| 時さん いつものごとく、長大になってしまいました… お許しあれm(__)m
>ご丁寧に、論理の基礎の基礎であろう事柄のご説明をありがとうございます。
>論理的命題(恒真命題・恒偽命題)の恒真命題はトートロジーであり、恒偽命題はあり得ない設定ということで、論理的命題は排除ということですね。残るのは経験命題であり、論考で言われる「語る」言語は、二値での判断となる経験命題のみということだと理解しました。 >少し調べてみましたが、分析哲学では、分析命題、経験命題、価値命題等に分類されるのでしょうか。もはやこの時点で、頭ぐるぐるです。やはり専門分野は、当たり前ですが、専門的な表現での分類や定義があるのですね。
>「分析哲学では、分析命題、経験命題、価値命題等に分類される」
このような分類がなされるようになったのは、『論考』がもとになっており、その影響を受けた論理実証主義という学派の人たちが、この分類を理論的基礎に据えました。 アプリオリかつ分析的命題として論理的命題と、数学的命題。 真偽を検証可能な経験命題。科学的命題はこれ。 宗教的命題、形而上学的命題、倫理学的命題(べき命題)などは、上の両方に含まれないとされました。つまり、経験的意味内容のない命題とみなされたわけです。 それで、形而上学的命題は論理命題でもなく、検証不可能だから経験内容のない無意味な疑似命題にすぎない,みたいに,ヘーゲルやハイデガーの文をとりあげてバッサリやったので、伝統的哲学(大陸哲学)と分析哲学の間に溝ができてしまったんです(笑) しかし、こういった分類は古いもので、哲学の常ですが、こんな形に命題をきっちり線引きすることは不可能として批判され、そちらのほうが今ではアカデミズムでは定説です。なので、今は論理学の教科書で、こういった説明はあんまりされないと思います。ただ、直感的にわかりやすいので、哲学系の論理学の教科書では説明として用いられている場合もあるかもしれません。 なので、ストレートにこういった観点に立って説明を行っているのは、今でも手に入る本では、半世紀以上前に書かれた 沢田允茂『現代論理学入門』(岩波新書) くらいではないかと思います。 **************
>> 言語によって、(全体としての)世界の存在を語ることはできません。 >> 世界の存在、すなわち「世界は存在する」は、論理的真理として前提されます。 >> 逆に、「世界は存在しない」という命題は恒偽命題(論理的にありえない)となります。 >> つまり、「世界は存在する」という命題は、偽の可能性が存在しないので、真でしかありえないことになり、いわば「独身者は結婚していない」と同様に、何も語っていないことになります。すなわち、経験的内容を欠いている(カント的に言うと、アプリオリかつ分析的真理)のです。
>ここでお尋ねしたいのですが、上記の「世界は存在する」は、論理的真理として「世界は存在しない」は、恒偽命題として前提しているのは理解できますが、ここでいう「世界」と「存在」の定義的なものは何かあるのでしょうか?ここでいう「世界とは」「存在とは」ということですが、この辺りは、一般的な当たり前の理解とすることを前提としているということでしょうか?
>ちなみにですが仏教では、世界という表現はされていますが、その明確な定義記載はないようです。代わりに、世間(苦が生起滅尽すると認識された世界や五妙欲の世界、無色界の非想非非想処まで)とか、一切(眼と色、耳と声、鼻と香、舌と味、身と触、意と法)といった記載があります。ここで勝手に定義するならば、世界とは一切である。ではいかがでしょうか?
