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■15312 / inTopicNo.1)  ニーチェから読者へ
  
□投稿者/ パニチェ -(2021/07/31(Sat) 08:17:30)
    『私の読者に
     丈夫な歯と丈夫な胃
     私が君にのぞむのはこれだ!
     そうして君が私の本を消化してこそ、
     私と昵懇になれるのは必定!
     (悦ばしき知識 たわむれ、たばかり、意趣ばらし54)』


    『完全な読者というもののイメージを私が思い描いてみるなら、いつもきまって、勇気と好奇心の混じった一個の怪獣になる。さらにまた、何かしやかなもの、狡智に長けたもの、思慮深いものを備えている、生まれつきの冒険家であり発見者でもあるような存在になって来る。とどのつまりはこうである。要するに私がもっぱら誰に向かって語っているかは、かつてツァラトゥストラが次のように言った以上には、私にはどうやらうまく言えそうもない。つまり、ツァラトゥストラはもっぱら誰に向かって自分の謎を語り聞かせようとしているのだろうか。

    君たち大胆な探求家たち、実験者たちに向かってだ。狡智の帆を掲げて恐るべき海に乗り出したことのある者たちよ。──
    君たちの謎に酔い痴れ、薄明を喜ぶ者たちに向かってだ。君たちは笛の音に誘われてどんな迷いの淵にも誘き寄せられる魂の持ち主だ。
    ──君たちは臆病な手で一条の糸を探り探り歩もうとはしない人たちだからだ。
    そして君たちは推察することが可能であるような場面に来たら、推論することを憎む人たちばかりだからだ。〔ツァラトゥストラ 幻影と謎〕
    (この人を見よ なぜ私はかくも良い本を書くのか3)』
引用返信/返信 削除キー/
■15311 / inTopicNo.2)  Re[70]: Z 第一部 説話[4]
□投稿者/ パニチェ -(2021/07/31(Sat) 08:11:32)
    おはようございます、みのりさん。レスありがとうございます。

    No15309に返信(みのりさんの記事)

    > 身体を軽蔑するという自我の働きも元々は身体が創造しているのだから、身体を軽蔑する者たちも実は身体を尊敬しているのだ。
    > 短くするとこんな感じかな。

    はい、私はそのように読解しました。
    眉唾ものですが。。。。^^

    > どうもありがとうございました。
    > どうしてもわかりたかった部分なので助かりました。
    > また次に進んでいきますね。

    どういたしまして&私も一緒に進みます。
引用返信/返信 削除キー/
■15309 / inTopicNo.3)  Re[69]: Z 第一部 説話[4]
□投稿者/ みのり -(2021/07/31(Sat) 08:02:16)
    No15299に返信(パニチェさんの記事)
    > こんばんは、みのりさん。亀レスでゴメンチャイ♪

    いえいえ。^^ パニチェさん、レスありがとうございます。

    > ■No15249に返信(みのりさんの記事)
    >>[4]身体を軽蔑する者たちについて
    >
    >>続きです。
    >
    >>6〜14は、身体が自己であり、自我の支配者であることなどについて語られていて、前に語られている内容とも重なっています。(と、思います。)
    >
    >>・・・・・
    >>15 身体を軽蔑する者たちに対して、わたしは一言しよう。彼らが軽蔑するということ、それは彼らの尊重がなすわざなのだ。尊重することと軽蔑すること、価値と意志、それらを創造したものは、何であるか?
    >>・・・・・
    >>『ツァラトゥストラ』上 ちくま学芸文庫 p63より引用
    >
    >>ここ、よくわからないです。
    >
    >>「自分自身を軽蔑する者とても、なおやはり軽蔑者として自己を尊敬する」というのが、『善悪の彼岸』78の訳であり、それを参照するようにと研究者が言っている、というのが訳注p337にあるのですが・・・。
    >
    >>身体の軽蔑者が、自分は身体を軽蔑しているという意味において自分を優れていると思い、そのような自分を尊敬する。
    >>身体より精神性を重視し、身体を軽蔑する自分に対して優越感を感じる。
    >>というようなことなのかな、とは考えました。
    >
    >>パニチェさん、すみません。
    >>ここについてどんなふうに解釈されますか?
    >>いつでもいいですので、よかったら教えてください。
    >
    > 言うまでもないのですが以下はあくまでもパニチェの我流解釈ですよ。
    >
    > 15段に続いて16段には『創造する自己が、みずからのために、尊重することと、軽蔑することを創造した。..〈中略〉..創造する身体が、みずからのために、自分の意志の一つの手段として、精神を創造した』とあり、訳注にも『これはZ-N独特の洞察であり、論理であって、「身体を軽蔑する者たち」自身は、夢にも意識していないところである』とあることからして、次のようにツァラトゥストラの言葉を読解しました。
    >
    > 「身体を軽蔑する者たちに対して、わたしは一言しよう。彼らが軽蔑するということ、それは彼らの尊重がなすわざなのだ。尊重することと軽蔑すること、価値と意志、それらを創造したものは、何であるか?身体即ち自己である。自己即ち身体が軽蔑することや尊重することなどなどの意志や思考の主体である自我意識までも創造したのだ。故に身体を軽蔑すること自体がこれを創造した自己即ち身体を尊重しているという証となることなど、身体を軽蔑する者たちは思い及びもしないであろう。」

