□投稿者/ ザビビのふくろう -(2021/11/08(Mon) 21:40:29)
| 時さん お久しぶりです。 レスをありがとうございます。
>風と炎の譬えは良いとして「私は語る。→私は私の言葉である。」という流れに仏教思想との違いがあるように思います。
ここのご指摘ですが。 さすが時さんですね。 ここ、飛躍があります。 正確に書くと、
私とは、語り(語ること)そのものである。 ↓ 私は私の言葉である。
ここに飛躍がありますね。 『論考』解釈としても、整合しないとは思いませんが、解釈としての範囲は超えていると思います。 ではなぜ書いたのかというと、第一に私が単に書きたかったのと(笑)、 第二には、ここを突っ込んでくれる人がいるんじゃないかという、いわば釣りとして書いておいたんですよね。 理詰めに書くより、むしろこういう書き方のほうが直感的に響くんじゃないかと。 たぶん、引っ掛かりを覚えた人は他にもいらっしゃったと思いますが、突っ込んでくださったのは、旧知の時さんだけ、というオチになりましたね(笑) ひょっとすると、私の意図に気付いて乗ってくださったとか^^ まあ、それはともかく、「私は私の言葉である」についての説明までは届かないと思いますが、せっかく仏教の考えをご教示くださったので、『論考』の思想との比較を少し詳しく行ってみたいと思います。
先に、一応前提となる『論考』の言語観について述べておいたほうがいいかもしれません。 『論考』で言われる「言語」というのは、あくまで真偽二値の可能性をもつ文、すなわち命題(の全体)のことです。 また、それと相即して、「論理」もまた古典論理学と呼ばれる論理学が扱うものに限られます(仮に二階述語論理を含める場合も、2値論理)。 だから、例えば、SumioBabaさんの世界を記述する可能世界論理のような、非古典論理は全く念頭に置かれていません。 以下でいう「言語」とは、基本的に『論考』が前提する、このきわめて限定された意味での命題=言語を意味するものとします。
その上で、どうしても押さえておくべきことを述べます。 命題は、論理的命題(恒真命題・恒偽命題)と経験命題に分けられます。 例:経験命題:今、雨が降っている 恒真命題:今、雨がふっている、または、今、雨が降っていない 恒偽命題:今、雨が降っている、かつ、今、雨が降っていない このうち、『論考』で言われる「語る」言語は経験命題のみであり、これは真偽両方の可能性を有する命題です。 それに対し論理的命題は「意味を欠く」と言われ、恒真命題(同語反復命題=トートロジー)は真でしかありえない命題、恒偽命題(矛盾命題)は偽でしかありえぬ命題です。 経験命題の真偽は経験的検証によって定まります。 (今、雨が降っているかどうか実際に確かめて真偽を決定する) 対して、論理命題は経験的検証を必要としません。 (「今、雨が降っているか降っていないかどちらかである」、というのは実際に調べるまでもなく真でしかありえない。 「今、雨が降っていて、かつ、降っていない、というのは偽でしかありえない)、 これら論理命題の真偽は真理条件(意味)の計算(論理計算)によって定まります。いわば意味の計算により、論理的真理(恒真)、あるいは論理的矛盾(恒偽)は「示される(証明される)」のです。
で、以上の予備知識を前提にして、あとは論理学の記号式を書いて説明しても誰も理解できないと思いますので、 誤解を恐れず換骨奪胎、正確さは措いて直観的になるたけわかりやすく言います。 言語によって、(全体としての)世界の存在を語ることはできません。 世界の存在、すなわち「世界は存在する」は、論理的真理として前提されます。 逆に、「世界は存在しない」という命題は恒偽命題(論理的にありえない)となります。 つまり、「世界は存在する」という命題は、偽の可能性が存在しないので、真でしかありえないことになり、いわば「独身者は結婚していない」と同様に、何も語っていないことになります。すなわち、経験的内容を欠いている(カント的に言うと、アプリオリかつ分析的真理)のです。 というわけで、世界全体の存在は、言語が成立するため、何事かを語るための条件、限界なのです(そもそも一切何もない(無)なら語りは不可能)。 そしてこのことは、「世界は存在する」という命題が論理的真理であることによって示されています。 要は、世界の存在は語られるものではなく、示されるものである、ということです。 また、言い換えると、世界の存在は語りえない、ということです。