『論考』では、冒頭第一命題で「世界」は下記のように定義されています。 (ただし、実情であることがら(事実)=真なる(経験)命題が語ることがら)
1. 世界は実情であることがらの全てである 1.1 世界は事実の全体であり、ものの全体ではない。
>仏典内で存在すると説かれるのは、無常なる五蘊(色蘊・受蘊・想蘊・行蘊・識蘊)であり、存在しないと説かれるのは、常住なる五蘊(色蘊・受蘊・想蘊・行蘊・識蘊)です。ここで勝手に定義するならば、存在とは変化(無常)である。ではどうでしょうか? >ですので「世界は存在する」は、「一切は変化(無常)である」になり、「世界は存在しない」は「一切は無変化(常住)である」になりそうです。どちらにしても当たり前ですので、論考でいうところの論理的命題になりますね。
ここはちょっと違いますね。 『論考』の想定する命題言語では、「存在」はいわば無定義概念で、見たことあるかもしれませんが、存在記号「∃」で表されます。 で、この記号で表されることは同じなんですが、それが登場する命題によって、意味は異なります。 「世界は存在する」を意味する場合は論理命題として登場し、これはこの言語世界においては根本前提となる条件ですから、むしろ世界がいかに生成変化しようと、それが世界であるかぎり世界としての同一性を保つ不変の形式とみなせるかと思います。 しかし、世界内における事実の存在を記述する経験命題として登場する場合は,要は「事実の存立」を意味しますので、解釈によっては「現象(表象)の立ち現われ(生成)」という捉え方も可能かもしれません。
>ここで私がよく理解できないのが、もしもその当たり前の「世界は存在する」という論理命題が「一切は変化(無常)である」ならば完全に理解に至れるのですが、ここでご説明していただいている論理的真理としての「世界は存在する」というのが何を根拠にして論理的真理としているのかが理解できないのですね。
論理的真理を何か絶対的真理・自明の真理のようなニュアンスでとらえてはいないでしょうか? それで、いやいや、なんでそれが真理と言えるんや?って疑問がわくのでは? そうではなく、むしろ、SumioBabaさんとよく話した公理のようなもので、「キーパーだけはボールを手に持ってよい」がサッカーを成立させるための規約であるのと同様に、あくまで、命題ゲーム(語り)を可能にするために置かなければならない前提です。 ただし、この世界を語るという目的をもった命題ゲームを構成するためには、どんな前提であってもよいわけではありません。 この前提を命題ゲームの前提として正当化するのは、まさにこの前提を置けば実際にきちんと世界を記述でき(目的実現)、逆に、この前提が満たされない場合は言語が不可能(目的実現不可)である、という事実であることになります。 前回、次のように言いましたね。
> というわけで、世界全体の存在は、言語が成立するため、何事かを語るための条件、限界なのです(そもそも一切何もない(無)なら語りは不可能)。
これをもう少し具体的に敷衍して説明しましょう。 例えば、私が視覚能力を有さないと仮定した場合、私の視覚世界は存在しないということになりますね。 そうすると、このとき、私の視覚世界を記述する言語(視覚像言語)は不可能です。 私が私の視覚像言語を有するためには、何らかの視覚的対象、あるいは何らかの視覚表象が存在する、つまり、私の視覚世界が存在しなければなりません。それらが一切存在しなければ、何も語りえない、ということを意味するでしょう。この意味で、世界の存在は言語の前提だということです。
>屁理屈をこねまくりでしょうか(笑)
屁理屈上等、「屁理屈言ってこそなんぼ」っていうのが分析哲学です^^ 却下しましたが、私が最初候補に挙げた自分のHNは「ヘリクツ大王」でした(笑) ************************** >しかし、人間に認識できる出来ないにかかわらず、例えば見ている景色の山という色は常に変化し続け、空も雲も、飛ぶ鳥も、小川等々もすべて常に変化していますし、それを見ている側の私の眼球も視神経もシナプスも常に変化し続けていますね?一切は無常ならですが。同時に同じ富士山と呼称される山という色を、同じ地点で同じ時に同じものを見て認識しているという存在はないはずです。間違っていますかね?ご指摘いただければ幸いです。変かもしれませんが、この辺りが哲学という分野での以前よりの大きな疑問でした。どのようにザビビのふくろうさんがお考えなのかを、よろしければ教えていただければと思います。
