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■20338 / inTopicNo.1)  Re[94]: 言葉は意味をもっている
  
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/01/09(Sun) 15:09:42)
    No20337のつづき。ちょっと訂正、「主知主義的心理学」は「第二の考え方」ね。

    「言語は意味をもっている」っていうの“あたりまえ”のようにわたし思えるんだけど。

    【所有してはいないのだ】とか【言語は意味をもつ】っていう【もつ】っていうの、
    No20308にあるような意味で「持つ」を見た方がいいのかも。
    「ある」――「言語は意味がある」っていうんじゃなくて、
    「もつ」――「‥‥においてある」(etre a ‥‥)あるいは「引き受ける」(assumer)(私は私の身体である、私はわたしの生である)という実存的な意味において用いている。のように見る、っていうことね。
    メルポンのはこういうところがあるのね〜。あ、これは横に置いといて。

    簡単に見ちゃうね

    (1)経験主義的心理学 →語るひとというものがない。
    (2)主知主義的心理学 →主体はあるが、それは「語る主体」ではなく「考える主体」である。
    (3)言葉そのものに関しては主知主義は経験主義と殆ど変わらない。
    (4)両者の考え方は、「語が意義をもっていない」という点で一致している。
    (5)呼称(名を呼ぶ)に範疇的作用を重ねたからといって、事情は変わらない。語は依然としてそれ固有の効力を奪われている。語の背後に範疇的作用があるのだから、それは意味を剥奪されてはいない。しかしそれは意味をもってはいない。所有してはいないのだ。
    (5)自動現象による説明なしですますことはできない。範疇作用がいったんおこなわれても、それをしめくくる語の発言ということが、依然として説明されねばならない。
    こんなことをメルポンは言ってるんだと思う。

    メルポンのわたしの

    「範疇作用」っていうのをわたし〈分類作用〉とか〈カテゴリー化〉ってして見てる。
    わたし、〈人(私)は世界を分類し、分類されたものに名(語)を付ける〉ってしてて、この働きを〈分類作用〉って見てる。〈名を付ける〉までが分類作用ね。

    メルポンは【それをしめくくる語の発言ということが、依然として説明されねばならない】って言ってる。だから、〈分類作用〉だけでなく、名づけられたその語を〈発語する〉ということを含めて「言葉」見ているっていうことなのかな。

    こうして見ると、
    No20319で見たような、「言語は思惟を成就する」とつながってくる。
    でもこういう大人っぽいのも、原初的な世界で“すでにおこなわれている”ことを基盤としてなされてるって、メルポンはいってるんじゃないかしら。
    No11345でフッサールが言ってるように、現象学は「匿名的な隠れた働き」「原初的な働き」「についての研究と批判的吟味であり、それがもつあらゆる志向的地平を露呈することなのである」のように。

    No11365
    〈言葉のざわめきの下の原初的な沈黙を再発見し、これをやぶる身振りを描きだすこと〉によって見えてきたこと――〈言葉のざわめきの下〉ですでに〈分類作用〉はおこなわれ、〈これをやぶる身振り〉として〈発語する〉っていうふうに。
    ここらへんはまた後で見ていくことにする。

    【自動現象による説明なしですますことはできない】っていうのも気になるところね。

    なんか今日は集中してる〜 What 7もここでおわりね。このつづきは8に。

引用返信/返信 削除キー/
■20337 / inTopicNo.2)  Re[93]: 言葉は意味をもっている
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/01/09(Sun) 14:44:49)
    Yのなかの【言語は意味をもっている】というところのを書き写して見ます。