    自己即ち身体が、軽蔑する、尊重するといった意志や思考の主体である自我意識までも創造したのだ。
    身体を軽蔑するという自我意識の働きも実は自己即ち身体によって創造されているのであり、そうした意味で身体を軽蔑するという働き自体が、そのことを創造した自己即ち身体を尊重している証になる。
    しかし、身体を軽蔑する者たちはこれに思い及びもしないだろう。
     ということになるのですね。

    身体を軽蔑するという自我の働きも元々は身体が創造しているのだから、身体を軽蔑する者たちも実は身体を尊敬しているのだ。
    短くするとこんな感じかな。


    どうもありがとうございました。
    どうしてもわかりたかった部分なので助かりました。
    また次に進んでいきますね。
引用返信/返信 削除キー/
■15299 / inTopicNo.4)  Re[68]: Z 第一部 説話[4]
□投稿者/ パニチェ -(2021/07/30(Fri) 20:52:13)
    こんばんは、みのりさん。亀レスでゴメンチャイ♪

    No15249に返信(みのりさんの記事)
    > [4]身体を軽蔑する者たちについて

    > 続きです。

    > 6〜14は、身体が自己であり、自我の支配者であることなどについて語られていて、前に語られている内容とも重なっています。(と、思います。)

    > ・・・・・
    > 15 身体を軽蔑する者たちに対して、わたしは一言しよう。彼らが軽蔑するということ、それは彼らの尊重がなすわざなのだ。尊重することと軽蔑すること、価値と意志、それらを創造したものは、何であるか?
    > ・・・・・
    > 『ツァラトゥストラ』上 ちくま学芸文庫 p63より引用

    > ここ、よくわからないです。

    > 「自分自身を軽蔑する者とても、なおやはり軽蔑者として自己を尊敬する」というのが、『善悪の彼岸』78の訳であり、それを参照するようにと研究者が言っている、というのが訳注p337にあるのですが・・・。

    > 身体の軽蔑者が、自分は身体を軽蔑しているという意味において自分を優れていると思い、そのような自分を尊敬する。
    > 身体より精神性を重視し、身体を軽蔑する自分に対して優越感を感じる。
    > というようなことなのかな、とは考えました。

    > パニチェさん、すみません。
    > ここについてどんなふうに解釈されますか?
    > いつでもいいですので、よかったら教えてください。

    言うまでもないのですが以下はあくまでもパニチェの我流解釈ですよ。

    15段に続いて16段には『創造する自己が、みずからのために、尊重することと、軽蔑することを創造した。..〈中略〉..創造する身体が、みずからのために、自分の意志の一つの手段として、精神を創造した』とあり、訳注にも『これはZ-N独特の洞察であり、論理であって、「身体を軽蔑する者たち」自身は、夢にも意識していないところである』とあることからして、次のようにツァラトゥストラの言葉を読解しました。

