□投稿者/ ザビビのふくろう -(2021/11/09(Tue) 00:17:11)
| pipitさん、レスありがとうございます。
■No18574 >> 私はカントについて責任をもって言う自信はありません。 >> それを前提で言いますが、 >>たぶん、pipitさんのおっしゃるとおり、「限界」という概念については、基本的に同様なものとしてもよいのではないでしょうか。 >> 「純粋な悟性的存在者の領域」というのは、ウィトゲンシュタインの言い方では、「超越論的」な領域、ということになるのではないかなと思います。<
>投稿した時点では、 >「純粋な悟性的存在者の領域」というのは、形而上学的領域とpipitは捉えていました。
>> そして、それは、語りえず、示されるもの(形式として)、とも考えたと思います。< >なるほどです、そういう捉え方もあるのか、と、思いました。 >カント事典での記述は形而上学領域かなと今でも思うのですが、 >カント事典切り離して、ふくろうさんの見解として話すなら、
>、、、わたしはウィトゲンシュタインのこと何も知らないので、とりあえずカントの形式から推測してみますね、
>超越論的領域、例えば時間と空間は、現れたものの形式としてしか表象されないように、 >形としてこの世界に生じる形式としてしか表れ得ない、かな、と思いましたが、
>全く違ったらすみません。 ***************** ふむふむ、面白いですね。 以下は、あくまで私の解釈、私見として述べますね。
世界の限界、条件にあたるものは、ウィトゲンシュタインによれば 世界のアプリオリな形式、であり、かつ、超越論的なるもの、と言ってよいと思います。 ただ、それらは、扱い方により、形而上学的対象であったり、そうでなかったりします。 あくまで現象を記述する上での表現形式としてそれが示されている場合、それは非形而上学的です。 しかし、その形式自体を対象化し、いわゆるメタ言語によって語った場合、それは形而上学的対象として扱われることになる、と思います。 自我、時間、空間、といったものはそのような意味で、形而上学的対象としても、そうでないものとしても扱われ得るものだと思います。 だから、可能性としてですが、カントの言う「純粋な悟性的存在者の領域」というのは、ウィトゲンシュタイン的に言えば、世界のアプリオリな形式を対象化(イデア化)して(メタ言語で)語るとき、その語りの空間としての形而上学的領域のことである、というふうに解釈できないでしょうか? 無理ありすぎ?(笑) でも、カントにとって、「絶対の私」のみならず、「絶対の今」、「絶対の此処」というのは、形而上学的対象ではないのかなあ?
pipitさん、沼の深みに突き落としたとしたら、許されよ〜
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