    【ところが実は、経験主義的もしくは機械的心理学と、主知主義的心理学との間の、血縁関係の存在に、今再び注目しなくてはならないのである。前者の主張から後者の反論に移ったからとて、言語の問題は解決するものではない。先ほどは語の発生、語心像の復活ということが本質的であった。今やそれらは、真の呼称と内的な作用としての本来の発言の、外被以上のものではない。とはいえ、この二つの考え方は、いずれにとっても語が意義をもっていないという点で、一致している。第一の考え方においてこの点は明白である。というのは、それによれば語の喚起はいかなる概念によっても媒介されず、与えられた刺激もしくは「意識の諸状態」が神経機構の法則もしくは連合の法則に従って語を呼び起こすことになり、したがって語はその意味も内的な能力ももつことなく、客観的な因果の戯れによって呼びさまされる、心的、生理的、いや物理的とさえいえるひとつの現象、他の諸現象と並ぶ一つの現象にすぎないからである。呼称に範疇的作用を重ねたからといって、事情は変わらない。語は依然としてそれ固有の効力を奪われている。なぜなら、このたびは語は内的な再認の外的な記号にすぎないし、この内的な再認は語が伴わなくても成立することが可能であり、したがって語はそれに何の貢献もしていないからである。語の背後に範疇的作用があるのだから、それは意味を剥奪されてはいない。しかしそれは意味をもってはいない。所有してはいないのだ。意味をもっているのは思惟だけであり、語は依然として空虚な外被にすぎない。それは単なる調音的・音声的現象にすぎないか、あるいはこの現象の意識にすぎない。しかしいずれにせよ言語は思惟の外的付随物以上のものではない。第一の考え方は有意味なものものとしての語の手前にとどまっている。第二の考え方はその向こう側に立つ。前者には語るひとというものがなく、後者には、なるほど主体はあるが、これは語る主体ではなく考える主体である。言葉そのものに関しては主知主義は経験主義と殆ど変わらない。そしてこれと同様、自動現象による説明なしですますことはできない。範疇作用がいったんおこなわれても、それをしめくくる語の発言ということが、依然として説明されねばならない。語は生気のない単なる外被だから、この説明は再び生理的、もしくは心的メカニズムによることになる。それゆえ、語は意味をもつという単純な注意によって、経験主義と同じように主知主義も超えられる。】

    ここんところを見ていく

    「意義」なんだけど、コトバンクで調べたら、
    @ 言葉などの表現によってあらわされる意味、内容。
    A 言葉、事柄、行為などが現実にもつ価値。ねうち。多く、重要なものをいうのに用いる
    ってあった。
    わたしのばあい「意味」っていうのを〈概念・価値・理由〉をまとめてそう呼んでるから、わたしのうちでは「意味」のうちに「意義」を含めて見ている。

    ここでも経験主義と主知主義の、メルポンの見えが書かれてあるけど、わたし経験主義、主知主義のがそうなのかわかんないから、これは横においとくとして、メルポンのを見つけだすことにする。

    【第一の考え方】は【経験主義的もしくは機械的心理学】、【第一の考え方】は【主知主義的心理学】のことだと思う。

    長くなりそうだから分けて
    つづく

引用返信/返信 削除キー/
■20334 / inTopicNo.3)  Re[92]:   ふと
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/01/09(Sun) 11:36:29)
    No20333のつづき、

    いま「言葉」を問題としてるから、

    X=言葉
    a「言葉を“対象として”見る」という仕方
    b「言葉を全体性のなかにおいて見る(ゲシュタルト的見方)なかで、“言葉そのものうちで”見ようとする」仕方

    ってなる。
    メルポンのはbの方でだと思う。科学的思考はaに入るんかな。
    「言語学」は、コトバンクによると〔人間言語を対象とする科学的研究〕って書いてあるから、aになるんだと思う。

引用返信/返信 削除キー/
■20333 / inTopicNo.4)  Re[91]:   ふと
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/01/09(Sun) 09:53:12)
    メルポンのわたしので、ふと思ったのを、

    X.
    a「Xを“対象として”見る」という仕方
    b「Xを全体性のなかにおいて見る(ゲシュタルト的見方)なかで、“Xそのものうちで”見ようとする」仕方

    このような区別、メルポンのわたしにが浮かんできてる。
    bの「全体性」っていうのは、生活世界の、私の生において、実存私の世界との素朴な触れ合い――etre au monde――世界における(への)存在――という全体性のなかで、って、こんな感じの。