    「身体を軽蔑する者たちに対して、わたしは一言しよう。彼らが軽蔑するということ、それは彼らの尊重がなすわざなのだ。尊重することと軽蔑すること、価値と意志、それらを創造したものは、何であるか?身体即ち自己である。自己即ち身体が軽蔑することや尊重することなどなどの意志や思考の主体である自我意識までも創造したのだ。故に身体を軽蔑すること自体がこれを創造した自己即ち身体を尊重しているという証となることなど、身体を軽蔑する者たちは思い及びもしないであろう。」

引用返信/返信 削除キー/
■15249 / inTopicNo.5)   Z 第一部 説話[4]
□投稿者/ みのり -(2021/07/28(Wed) 11:28:30)
    [4]身体を軽蔑する者たちについて

    続きです。

    6〜14は、身体が自己であり、自我の支配者であることなどについて語られていて、前に語られている内容とも重なっています。(と、思います。)

    ・・・・・
    15 身体を軽蔑する者たちに対して、わたしは一言しよう。彼らが軽蔑するということ、それは彼らの尊重がなすわざなのだ。尊重することと軽蔑すること、価値と意志、それらを創造したものは、何であるか?
    ・・・・・
    『ツァラトゥストラ』上 ちくま学芸文庫 p63より引用

    ここ、よくわからないです。

    「自分自身を軽蔑する者とても、なおやはり軽蔑者として自己を尊敬する」というのが、『善悪の彼岸』78の訳であり、それを参照するようにと研究者が言っている、というのが訳注p337にあるのですが・・・。

    身体の軽蔑者が、自分は身体を軽蔑しているという意味において自分を優れていると思い、そのような自分を尊敬する。
    身体より精神性を重視し、身体を軽蔑する自分に対して優越感を感じる。
    というようなことなのかな、とは考えました。

    パニチェさん、すみません。
    ここについてどんなふうに解釈されますか?
    いつでもいいですので、よかったら教えてください。

引用返信/返信 削除キー/
■15230 / inTopicNo.6)  Re[66]: Z 第一部 説話[4]
□投稿者/ みのり -(2021/07/26(Mon) 08:22:53)
    2021/07/26(Mon) 10:03:04 編集(投稿者)
    2021/07/26(Mon) 09:59:52 編集(投稿者)

    No15223に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > ニーチェさん、
    >
    > >身体は一つの大いなる理性である<
    >
    > な〜んだ、結局あんたも理性主義者でしかなったみたいね。

    ニーチェさんはもういらっしゃらないので、代わりに投稿します。

    昨日の投稿を再度載せてみますね。

    ・・・・・
    4 身体は一つの大いなる理性である。一つの意味を持つ一つの多様であり、一つの戦争と一つの平和であり、一つの畜群と一人の牧人である。

    5 わたしの兄弟よ、きみが「精神」と呼ぶところの、きみの小さな理性もまた、きみの身体の道具である。君の大いなる理性の一つの小さな道具ないし玩具である。
    ・・・・・
    『ツァラトゥストラ』上 ちくま学芸文庫 p61より引用

    4でまず、身体は一つの大いなる理性である、と語られます。
    これは、身体が、細胞などの無数の生命単位の包括者であり、また、精神活動を行う脳もまた身体の一部であり、身体こそが運動機能、精神機能の両方を包括するものであることを示していると思います。

    理性をつかさどる精神活動というのも、そもそも身体(脳も身体の一部)あってのもの、身体によって規定されているのであり、精神だけが浮遊するように存在しているわけではない。
    そうした意味から、身体を「大いなる理性」と呼び、精神については「小さな理性」として、あくまで身体の道具であると考えた。
    このようなことだと思います。

    理性主義者というのはおそらく、理性こそが人間にとって最も大切なものだという考え方をする人を指しているのだと思うのですが、ニーチェはそうではないと思います。
    通常一般的に使われる理性については、それを「小さな理性」と表していることからもそれは言えると思います。

引用返信/返信 削除キー/
■15223 / inTopicNo.7)  Re[65]: Z 第一部 説話[4]
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/07/25(Sun) 18:07:00)
    ニーチェさん、

    >身体は一つの大いなる理性である<

    な〜んだ、結局あんたも理性主義者でしかなったみたいね。
引用返信/返信 削除キー/
■15211 / inTopicNo.8)   Z 第一部 説話[4]
□投稿者/ みのり -(2021/07/25(Sun) 08:04:17)
    2021/07/25(Sun) 08:07:11 編集(投稿者)

