の英訳は『Linked』リンクされた、ですね。
    相応部はwikiでは、
    『テーマ別の短編経典集である。「相応」(samyutta, サンユッタ)とは、「テーマ別のまとまり」のことを指す。』
    との説明がありました。

    この『分別経』(Analysis)は、「テーマ別のまとまり」としては、
    『因縁相応』(Linked Discourses on Causation)におさめられてます。

    先に引用した部分の英訳は、Bhikkhu Sujatoさまでは、
    And what are name and form? Feeling, perception, intention, contact, and attention. This is called name. The four primary elements, and form derived from the four primary elements. This is called form. Such is name and such is form. These are called name and form.

    Bhikkhu Bodhiさま訳では、
    “And what, bhikkhus, is name-and-form? Feeling, perception, volition, contact, attention: this is called name. The four great elements and the form derived from the four great elements: this is called form. Thus this name and this form are together called name-and-form.

    おもしろいなぁ
    意思がintentionとか、作意がattention とか。

    ちょっと対応させましょうか。 

    感情(ヴェダナー)、Feeling, Feeling
    認識(サンニャー)、perception,perception
    意思(チェータナー)、intention, volition
    接触(パッサ)、contact, contact
    作意(マナシカーラ)attention.attention

    お二方の英訳で、「意思」だけ選んだ単語が違ってるのですね。


    (The four primary elements, and form derived from the four primary elements.)
    の、『四大』は、恐らく、『地水火風』の四大要素のことではないかと思ってます、が、違ったらすみません
    m(_ _)m
引用返信/返信 削除キー/
■20540 / inTopicNo.33)  (私は、、、考える)と(存在)
□投稿者/ pipit -(2022/01/26(Wed) 23:26:51)
    No20533
    p41-42

    カントは
    「私は・・・と考える」を「私は存在する(Ich bin)」と等値している、と。
    でも、
    『純粋理性批判』の根源的前提から言えば、カントはこう言うことはできないのでは?
    と山下先生からの問いかけ。

    純理では、
    『感性なしに我々には対象は与えられず、悟性なしにはいかなる対象も思惟されない』
    『悟性は何も直観せず、感官は何も思惟しない。両者が結合することによってのみ、認識が生じうる』
    (B75)
    が前提となっている。

    ※※※※※※※※※

    以上の前提(pipitの理解としては→→→認識の成立は、感性による直観と、悟性による思惟の両者を必要条件とする)を頭の片隅に置きまして、、、

    >「私は・・・と考える」を「私は存在する(Ich bin)」と等値している<

    に、踏み込んでみましょう。ということで、、、

    ※※※※※※※※※

    B157 あたりを見てみればいいのかな?
    明日以降、山下先生の引用や解説の理解にチャレンジしていこうと思います。

    みなさま、おやすみなさいませ
    (^O^) ☆彡

引用返信/返信 削除キー/
■20533 / inTopicNo.34)  カント認識論の構図
□投稿者/ pipit -(2022/01/26(Wed) 16:38:17)
    2022/01/26(Wed) 17:48:57 編集(投稿者)

    No20524
    > 第二節として『カント認識論の構図』p40<

    クレメの言葉を借りれば『認識する主観の自己主題化』


    山下先生の考え
    『『純粋理性批判』において純粋理性の批判を行うのは著者であるカント自身の純粋理性である。』p40

    ※※※※※※
    以上のp40から41の中頃までの、山下先生の記述はわかると思う。
    この中頃から、なんでいきなり、統覚の話に切り替わる(ように、pipitには思える)のだろう???
    それがよくわからない。

    p41中頃から先を読みます。

    「私は、、、と考える」の表象とそれを産出する純粋統覚のことがでてきて、
    それは、全ての意識において同一であることにおいて、根源的統覚とも名付けられ、
    (カントの文章)
    「その統一を、そこからのアプリオリな認識の可能性を表示するために、自己意識の超越論的統一」(ibid.)と名付ける...

    超越論的とは、

    「対象にではなく、
    それがアプリオリに可能な限りで、
    対象についての我々の認識のあり方にそもそも従事すべき全ての認識を
    超越論的と名付ける」(B25)
    山下和也先生訳

    だから、

    うん、
    超越論的というタームをつけることで、
    統一のアプリオリ性への眼差しを向ける、と。

    とりあえずここまではぼやぼやとでもわかる。
    次は、p41の最終2行から読み続けます。

    ※※※※※※※※※

    pipitの、勝手な感想

    山下先生の文章って、一見はわかりやすい雰囲気なのに、謎森になっていくんだよね。

    ここはわかる、と思ってても、すぐ自己の現在位置さえ見失ってしまうような、カント先生の記述を思い出すよ
     ( ̄▽ ̄;) ココドコー!?

引用返信/返信 削除キー/
■20526 / inTopicNo.35)  名色・日記
□投稿者/ pipit -(2022/01/25(Tue) 22:04:01)
    2022/01/25(Tue) 22:07:12 編集(投稿者)

    No20525
    ナーマルーパ検索したら、wikiに『名色』の項目がありました。

    抜粋引用します。文字化けする箇所は変更したり消去したりしました。

    名色(みょうしき)とは、パーリ語およびサンスクリット語のNAmarUpa(ナーマルーパ)に由来し、名前(nAma,ナーマ, 名)+姿(rUpa,ルーパ,色)による熟語である。

    (略)
    パーリ経典では、釈迦は名色を以下と述べている。
    (略)
    比丘たちよ、名色とは何か? 感情(ヴェダナー)、認識(サンニャー)、意思(チェータナー)、接触(パッサ)、作意(マナシカーラ)、これらを名(ナーマ)と呼ぶ。四大要素と、四大要素に依存するもの、これらを色(ルーパ)と呼ぶ。このナーマとルーパを名色と呼ぶ。
    (略)

    スッタニパータでは、釈迦はどのように名色を停止するかについて、学徒アジタに説いている。
    「では名色(NAmarUpa)は、いかなる場合に停止するのですか? おたずねしますが、このことをわたしに説いてください。」「アジタよ。そなたが質問したことを、わたしはそなたに語ろう、名色が停止する所を。識が滅することによって、ここに(名色が)停止する。」
    スッタニパータ,1037

    (略)
引用返信/返信 削除キー/
■20525 / inTopicNo.36)  日記
□投稿者/ pipit -(2022/01/25(Tue) 21:53:33)
    No20523

    >オートポイエーシス論としては、物はあるという前提で、物質と非物質の二元論で、ものごとを捉えていく理論なのかなーと思いました。<

    あ、ナーマ(名)・ルーパ(色)という概念、思い出した。

引用返信/返信 削除キー/

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