おっしゃっていること自体は,間違ってはいない,と思います。 つまり,デカルト的な自我と同様,世界の構成要素としての実体は恐らく仮象に過ぎないでしょう。 しかし,時さんがこのような問いを用いてご自分の問いを語るとき,これは日常言語でなされています。この言語は,いわゆる素朴実在論を前提とした言語です。つまり、「空も雲も、飛ぶ鳥も、小川等々」も、心もまたその存在を前提されています。 この言葉が成立するためには,先ほど述べたように,物と心に充ちた素朴な世界の存在が語りの限界として前提されていなければならないわけです。 世界の限界としての私も,実体のない形式であるとしても,世界成立の条件として「私=私」という不変的・形式的同一性として成り立っていなければなりません。 そうでないと,「変化」すらも語りえなくなり,そもそも時さんの問い自体,なしえないことになります。 おなじみかもしれませんが,次の例で説明しましょう。 スクリーンに映写機により映し出される飛翔する一羽の鳥の映像を考えます。 このとき,一羽の鳥が羽ばたいているということは,すなわち数的同一性を保った時空内存在が変化し続けている,ということでしょう。 しかし,この映像のもとであるフィルム上には,単に別々の写真が並んであるだけです。このフィルム上には変化はありませんよね。ただ,たんに別々のものがあるにすぎないわけです。 つまり,この写真の別々の鳥の像が,スクリーン上に動画映像として映し出され、それが同一の鳥の像として把握されることによってのみ,「一羽の鳥が飛んでいる」という事実として語ることが可能になっているのです。 つまり,言語は,「同一存在の状態変化」という形式の記述なくして,世界を記述することはできない,ということです。 いわば「生成変化」とは,「同一のものの生成変化である」ということです。 再度,時さんの言葉を書きます。 「見ている景色の山という色は常に変化し続け、空も雲も、飛ぶ鳥も、小川等々もすべて常に変化しています」 この文は,明かに,山も空も雲も鳥も小川も,実体ではないにせよ,これらの存在の形式的同一性を前提としてその変化を語っているのです。理解してもらえますかね? それゆえ,私たちが言葉を用いて論理的に考えるとき,べたな喩えになりますが,どこまで行ってもお釈迦様の掌の上から出られないごとく,不変の形式的同一性を有した実在世界の外には出られません。いわば,いつでもどこでも世界はある,のです。
それゆえ、言語において、世界の存在を否定することは論理的に不可能であり、意味を欠きます。 ですから、現在ここで行っている言語的・論理的・形式的考察ではなく、現実の私の現象世界を論じる場合も、けして世界の存在を否定することはできません。 そこで、フッサールは、この自然的態度(素朴な実在前提)の「実在」を前提するのをさしあたりやめて、しかしけして否定するのではなくあくまで中断・保留(エポケー)して、この「実在」というものがいかに成立しているかということを考察する方法、すなわち「超越論的的還元」という方法を確立したのです(あとは省略しますね(笑))。
ところがどっこいです(笑) あと,簡単に書きますが,この世界の限界である論理を越える言葉,つまり,たとえば命題言語ではない詩的言語であれば,命題言語の記述する世界(単なる事実の全体)の限界を越えてその外側へと到達することができるんですね。ただしその場合でも,日常言語そのものを前提にした上ですが。 また,逆に,というか,詩的言語のように,日常言語(命題を含む)の成立を前提した上でそれを越えていくのではなく, 仮に,そもそもその世界の限界,その存立の条件である不変的形式(私=私,過去・現在・未来という「時の形式」etc.)が成立しなくなったなら,それはいわば,私と他者,此岸と彼岸の境界,現実と非現実,etc.といった世界の限界が消失することを意味し,精神病理学的にいう「統合失調症」あるいは「離人症」といった精神世界が出来すると考えられます。と言うより、世界が成立しなくなる、と言うべきかもしれませんが。 それは,先に少し触れた超越論的還元(現象学的還元)という方法を応用した現象学的病理学――現在では「臨床哲学」と呼ばれてもいます――が明らかにしています。 つまり,世界の存在も,A=Aという同一性も,「時」も、語りの前提ではあっても絶対的真理ではなく,成立する保証はありません。 あくまでその成立は前提にすぎないとも言え,したがって,ある意味,簡単に壊れてしまいうる,ということですね。
