(現在 過去ログ2 を表示中)

TOP HELP 新着記事 トピック表示 ファイル一覧 検索 過去ログ

[ 親記事をトピックトップへ ]

このトピックに書きこむ

レス数の限度を超えたのでレスできません。

(レス数限度:100 現在のレス数:100) → [トピックの新規作成]
■20280 / inTopicNo.13)  Re[82]:  言語
  
□投稿者/ 田秋 -(2022/01/04(Tue) 21:19:58)
    2022/01/05(Wed) 05:59:00 編集(投稿者)

    感覚が優れているんだと思う。

    まずは感覚。それを理論武装する。

    でも悪魔ちゃんに理論武装は似合わない?
引用返信/返信 削除キー/
■20279 / inTopicNo.14)  Re[81]:  言語
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/01/04(Tue) 20:48:32)
    ■20278、
    え!うそ、ほんと?
    うれしい。

    でも、どうしてそうなのかは、
    わたしわかんない。
引用返信/返信 削除キー/
■20278 / inTopicNo.15)  Re[80]:  言語
□投稿者/ 田秋 -(2022/01/04(Tue) 20:40:38)
    2022/01/04(Tue) 20:41:26 編集(投稿者)

    こんばんは、悪魔ちゃん

    100点満点!

    スバラシ!

引用返信/返信 削除キー/
■20277 / inTopicNo.16)  Re[79]:  言語
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/01/04(Tue) 20:35:45)
    ■20276、田秋さん、ありがと

    >パロールは無理に日本語に訳さないで、パロールとしておいた方がいいかも<
    そうかも。

    田秋さんて言語学に興味あるみたいね。

    練習問題に挑戦
    1ラング
    2ラング
    3パロール
    4パロール
    5ラング

    どう?
引用返信/返信 削除キー/
■20276 / inTopicNo.17)  Re[78]:  言語
□投稿者/ 田秋 -(2022/01/04(Tue) 19:32:02)
    2022/01/04(Tue) 19:32:53 編集(投稿者)

    こんばんは、悪魔ちゃん

    パロールは無理に日本語に訳さないで、パロールとしておいた方がいいかも。言語としても日常会話としてもちょっと違う感じがします。意味はウィキペディアに書いてるような感じだからそういうものをパロールだとしておけば良いと思います。

    では練習問題
    次の例が「ラング」「パロール」のどちらに属するでしょうか。
    1.日本語の文では動詞は普通最後に置かれる。
    2.「かんぱん」(甲板)と「かんばん」(看板)では意味が異なる。
    3,年を取ると若い頃よりも声が低くなる。
    4.「おしるこ」と聞いただけでよだれがでてくる人もいる。
    5.「服を着る」とは言えるが「靴を着る」とは言えない。
    (「言語学入門」KENKYUSHA より転載)

    答えはそのうちに

    今年もガンバロー!

引用返信/返信 削除キー/
■20274 / inTopicNo.18)  Re[77]:  言語
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/01/04(Tue) 16:49:54)
    No20271のつづきね

    (抜粋1)でわたしが思ったのはね、メルポンは「日常会話(パロール)」を見ようとしているっていうこと。

    No11411にあるように、メルポンの現象学は、
    「世界との素朴な触れあい」だったり「生活世界の一つの解明」だったりしてるし、
    そして、
    No11365で、
    「言葉のざわめきの下の原初的な沈黙を再発見しない限り、そしてこの沈黙をやぶる身振りを描き出さない限り、われわれの人間考察はいつまでたっても表面的なものにとどまるであろう。」って言ってる。

    「言語」について、
    メルポンの志向は、パロール(日常会話)へ、っていうことなんだと思う。ラングへ、じゃなくて。
    そして、現象学的還元、言いかえると、言語の起源を、
    〈言葉ざわめきの下の原初的な沈黙を再発見し、それを破る身振りを描きだそうとすること〉、これによって
    見よとしてるんじゃないかしら。

    わたし、メルポンのは〈生活世界のフィロソフィア〉あるいは〈実存私と世界との関係性のフィロソフィア〉って見てるから、「言語」に関して、やっぱパロール(日常会話)から、ってなるんだな〜、って。