    ことわっておくけど、このように区別すること、どちらの方法がいいかわるいか、っていうことじゃないからね。志向のちがいが見えただけ。

    「ゲシュタルト」なんだけど、
    メルポンは『行動の構造』のなかで、
    【もっとも、問題は、多くの仮説のなかからあえて一つの仮説を試みることにあるのではなく、一つの新しいカテゴリー、「ゲシュタルト」というカテゴリーを導入することにあるのであって、それこそは無機物の領域にも有機体の領域にも適用されて、生気論的仮説をかりなくても、神経系のなかに「横の機能」−―すでにウェルトハイマーが述べており、また観察によってもその存在が確かめされている――を出現させうるものなのである。というのは「ゲシュタルト」や特に物理的系というものは、孤立した諸部分がもつ特性の総和とは異なる特性をもった全体的過程として――もっと正しくは、その諸「部分」をひとつひとつ比較すれば、それらは絶対的な大きさにおいて異なっているにもかかわらず、全体としてみれば相互に区別できない全体的過程として、言いかえれば、〈移調可能な全体〉として――定義されるからである。たったひとつの部分に変化がおこってもそのたびみ系全体の特性が変わるとか、また反対に部分がすべて相互に同時に関係を保ちながら変化するばあいには、系の特性もそのまま維持されてるところには、どこでもゲシュタルトが存在すると言われよう。この定義は、神経現象にふさわしいものである。これまでみてきたように、そこでは反応の各部分を部分的条件に帰することはできないし、また一方では求心的な興奮相互のあいだに、他方では運動流相互のあいだに、そしてさらにそれらの両者のあいだにも、相互作用や内的連関があるからである。】
    って言ってる。

    コトバンクで「ゲシュタルト」は、
    〇 (Gestalt 「かたち」の意) ゲシュタルト心理学の基本概念。部分からは導くことのできない、一つのまとまった、有機的・具体的な全体性のある構造をもったもの。形態。
    〇《形態・姿などの意》知覚現象や認識活動を説明する概念で、部分の総和としてとらえられない合体構造に備わっている、特有の全体的構造をいう。形態。
    〇…たとえばメロディを1オクターブ上げても同じ感じを抱くように,〈要素の単なる結合ではなく,それとはある程度独立した新しいもの〉,すなわち〈形態質Gestaltqualität〉の存在を指摘した。[ゲシュタルト心理学]より
    こんな感じの。なんか「構造主義」に関連してる感じ。

    忘れないうちにと思って。


引用返信/返信 削除キー/
■20326 / inTopicNo.5)  Re[90]: メモ
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/01/08(Sat) 20:20:44)
    ここまでのをメモっとく。

    1.話すこと(表現すること)によって私の思ってることがはっきりする、ということ。
    2.話す主体が存在している、ということを忘れないようにしとくこと。
    3.あと、メルポンは、
    【言語の最初のおもかげを探し求めるとすれば、与えられた世界に人間的な世界を重ねる情緒的な身振りのなかに求めねばならないだろう。】って言ってるから、言葉という身振りには情緒も含まれてるっていうこと。


引用返信/返信 削除キー/
■20324 / inTopicNo.6)  Re[89]: メルポンの
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/01/08(Sat) 17:51:40)
    次に書き写すところは、経験主義と主知主義の「言語についての考え方」について、メルポンから見て、と思われるところね。

