□投稿者/ pipit -(2022/01/27(Thu) 22:34:47)
| みなさま、こんばんは (^_^)
まず、 > 167 自己の存在の認識 と 客体としての自己の認識< の箇所を引用します。
中山元先生訳本『純粋理性批判2』p157より引用※〈 〉は中山先生による強調、[ ]は中山先生による補注。
『これにたいして、さまざまな像一般の 多様なものの 超越論的な総合において、 すなわち自己統合の意識による 根源的で総合的な統一において、 わたしがみずからを意識するときには、 わたしにとって〈わたし〉は〈現れるがままに〉にでもなく、 〈わたし〉自体の〈あるがままに〉において意識するのでもない。 ただわたしが存在するということだけが意識されるのである。
この[存在するものという]観念[=表象]は 直観のもたらす観念ではなく、思考のもたらす観念である。 [この総合では わたしは みずからを認識するのではなく、自己の存在を 意識しているにすぎない。]
ところがわたしたちがみずからを認識するという場合には、思考の働きだけではなく、ある特定の種類の直観を必要とする。 思考の働きは、すべての可能な直観のうちに含まれる多様なものを、自己統合の意識において、統一にもたらすのであり、直観はこの多様なものをわたしに与えるのである。
もちろんわたしの現実存在は現象ではないが(ましてや たんなる仮象ではない)、 わたしの現実存在が規定されるためには(注)、 その規定が わたしの内的な感覚能力の形式に適合したものであること、 そしてわたしが結びつける多様なものが、 内的な直観に与えられる特定の仕方で結びつけられることが必要である。 だからわたしが自分を認識するときは、あるがままのわたしを認識するのではなく、わたしが自分に〈現れるがままに〉認識するのである。 、 わたしたちはカテゴリーによって、自己統合の意識において多様なものを結合し、そのことによって 客体そのものを 思考するのではあるが、自己[の存在]を意識するときには、いかなるカテゴリーによっても、まだ自己の認識にはいたらないのである。
(続く)
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ここでいったん投稿します。 続きは、また後ほど投稿します。
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