    [4]身体を軽蔑する者たちについて

    以前にも言及されてきていますが、ツァラトゥストラにとっての自己(自分)とは身体(大地という表現がなされている場合もある)のことです。
    この章では、その身体を軽視、蔑視する考え方について触れられています。

    ・・・・・
    4 身体は一つの大いなる理性である。一つの意味を持つ一つの多様であり、一つの戦争と一つの平和であり、一つの畜群と一人の牧人である。

    5 わたしの兄弟よ、きみが「精神」と呼ぶところの、きみの小さな理性もまた、きみの身体の道具である。君の大いなる理性の一つの小さな道具ないし玩具である。
    ・・・・・
    『ツァラトゥストラ』上 ちくま学芸文庫 p61より引用

    この部分、特に5は有名な一文なのだと思います。
    以前、パニチェさんに引用いただいたと思いますし、ネット上でも引用されているのを見かけます。

    4でまず、身体は一つの大いなる理性である、と語られます。
    これは、身体が、細胞などの無数の生命単位の包括者であり、また、精神活動を行う脳もまた身体の一部であり、身体こそが運動機能、精神機能の両方を包括するものであることを示していると思います。

    一つの戦争と一つの平和であり、一つの畜群と一人の牧人である。
    というのは、身体内のそれぞれの諸活動が身体の内部で支配され統合されている、そうしたことを表していると思います。

    5の、「小さな理性」とは、身体を「大いなる理性」と呼ぶことと対比させているようです。
    精神を小さな理性とし、あくまで身体(大いなる理性)に規定されているものとしています。

    (同書 p334〜p335 訳注 を参考にしました。)


    ここからちょっと余談です。
    ローマ文明では、水道設備があり公衆浴場が設備されていたというのは、有名な話です。
    身体を清潔に保つ文化が推奨されていたのですね。
    ローマが滅びた後、ヨーロッパで入浴文化が衰退してしまったり、排泄場所が十分に確保されない建物、街だったというのも身体としての人間という面への軽視があったという理由があるのかもしれないと思いました。
引用返信/返信 削除キー/
■15117 / inTopicNo.9)  Re[63]: Z 第一部 説話[3]
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/07/22(Thu) 15:06:22)
    ■15114、みのりさま、

    >ツァラトゥストラというのは、ニーチェの分身としてニーチェの考えを語っています。つまり、ニーチェの考えをツァラトゥストラに語らせている、ということです。<
    了解です。

    キリスト教思想、っていうのあったのね。忘れてた。

    ありがと。
引用返信/返信 削除キー/
■15114 / inTopicNo.10)  Re[62]: Z 第一部 説話[3]
□投稿者/ みのり -(2021/07/22(Thu) 09:19:53)
    No15106に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > みのりさん、お邪魔しちゃう〜。
    >
    > ツァラトゥストラって、ニーチェじゃないよね?
    > ここんとこちょっと確認しときたいん。

    悪魔ちゃん、こんにちは。
    毎日暑いね〜。 札幌より沖縄のほうが気温が低いみたいですよ。

    ツァラトゥストラというのは、ニーチェの分身としてニーチェの考えを語っています。
    つまり、ニーチェの考えをツァラトゥストラに語らせている、ということです。

    > 以下は、ふと、だからどうでもいいことだけどお喋りしたいから。
    >
    > ■15079で、
    > >ツァラトゥストラにとっての自我とは、言葉という次元における自己存在、すなわち、自我は「話す」ところのものである。そして、自我の存在を根源的に規定し、自我存在に意味を与えるのは、身体としての自己に他ならない。自我の固有の機能が「話す」ことであるなら、この自我の徳とは「正直さ」である。つまり、みずからの存在の根源としての自己(身体)に対する正直さ。<
    > っていうところなんだけど(どうしてここに「徳」っていうのが突然出てきてるのかよくわかんないけどま、いいわ)、

    キリスト教思想において、身体性が軽視、蔑視されてきたことへの反論の一環として、身体こそが自己の根源であるということをツァラトゥストラはここ以前にも語っているんですね。
    そして、身体から固有の機能として「話す」ということを与えられている自我は、身体性は重視されるべきである、ということについて正直に話す役割があり、そうしたことができうるのが自我の徳なのだ、というのを語っているのだと思います。