    【言語の所有は、まず第一に「語心像」(inages vericales)の、つまり発音もしくは聴取された語がわれわれのうちに残した痕跡の、単なる事実的存在として理解される。この痕跡が身体的なものか、それとも「無意識的な精神活動」のなかに沈殿したものかということは、大して問題ではない。いずれの場合にも「話す主体」が存在しないという点では、言語についての考え方は同じことである。刺激が神経機構の法則に従って、語の調音(articulation)を惹起する力をもった興奮を生じせしめるにか、それとも意識の諸状態が、既得の観念連合によって、適当な語心像の出現を促すのか、いづれにしても言葉(パロール)が第三人称的な回路のなかに置かれ、話すひとというものが存在せず、語を支配するところの語る志向が全くないのにひとりでに語の流れが生ずる、という点には変わりない。語の意味は、語によって命名されるはずの刺激もしくは意識の諸状態のうちに与えられている、と考えられる。また語の音声上、調音上の形態は、脳髄もしくは精神における痕跡のなかに与えられている。言葉(パロール)は一つの行動ではない。それは主体の内的な諸可能性を表明するのもではない。人間が話すことができるのは、電燈が白熱状態になることができるのと同じことである。選択的な障害、つまり話された言葉は理解できないが書かれた言葉は理解できるとか、話はできるが書く方が駄目というような障害があるし、それにまた言語活動(ランガージュ)が断片的に崩れていくことのあるのだから、それは一連の独立した出資分から成り立っており、一般的な意味における言葉(パロール)なるものは、思考の産物にすぎないとも思われる。】

    これを簡単に見ちゃうと、

    1「話す主体」が存在しない
    2言葉(パロール)が第三人称的な回路のなかに置かれ、話すひとというものが存在せず、語を支配するところの語る志向が全くないのにひとりでに語の流れが生ずる。
    (ここに「第三人称的な回路」ってあるけど、これほかのところで「第三人称的な運動現象」「第三人称的な過程」とも表現もされてる。)
    3言葉(パロール)は一つの行動ではない
    4主体の内的な諸可能性を表明するのもではない
    このようにメルポンは経験主義・主知主義の言語についての考え方を見てるんだと思う。
    経験主義・主知主義のがそうなのかはわたしわかんないけど、

    これから逆にメルポンのを見て見ると、
    1語る主体が存在する。
    2言葉は、話すひとというものが存在するのであって、話すひとが語を支配し、その人の志向があるのであって、言葉は第三人称的な回路のなかに置かれるものではない。
    3言葉は一つの行動である。
    4言葉は主体の内的な諸可能性を表明するものである。
    このようにメルポンは「言葉(パロール)」を見ているんだと思う。

    パロールにおいては、ふつう「話す主体が存在している」し、「話す(あるいは書く)」っていうのは身振り(運動)よね。これないと「言葉」とは言えないんじゃないかしら?

引用返信/返信 削除キー/
■20321 / inTopicNo.7)  Re[88]: 「言葉の現象」
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/01/08(Sat) 15:59:51)
    お正月休みに考えたの、この連休に振舞っちゃおうかな。

    No20271で、
    【言葉(parole)の現象】って言ってる。あと他のところで【「語る」(パロール)という現象に立ち返り】とも言ってる。
    で、ちょっと思ったんだけどね、

    No11201からの、ハイデガーのを見たように、
    現象学で言う「現象」phenomenon(ファイノメノン)っていうの、「おのれを示す当のも」っていう意味で、「現象学」は、「おのれを示す当のものを、そのものがおのれをおのれ自身のほうから示すとおりに、おのれ自身の方から見えるようにさせるということ」。
    だった。

    だから【言葉(parole)の現象】っていうの、「言葉の、おのれを示す当のもの」っていうことになる。これって〈言葉そのもの〉とも見れる。

引用返信/返信 削除キー/
■20319 / inTopicNo.8)  Re[87]: ちょっと戻って、「表現すること」
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/01/08(Sat) 14:23:16)
    No20262はWのなかの【言語は思惟を予想するのではなく、それを成就する】(a)と題してあるなかのを一部抜粋したもので〜す。
    カントのことはよくわかんないから、そこんところは横に置いといて、

    (a)のほかのところで、メルポンは、
    【何を書くのやら自分でもしかとわからずに本を書きはじめる多くの著述家たちが示すように、思惟する主体がその思想を自分に向かっていい現わし、あるいは実際に言ったり書いたりしないかぎり、彼自身でも自分の思惟については無知なのはどうしてか】って言ってる。

    思惟は表現に向かう。思惟を言葉で“表現する”ことによって、思惟は成就する。
    こんな感じかな?