したがって、逆に、語りうる「存在」は、世界(時間空間)内の存在者が、いついつ、どこどこにある、ということに限られます。 そうすると、日常的にとらえられる自分、私については、世界内に他者と共に存在する一存在者であり、たとえば「私は今、京都の龍安寺にいる」と語ることができます。つまり、この文は真偽の両方の可能性があって、本当かどうかは確かめてみなくてはわかりません。 したがって、この私は「語りうる私」です。 それに対して、『論考』で言われる形而上学的主体としての私というのは、 私=世界 が成り立つものです。 で、先ほど世界の存在は語りえない、と先に述べました。 ゆえに、形而上学的主体としての私の存在も、語りえないのです。
私が表象する(語る、思考する、知覚する)とき、私は私の表象そのものであって、表象する主体(実体)ではありません。 そして世界が私の表象であるなら、当然、私は世界である、ということになるわけです。
実は、『論考』のもとになった『草稿』に、 「表象する主体は恐らく空虚な妄想だろう」 という言葉があります。 また、『論考』には次の主張もあります。
6.321 人間の魂の時間的な不死性、つまり魂が死後も生き続けること、それはいかなる仕方でも保証されてはいない。しかしそれ以上に、たとえそれが保証されたとしても、その想定は期待する役割をまったく果たさないのである。いったい、私が永遠に生き続けたとして、それで謎が解けるとでも言うのだろうか。その永遠の生もまた、現在の生と変わらず謎めいたものではないのか。時間と空間のうちにある生の謎の解決は、時間と空間の外にあるのである。
このように見てくると、やはり時さんがおっしゃったことと、かなり共通する部分があるように思われますね。
>私の知る仏教での「私」の扱いですが、「私は存在する・存在しない」のどちらかという二値での答えは説かれないようです。仏陀自身のことについての死後には存在するのかしないのかといった問いかけには無記(スルー)でした。なぜならば仏陀曰くの二値でのその答えは「涅槃や解脱に役立たないから」です。
ただ、これは良く知られたことなんですが、仏教思想に影響を受けたショーペンハウアーに、ウィトゲンシュタインがごく若い時期に影響を受けていますので、その意味では似ている点があっても何の不思議もない、とも言われそうです。 ************ 既に長くなったので、不十分ですが、あとは感想めいたことを幾つか。
>それともう一つですが、気まぐれさんには少しご説明しましたが、西洋の論理と東洋の論理は違うように思います。東洋思想を西洋論理では当てはめて理解はしにくいでしょうし、逆に、西洋思想を東洋論理には当てはめて理解はしにくいと思います。それをしようとすると、その洋の東西の思想体系でのそれぞれの答えらしきものが出ないだろうと思うということです。
というご指摘に関しては、今のところ、ちょっと留保したいですね。 西洋論理で迫れる部分だけでも、なんか面白い気がしますので。 日本で最初にウィトゲンシュタインの研究書を書かれた末木剛博先生も、『東洋の合理思想』その他の著作・論文で研究されており、昔読んだときは理解できなかったんですが、できればまた読んでみたいなと思っています。 また、たとえば時さんが説明してくださる仏教思想も、必ずしも西洋論理的な意味で「非論理的」には感じないんですよね。 だいたい、本来東洋論理的な思考であるはずの時さんも、SumioBabaさんや私の理屈に対して、むちゃくちゃ理解力ありますしね(笑) 実は、私は仏教系の著作を読むときは、特に西洋論理的批判的態度で臨むのではなく、 できるだけ、その仏教思想そのもののロジックを理解しようとしますので、仮に西洋論理が適用不可でも困りはしないんです。これは、分析哲学以外の大陸系哲学についても同じなんですが。 例えば、鈴木大拙が昔、ヨーロッパだったどこだったか忘れましたが、詭弁だと批判されたこともあったようですが、私自身はそんな印象を受けませんでした。 ただ、ご存じかどうかわかりませんが、石飛道子さんという方のように、西洋論理学を理解しないまま、仏陀論理は西洋論理を超えている、みたいに言う方がいらっしゃると、いやいやちょっと待ってよと言いたくもなるんですよね。
なんか、時さんのレスの応答になっているかどうか、わかんなくなってきましたので、このあたりにしたいと思います。 いつものグダグダ長い返信、申し訳ありません。 あとひとつだけ最後に。
>もしもザビビのふくろうさんが、長年にわたり熱心に仏教思想にはまっていたのであれば、その思想体系は解き明かされていたのではないだろうかと、ふと思う時があります。
いやいやいや、さすがにそれはありません(笑) いくら尊大ゴーマンな私でも、恐縮・縮退しすぎて点となり、存在論的に無化して消滅してしまいます。 でも、ありがとうございました。
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