    ここからは私の考えなのだけど。
    人が本来持っている生命力や欲望というのは、現実世界を生き抜いていく上で必要なもので、それらを軽視、蔑視して表面的に綺麗ごとで生きるのではなく、生命力や欲望などについても人々の間で隠されず、当たり前のこととして語られてほしい、そんなニーチェの願いがあったのだと考えています。    


    > 「自我」=言葉という次元におけるおける自己存在、「話す」ところのもの。
    > 「自己」=身体(上記の「言葉という次元における自己存在」は〈言葉という次元における身体存在〉ってなるよね)
    > なんだったら、「自我」「自己」という語を使わなくてもいいよね?

    ツァラトゥストラは、自己と自我を分けて考えているので、表現も分けているんだと思いますよ。


    > でね、これらの語を抜かしてかして書きかえちゃって見たよ。
    >
    > 〉ツァラトゥストラにとって、言葉という次元における存在、「話す」ところの存在を根源的に規定し、存在に意味を与えるのは、身体に他ならない。固有の機能が「話す」ことであるなら、徳とは「正直さ」である。つまり、みずからの存在の根源としての身体に対する正直さ。<
    > ってしちゃったけど、こういうのどう?
    >
    > あ!そうね、書きかえはダメよね。こういうの”違法”になる。
    > 教科書通りが生きる術、っていうことで、これ正解ね。
    > 白猫さまは、この範疇外っていうことになるのかな?
    >
    >
    >
    >
    >
    >
引用返信/返信 削除キー/
■15106 / inTopicNo.11)  Re[61]: Z 第一部 説話[3]
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/07/21(Wed) 20:54:26)
    みのりさん、お邪魔しちゃう〜。

    ツァラトゥストラって、ニーチェじゃないよね?
    ここんとこちょっと確認しときたいん。

    以下は、ふと、だからどうでもいいことだけどお喋りしたいから。

    ■15079で、
    >ツァラトゥストラにとっての自我とは、言葉という次元における自己存在、すなわち、自我は「話す」ところのものである。そして、自我の存在を根源的に規定し、自我存在に意味を与えるのは、身体としての自己に他ならない。自我の固有の機能が「話す」ことであるなら、この自我の徳とは「正直さ」である。つまり、みずからの存在の根源としての自己(身体)に対する正直さ。<
    っていうところなんだけど(どうしてここに「徳」っていうのが突然出てきてるのかよくわかんないけどま、いいわ)、

    「自我」=言葉という次元におけるおける自己存在、「話す」ところのもの。
    「自己」=身体(上記の「言葉という次元における自己存在」は〈言葉という次元における身体存在〉ってなるよね)
    なんだったら、「自我」「自己」という語を使わなくてもいいよね?
    でね、これらの語を抜かしてかして書きかえちゃって見たよ。

    〉ツァラトゥストラにとって、言葉という次元における存在、「話す」ところの存在を根源的に規定し、存在に意味を与えるのは、身体に他ならない。固有の機能が「話す」ことであるなら、徳とは「正直さ」である。つまり、みずからの存在の根源としての身体に対する正直さ。<
    ってしちゃったけど、こういうのどう?

    あ!そうね、書きかえはダメよね。こういうの”違法”になる。
    教科書通りが生きる術、っていうことで、これ正解ね。
    白猫さまは、この範疇外っていうことになるのかな?






引用返信/返信 削除キー/
■15097 / inTopicNo.12)   Z 第一部 説話[3]
□投稿者/ みのり -(2021/07/21(Wed) 12:17:39)
    [3]背後世界論者たちについて

    22〜35まででは、背後世界論者の人々が、身体と大地を軽蔑し、天界的なものと、救済のはたらきをする血のしずくなるものを考案した、ということなどについて語られています。
    (血のしずくとは、原罪が犠牲の血によって贖われるというキリスト教の教義を表す。)

    この部分(22〜35)で、重要なところはそうないようなので、次回から[4]身体を軽蔑する者たちについて に入ります。
引用返信/返信 削除キー/

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