引用返信/返信 削除キー/
■20271 / inTopicNo.19)  Re[76]:  言語
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/01/04(Tue) 10:44:29)
    もうお正月休みも終わっちゃう。この休み中にいっぱい考えたの書いとくことにする。
    No20262についてのわたしの、の前に〜、「言語」についてね。
    メルポンの『知覚の現象学』のなかで、
    Y「表現としての身体と言葉(パロール)」と題してあって、そこにメルポンのがいっぱい書いてある。
    前に、
    No15611
    No11365
    No15014
    で書き写したのはここからの。

    ふたたび、Yのところどころ抜粋しながら見ていくことにしま〜す。

    【〔失語症における経験主義と主知主義、いづれも説明として十分ではない〕】
    って題してあって、失語症の患者のを例にして、経験主義と主知主義の「言語についての考え方」を批判(鵜呑みにせずよく吟味すること)しながら、メルポンの考えを記述している。

    【われわれは身体に、科学的対象の統一とは区別される別種の統一を認めた。われわれは今しがた身体の「性的機能」のなかにまで、志向性と意味能力とを発見したばかりである。言葉(parole)の現象と明白な意義作用との記述を試みることによって、われわれは主観と客観という古典的な二分法を決定的に超える機会に恵まれるだろう。言葉(パロール)を独自の領域として意識するようになったのは、当然のことながら、後世になってからのことである。ここでも例によって、「持つ」(avoir)という関係が「習慣」(habitude)という語の語源にはっきり現れているにもかかわらず、さしあたり「ある」(etre)という領域に属する関係によって、あるいはこういってよければ世界内部的(intra-mondaines)な、存在的(ontiques)な諸関係によって、掩いかくされている。】(抜粋1)
    (etreのeの上の^は省略してあります。)

    Yの前は「性欲」について書いてあるんだけど、これも〈私と世界との関係性〉を見ていくのにははずせないテーマだけど、これはまた気が向いたときに。

    「parole」を「言葉」って訳されてる。そして【言葉(パロール)を独自の領域として意識するようになったのは、当然のことながら、後世になってからのことである。】から、これって「言語学」のこと?で、「パロール」っていうの、ソシュールのかな?ということで、ソシュールの、ネットからのを一部書き写して置く。

    「ランガージ・ラング・パロール」
    ウィッキより、
    〔ソシュールは、言語(language ランガージ)には、ラング(langue)とパロール(parole)という二つの側面があると考えた。ラングとは、ある言語社会の成員が共有する音声・語彙・文法の規則の総体(記号体系)である。それに対して、パロールは、ラングが具体的に個人によって使用された実体である。そして、パロールは、個人・場面によって異なり、言いよどみ、言い誤りなども含むことから、ソシュールは、言語学の研究はラングを対象とすべきであるとした。ソシュールによれば、パロールとは、個人がラングの規則と条件に従ってその意志を表現するために行う具体的な発話行為である。また、ラングが社会的な側面に立つのに対して、パロールは個人的な側面に立つが、必ずしもこの概念は対立しているわけではなく、むしろ相互依存的な形を取っている。〕

    「シーニュ・シニフィアン・シニフィエ」
    コトバンクより、
    〔もともとフランス語で「シニフィアン」は「意味するもの(能記)」、「シニフィエ」は「意味されるもの(所記)」にあたる表現だが、彼の講義の記録から弟子の手によって死後編集され出版された『一般言語学講義』Cours de linguistique générale(1916)では、これがそれぞれ「聴覚映像image acoustique」および「概念concept」という、シーニュsigneすなわち言語記号の二つの構成要素を指す用語として用いられていた。〕

    わたし簡単に見ちゃうと、
    「言語」は、「音声・語彙・文法の規則(ラング)」と「日常会話(ランガ―ジュ)」に区別され、語を記号(シーニュ)の一つ(言語記号)として見て、それは聴覚映像(シニフィアン)と概念(シニフィエ)が構成要素となってる、ってソシュールは言ってるんだと思う。
    言語記号(シーニュ)の構成要素としてのシニフィアンとシニフィエについては「意味」にかかわってくるから後で見ていくことになるのかも。