*********************** >> というわけで、世界全体の存在は、言語が成立するため、何事かを語るための条件、限界なのです(そもそも一切何もない(無)なら語りは不可能)。 >一切(眼と色、耳と声、鼻と香、舌と味、身と触、意と法)が何もないならば、何も語ることはできませんね。ですので一切の存在は、言語が成立、何かを語るための条件であり、それが限界であるということですね。理解できます。 >> そしてこのことは、「世界は存在する」という命題が論理的真理であることによって示されています。 >> 要は、世界の存在は語られるものではなく、示されるものである、ということです。 >> また、言い換えると、世界の存在は語りえない、ということです。 >「世界は存在する」を「一切は無常」に変換してみますと、なるほど語りえませんね。 >> したがって、逆に、語りうる「存在」は、世界(時間空間)内の存在者が、いついつ、どこどこにある、ということに限られます。 >> そうすると、日常的にとらえられる自分、私については、世界内に他者と共に存在する一存在者であり、たとえば「私は今、京都の龍安寺にいる」と語ることができます。つまり、この文は真偽の両方の可能性があって、本当かどうかは確かめてみなくてはわかりません。 >> したがって、この私は「語りうる私」です。
>ここの解釈として、私という存在を一瞬でも常住的なもの=日常的にとらえられる自分(世界(時間空間)内の存在者が、いついつ、どこどこにある)としたのであれば、それの真偽が他者によっても二値で確かめられるということですね。この場合に「語りえない私」から「語りうる私」に至るという理解でよろしいでしょうか。
これはむしろ逆で、ハイデガー的なんですが、我々はだれしもまずは日常世界のうちに自己があるもの(世界内存在)として捉えているはずです。 私は私とともに世界の中に他者と共にあり、日常言語を語る存在者の一人であり、けして最初に世界=私であるような自己として捉えているわけではないはずです。でないとそもそも日常生活が成り立たないわけで。 我々が自己=世界ということに気づくのは、先ほど述べた超越論的還元や、ハイデガーが言う「死の不安」によるといったときではないでしょうか。 日常では私の死は他人の死と同じ世界内の一事象にすぎず、たとえ死んでもこの世界は存続すると思われます。だから、人は生命保険も考えます。 しかし、自己が死ぬということを不安とともに意識するとき、 私の死=私の世界の終わり に気づくのではないでしょうか。 このとき、ふだん前提して疑っていない自分の世界の「存在」が、何ら保証のないものとして顕われてきて不安に陥るわけですが、 この不安は、日常感じるような世界内の一存在者(例えば狂暴な犬)に対する恐怖とは異なり、いわば「世界全体の存在に対する不安」であるわけです。 ふだん意識しないようにしてはいたけど、否応なく、この前提には何にも保証などないと気づいてしまうってこと(うすうすわかっちゃいたけど)。 だから、むしろ「語りうる私」から、「語りえぬ私」へと立ち還る、と言ったほうがいいと思います。
**************** >> それに対して、『論考』で言われる形而上学的主体としての私というのは、 >> 私=世界 >> が成り立つものです。 >> で、先ほど世界の存在は語りえない、と先に述べました。 >> ゆえに、形而上学的主体としての私の存在も、語りえないのです。
>仏教の思想に照らしての今までの私の理解が正しいのであれば、理解できそうです。
>> 私が表象する(語る、思考する、知覚する)とき、私は私の表象そのものであって、表象する主体(実体)ではありません。
>常住的な私(語りうる私)の場合には、その二値での真偽判定ができ、私が表象する(語る、思考する、知覚する)ときには、私は私の表象そのものであって、表象する主体(実体)ではなくなるということでしょう。
>> そして世界が私の表象であるなら、当然、私は世界である、ということになるわけです。
>「世界が私の表象であるなら、当然、私は世界である、ということになる」というのは、理解できそうですが、しかしここでの「私は世界である」は、誰の言葉なのでしょうか?(笑) >世界が私の表象であるならば、私は世界であるので、その私は何も語れないのではないでしょうか? >この場合語っているのは、常住的な私(語りうる私)ですね。
「>世界が私の表象であるならば、私は世界であるので、その私は何も語れないのではないでしょうか?」 というのはどうしてでしょうか?
>この場合語っているのは、常住的な私(語りうる私)ですね。
そうではないんです。 例えば、 私は語る =私は言葉を語る として、これを、次と類比してみてください。 稲妻は閃光を放つ
言葉もまた、私の表象なのです。 つまり、 私は私の言葉である ということです。
あれれ? 到達してしまいましたね^^ 誘導尋問?(笑)
|