    メルポンのわたしの、

    私に〈思われたもの〉が、私に”対して”存在するようになるのは、〈それ〉を「表現すること」によって。
    そして私が「表現したもの」(私に思われたもの)は、私の前に提示され、それを私が見る。っていうこと。
    これによって私に思われたものは達成される。

    Wでは「言葉」を問題としているから、「言葉によって表現する」っていうことになるんだと思う。

    私に〈思われてるもの〉は見えないもの。それを言葉で表現(言ったり、書いたり)することによって、私に見えるようにすること。私によって「表現されてるもの」は、私に感-知覚され、それを私(自己)が見る、っていうことよね。これって「経験する」っていうことよね。ん〜ん、「感-知覚する」こと、これって「経験する」っていうことよね。
    だから、メルポンは【思惟することも実際の一つの経験であると答えることができる】って言ってるんじゃないかしら。

    いまわたしがこうしてること、これがこれね。
    でもまだわたしに思われたものを上手に言葉で表現できてない感じ〜。未成就。

    ニーチェクラブでいろんな人が自分の思ってること(正確には他人の私のだと思うけど)をいろいろ書いてるよね。これって、こういうことをしてるんじゃないかしら。
    前に、
    No11343で、「表現すること」についてちょっと書いたけど、それちょっと想い出した。

    簡単に見ちゃうと、
    「私の思考は話すこと(表現すること)によって完成する」
    「私の思考は話すことによって私のものとなる」
    「自己はそれを表現することによって自己を知る」
    こんな感じになる。

    あ、あとメルポンは【語るということが考えることなのである】とも言ってる。


引用返信/返信 削除キー/
■20314 / inTopicNo.9)  Re[86]:  身振り
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/01/07(Fri) 21:09:35)
    メルポンのわたしの

    わたしの使う「身振り」の意味をもういちどね。

    No11255に書いたけど、
    メルポンの『LA STRUCTURE DU COMPORTEMENT』の訳書は『行動の構造』って訳されてて、
    [comportement]はフランス語だった。フランス語-日本語辞書で調べたら、
    「行動、行儀、振舞い、動作、言動、所作、物腰、挙動、行動パターン、・・・」
    って、いろいろ訳されてる。こういうのって、「身体の表現」って見ることもできるよね。

    心理学では〈言語・行為・表情・仕草・生理的変化〉をまとめて「行動」って呼んでるみたい。生理的変化っていうのは、たとえば、暑いとき汗をかいたり、具合が悪くて顔色が悪いとか、みたなことなんだと思う。

    わたし〈身体は、感じ、表現するもの〉って見てるんだけど、
    「身体の表現」を「身振り」とか「振舞い」ってして、
    「身振り」を〈言語・行為・表情・仕草・生理的変化〉って見ることにしてる。

    「言語」も身振りのなかに入れてる、っていうことになるんだけど、メルポンのを読んでると、もうちょっと積極的に〈言語=身振り〉っていう感じなのね。あ、メルポンのばあい、「言葉」(パロール/音声言語?)を見てるようだから〈言葉という身振り〉っていうことになるのかな。

    メルポンは【身体は自然的な表現の能力である】って言ってる。
    やっぱ、〈身体は自然的存在〉かな。そして、〈身体は感じ表現する自然な能力〉って見ることにした。

引用返信/返信 削除キー/
■20309 / inTopicNo.10)  Re[85]: 言語 
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/01/07(Fri) 19:25:31)
    ここでわたしの書いとく。

