(現在 過去ログ2 を表示中)

TOP HELP 新着記事 トピック表示 ファイル一覧 検索 過去ログ

No18566 の記事


■18566 / )  Re[16]: 無我
□投稿者/ パニチェ -(2021/11/08(Mon) 21:03:55)
    こんばんは、みのりさん。レスありがとうございます。

    No18530に返信(みのりさんの記事)

    > ロムの方で、私(みのり)のように、ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』について何も知らない、という方もおられるかと思うので、パニチェさんが先日、私宛に引用してくださったものを先にまず記載します。
    > >『論理哲学論考』の以下です。
    > >
    >>************************************
    >>5.631 思考し表象する主体は存在しない。
    >>もし私が「私が見出した世界」という本を書くとすれば、そこでは私の身体について報告がなされ、またどの部分が私の意志に従いどの部分が従わないか、等が語られねばならないだろう。即ちこれが主体を孤立させる方法であり、むしろある重要な意味で主体は存在しないことを示す方法なのである。というのもこの本では主体だけが論じることのできないものとなるであろうからである。
    >>5.632 主体は世界に属さない。それは世界の限界である。
    >>************************************

    > 「主体は形而上学的主体であり、世界には属さない」。
    > そうか〜、形而上学的主体についてなんですね。

    そうです。

    > わからずにすみませんでした。

    いえいえ、とんでもない。

    > それであるなら、眼の位置から開闢する世界には主体は属さない、ということにもなりますよね?
    > そう言い換えられるものでいいのでしょうか?
    > その眼の位置から開闢する世界にある様々についての中には、自分と言われるものについての姿形などを含めてのあらゆる情報も含まれ(例えば、マッハ図のように)、属性について様々に言語表現はなされるが、その言語表現において、他者とは絶対的に違いのある自分という主体を語ることはできない、ということ。
    > 必ず頽落してしまうんでしたね。

    はい。私や永井均氏の論考の解釈(以下PN解釈と表記します)では上記の通りです。

    > 通常の感覚では世界に属すると考えられている主体(私がいる、あなたがいる、とか普通に言うようなこと)ですが、その、通常の感覚では世界に属するとも考えられる主体、それの本質を言語表現は不可能だということ(言い換えれば、世界には属さない)ということで、「形而上学的主体」と呼んでいる、と考えたのですが、こうしたことで合ってますか?

    はい、PN解釈として合ってます。

    > また。先日、パニチェさんとみのりとでやりとりした話で言うところの、「どこにあるここにあるとは明言することが不可能なもの(主体)」とも重なっていそうですね。

    その通りです。

    >>カニッツァの三角形はもともとウィトゲンシュタインとは無関係で有名な錯視の図です。
    >
    > そうなんですね。 ありがとうございます。

    どういたしまして。

    > 真ん中の透明というか浮き出される三角形は、『論理哲学論考』で「主体だけが論じることのできないものとなるであろうからである。」と書かれている、その形而上学的主体についてである、ということ。その喩えとしてパニチェさんが出された、ということですね。
    > これであってますか?

    はい、PN解釈として合ってます。
    少し補足すると論考で語りえないものとしているのは形而上学的主体の他にもあります。
    論考は言語と論理を世界の写像とした言語論を前提としてさまざまなことを述べていますが、写像が成立しない対象は語りえないということになります。
    あくまで上記は前期のウィトゲンシュタインの主張であり、後期には変わりますが。。。

    > 哲学上において、他についてはそもそも何も語れない、とウィトゲンシュタインは考えていて、自について語れるものをどんどんと語っていっても、形而上学的主体(主体といわれるものの本質)については語ることができない、というのを示す有効な手段、ということですか?

    そうです。

    > また。以前に、〈私〉についての説明を、パニチェさんがみのりにしてくださった際の手法もこのことと似ていますよね。 そのように感じました。

    言語表現が不可能なものを他者に伝えようとすると、回りくどいですがああいう手法しか私は思い浮かびませんでした。
    急がば回れ!^^;

    > なるほど。植木屋さん、小学校の教員になったりというのが、『論理哲学論考』を書いたあとになるんですね。

    そうです。

    > 言語ゲームは後期のものというのは、漠然と知ってましたが、それらもメモ書き、論文、講義ノートをもとに編集されたものから解説本として世に出ている、ということなのですね。
    > (このあたりは、先日、教えていただいた分と重なる部分もありますが、再確認の意味で文章化しました。ロムの方にもいいかな、と思い。)

    そうです。

    > ザザビのふくろうさんに勧めてもらった本が来たら、『ツァラトゥストラ』の合間に少しずつ読んでみようと思ってます。
    > 入不二基義『ウィトゲンシュタイン 「私」は消去できるか』(NHK出版)
    > パニチェさん的には、私が読もうとしている本についてどう思われますか?
    > 忌憚のない意見を、参考としてお聞きしたいです。
    > (あまりいいと思わない、ということであっても、読んでみようと思うに変わりはないので、率直な意見を聞きたいのです。 読んでないのでわからない、も含めて、よかったら教えてください。)

    悪くはないと思います。
    今なら以前はさっぱり分からなかった永井均氏の「ウィトゲンシュタイン入門」も読めるんではないでしょうかねぇ〜。

返信/引用返信 削除キー/


Mode/  Pass/

TOP HELP 新着記事 トピック表示 ファイル一覧 検索 過去ログ

- Child Tree -