    つづく

引用返信/返信 削除キー/
■20262 / inTopicNo.20)  Re[75]: メルポンの
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/01/03(Mon) 19:17:42)
    このごろメルポンの『知覚の現象学』のW「表現としての身体と言葉(パロール)」っていうところ読み返してる。

    そのなかにこんなのが書いてある。

    【カントの有名な問い(訳注59)に対して、われわれは内的もしくは外的言語によって自己に対して自分の思惟を提示するという意味おいては、思惟することも実際の一つの経験であると答えることができる。
    なるほど思惟は一瞬のうちに稲妻の如く進展する。しかし次にそれをわれわれのものとするという仕事が残っている。そしてそれがわれわれのものとなるのは表現によってである。対象が再認されてしかる後にその名が呼ばれるのではない。呼称は再認そのものである。】

    (訳注59)
    〔「カントの有名な問い」とは例の「先天的総合判断はいかにして可能なりや」だと思われる。総合判断(主概念のなかに意味的に含まれていない概念を賓概念とする判断)は、一般に経験の媒介を必要とする。そこでカントのいわゆる先天的(非経験的)総合判断(因果律その他の経験の構成原則)は、一見自己矛盾した概念に見え「いかにして可能なりや」という問いが生ずる。メルロの文章は思惟も実は言語による経験だということによって、この問いに答えることができるということなのであろう。〕

    これについてのわたしのは後で。

引用返信/返信 削除キー/
■20244 / inTopicNo.21)  Re[74]: メルポンの
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/01/02(Sun) 13:57:44)
    No20237の訳注と原注を書き写しておきま〜す。

    (訳注81)
    〔ここに出てくる「もつ」は、本章の冒頭に見えるvoirとêtreの区別(原注第一部170参照)――マルセルとの逆の使用法−―を前提としている。それゆえ独訳がich einen Etweb mein Eigen nenneと意訳したのは、それなりにうなづける。〕

    ここの〔本章の冒頭〕と〔原注第一部170〕については後で。これからのわたしの物語りのなかに出てくると思うから。

    原注(209)
    〔A Elisabeth, 1643, AT T. V, p.690.〕

    原注(210)
    〔「最後に、神やわれわれの精神に関する認識をわれわれに与えるのも形而上学の諸原理なのですから、一生のうちで一度はこれらの原理を十分理解しておくことが必要だと私は信じますが、また私はこれらの原理を思案するために人間の悟性をあまりにしばしばわずらわせることは非常に有害だろうと思うのであります。というのは、そんなことをしていたら、想像や感覚の諸機能にそれほどたずさわることができなくなるからです。最もよいことは、ひとたび引き出された結論を自分の記憶と信仰のなかに保存し、ついで研究のために残された残余の時間を、悟性が想像力や感覚といっしょに働くような思想に使うことだと、私は思います。」Ibid.〕

引用返信/返信 削除キー/
■20237 / inTopicNo.22)  Re[73]: メルポンの
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/01/02(Sun) 08:37:50)
    今年のわたしの物語り、メルポンのを中心に、になるかも。