    わたし「言語」っていうの簡単に見ちゃって、
    a.音声言語-----喋る・口語/聞く・聴語
    b.文字言語----書く・書語/見る・視語

    乳幼のころの言語はaの方ね。文字言語は学校に行ってから“教わる”のかな。
    乳幼私はまず生活世界のなかで言葉を覚えてゆく。ラング(ある言語社会の成員が共有する音声・語彙・文法の規則の総体)をわざわざ教わらなくても“自然と”できちゃうんだとわたし思うんだけど。

    メルポンは「言語の起源」を、原初的な〈言葉のざわめきの下〉と〈それを破る身振り〉に見ようとしてるみたい。

    ここでのわたしのお喋りはbによってね。

引用返信/返信 削除キー/
■20308 / inTopicNo.11)  Re[84]:  ちょっと戻って
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/01/07(Fri) 18:14:42)
    No20237の(訳注81)なんだけど、

    No20244の〔本章の冒頭〕っていうのは、
    No20271の(抜粋1)のところね。

    そして〔原注第一部170〕は、
    〔「持つ」ことと「ある」こととの区別はG・マルセル氏(Etre et Avoir)のそれを排斥するものではないが、それと一致するものでもない。マルセル氏は、所有(私は家屋を持つ、私は帽子を持つ)という関係を表すときに「持つ」という語に与えられる弱い意味に、それをとっている。そして「ある」という語を一挙に、「‥‥においてある」(etre a ‥‥)あるいは「引き受ける」(assumer)(私は私の身体である、私はわたしの生である)という実存的な意味において用いている。私はむしろ、物としての存在もしくは述定機能(このテーブルはある、もしくは、大きいものである)という弱い意味を「ある」という語に与え、「持つ」という語で、主体と主体とが自己を企投するものとの関係(私は一つの考えをもつ、私は欲求をもつ、私は恐れをもつ)を表すことにしたい。そこからすると、私のいう「持つ」はマルセル氏の「ある」にほぼあたり、私の「ある」は氏の「持つ」にほぼあたることになる。〕
    (etre a ‥‥)の[e]の上の[^]と、[a]の上の[、]は省略してあります。
    です。

    訳者の[voir]と[etre]の訳し方についてだと思う。メルポンのは[etre]の方で、これを「持つ」――「…においてある」「引き受ける」という実存的な意味――と訳してるんだと思う。だって、etre au monde−―世界における(への)存在
    だから、【「持つ」(avoir)】【「ある」(etre)】ってなってるけど、逆の意味っていうことになるのかな。
    「もっている」って訳されてるところはこのような意味として見る必要があるのかも。

    あ、ここらへんはこの本読んでない人にはどうでもいいことだけど、わたし用に書いとく。

引用返信/返信 削除キー/
■20293 / inTopicNo.12)  Re[83]:  わたしの
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2022/01/05(Wed) 19:54:38)
    「理論」って、なんか堅苦しそうで、感心ないし、苦手だし、わたしにとってあんまり意味ない。

    ここでのわたしのはね、哲学者の訳本を読んで、その哲学者が言ってることを知りたいだけ。

    ちょっと書いちゃうね。

    ある哲学者(A)の書いた本(A本)があるよね。そしてその哲学者のを解説?している人(B)が書いた本(B本)があるとするよね。
    でね、わたし最初(B本)から入ったんだけど、でもそれって〈AのBの〉よね。だからわたし(A本)を読んで見よと思ったのね(訳本だけど)。
    〈AのBの〉じゃ〈Aの〉にならないのね。
    わたしが知りたいのは”その哲学者が”言ってること、って思ってるから。
    (厳密にはわたしが読んでるのは訳本だからそうじゃないんだけどね)

    ここのタイトルは「What do you want to do ?」
    このごろのわたしの物語りの「you」は「メルポン」っていうこと。

    わたしほかのレスにお邪魔することあるけど、そのときのyouはその人ね。

    合理的であること、論理的であること、誰かにされっちゃってません?
    こういうのって、etre au mondeにおいては”無理”があるのよ。
    わかりやすくいうと、了見セマ〜、っていうことね。






引用返信/返信 削除キー/

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