    『知覚の現象学』の「第一部身体」の最後のところを書き写して見ます。

    【〔身体とデカルト的分析〕
     デカルト的伝統によって、われわれは対象からわれわれ自身を引き離す習慣がついている。つまり、反省的態度は身体を内部をもたぬ諸部分の総和となし、精神を何の隔たりもなく自己自身に完全に現前している存在と規定することによって、身体と精神とに関するふつうの概念を同時に純化するのである。身体と精神との相関関係的なこの定義は、われわれの内と外とに明晰性を確立する。いわば襞のない客体の透明性と、みずからそれであると思惟するもの以外のなにものでもない主体の透明性とを確立するのである。客体はすみずみまで客体であり、意識もすみずみまで意識である。存在するという言葉に二つの意味が、そしてただ二つの意味のみがあることになる。ひとは物として存在するか意識として実存するか、いずれかである。自己の身体の経験はこれに反して両義的な実存様式をわれわれに顕示するのである。私は身体を第三人称的諸過程――「視覚」「運動機能」「性」――の束と考えようとすると、他面これらの「諸機能」が因果関係によって、相互に結びつけられうるものでも、外界と結びつけられうるものでもないということ、これらはいずれも雑然と互いに見極めがたい姿で唯一のドラマのなかで捉え直され、そこに引き入れられるということに、気がつくのである。それゆえ身体は一個の対象ではない。同じ理由によって私が身体についてもつ意識は思惟ではない。つまり私は身体について明晰な観念を形づくるために、これを分解したり再合成したりすることはできない。身体の統一はつねに暗黙のうちの定からぬ統一である。身体はつねにそれがかくあるところのものとは別のものである。自由であると同時につねに性的存在であり、文化によって変容されると同時に自然に根づいている。それは決して自己自身のうちに閉じこもってはいないし、決して超出されきることもない。他人の身体であろうと、私自身の身体であろうと、人間の身体を知るにはそれを体験すること、つまりそれを貫くドラマを引き受けて自己のものとなし、それと一体となるほかに手段はない。それゆえ私は少なくとも、私が既得のものをもっている(訳注81)限り、私の身体である。そして逆に私の身体はいわば自然的な主体であり、私の全体的存在の当座のスケッチである。かくて自己の身体の経験は、客体を主体から、主体を客体から分離するところの、そしてわれわれに身体の思惟もしくは観念に置ける身体しか与えず、身体の経験もしくは現実の身体を与えないところの反省の運動に対立するのである。デカルトはこの点をよく承知していた。というのもエリザベットにあてた有名な書翰において、生を行使することによって理解されるような身体と、悟性によって理解されるような身体とを区別しているからである(209)。しかしデカルトにおいては、われわれが身体であるという単なる事実の結果われわれが自己の身体についてもつこの特異な知識も、観念による認識に依然として従属している。なぜなら事実としてあるがままの人間の背後に、われわれの事実的状況の理性的な創造者たる神がひかえているからである。この超越的な保証に支えられてデカルトはわれわれの非合理的な制約を、静かに受け入れることができるのである。つまり理性を担う責を負わされているのは、われわれではない。そしてひとたびわれわれが事物の根底に理性を認めたうえは、もはや世界のなかで行為し思惟することしかわれわれには残されていない(210)。しかし、もしわれわれと身体との統合が実体的なものであるなら、どうしてわれわれは自分自身のうちに純粋な精神を体験し、そこから絶対的精神に近づくことができるのだろうか。この問いをたてるに先だって、自己の身体の再発見のなかに含まれているものをことごとく調べてみよう。反省に抵抗し、いわば主体にはりついたままでいるのは、あらゆる対象中のこの一つの対象だけではない。暗みは知覚された世界の全体を掩うのである。】

    メルポンは『見えるものと見えないもの』で、
    【精神を身体の裏面と定義する】って言ってる。

    ちなみに、「掩」っていうのネットで調べたら、「おおう。おおいかくす。かばう。かくまう。不意におそう。たちまち。にわか。」ってあった。


    (訳注81)、原注(209)、(210)は次に書き写します。

引用返信/返信 削除キー/
■20233 / inTopicNo.23)  Re[72]: 新年のごあいさつ
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/01/01(Sat) 15:51:53)
    あけまして、おめでと〜

    さ、また初めからやり直し、かな?
引用返信/返信 削除キー/
■20186 / inTopicNo.24)  Re[71]: メルポンのわたしの
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/12/31(Fri) 17:29:12)
    ■20183、マジモンさん、ありがと。

    意味が通じてよかった〜

    もう今年も終わる。
    節目っていうの、気分を変える気になるからいいかも。
    コロナのせいで今年もお正月はひきこもり。
    メルポンの、じっくり読んじゃおっかな〜、って。
引用返信/返信 削除キー/

<前の12件 | 次の12件>

トピック内ページ移動 / << 0 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 >>
Mode/  Pass/

TOP HELP 新着記事 トピック表示 ファイル一覧 検索 過去ログ

- Child Tree -