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■14967 / inTopicNo.25)  Re[52]: Z 第一部 説話[3]
  
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/07/16(Fri) 20:33:55)
    みのりさま、お邪魔します。

    ■14960の
    >13にある、身体に対する身体の絶望とは、自己に対する彼ら自身の絶望を意味する<
    の「自己」「自身」っていう用語の意味、なんか書いてある?
    あと「自分自身」っていうのもあったかな。まこれはいいわ。
    とくに「自己」っていうのこけっこう出てきてるみたいだから、この語だけについてでいいわ。

    なければ返信なしでいいよ。
    返信なければ書いてないっていうことで済ませるから。
引用返信/返信 削除キー/
■14960 / inTopicNo.26)   Z 第一部 説話[3]
□投稿者/ みのり -(2021/07/16(Fri) 13:07:57)
    説話[3]背後世界論者たちについて

    ・・・・・
    13 わたしの言うことを信用せよ、わたしの兄弟たちよ! 身体に絶望したのは、身体であった、─ 身体こそが、昏迷せる精神の指でもって、最後の壁を手探りしたのだ。

    14 わたしの言うことを信用せよ、わたしの兄弟たちよ! 大地に絶望したのは、身体であった、─ 身体こそが、存在の腹が自分に話しかけてくるのを聞いたのだ。
    ・・・・・
    『ツァラトゥストラ』上 ちくま学芸文庫 p57より引用

    13にある、身体に対する身体の絶望とは、自己に対する彼ら自身の絶望を意味する。
    14にある、大地に対する身体の絶望とは、自己存在の根源である大地(現実世界)が無力で病的な絶望的なものに化していることに絶望することを意味する。そして、その絶望により自ら(身体でもって)背後世界というものを作り上げ、背後世界からの啓示を聞いたと思い込む、そうしたことについて書かれていると思います。

    (同書 p329〜p330 訳注を参考にしました。)


    「存在の腹」ということについては、p330訳注にある「大地の或る秘められた醜悪な面」という解釈とは違う解釈をしてみました。
    そのほうが私としては合う気がしました。


    今日はここまでにします。
    難しいのと、まとまった時間がなかなか取れないのとで、ほんの少しずつしか進めないでいますが、ゆったりペースで進んでいこうと思います。


引用返信/返信 削除キー/
■14926 / inTopicNo.27)  Z 第一部 説話[3]
□投稿者/ みのり -(2021/07/14(Wed) 12:55:17)
    説話[3] 背後世界論者たちについて

    ・・・・・
    8 この神は人間であった。しかも、人間と自我の、貧弱な一断片にすぎなかった。
    わたし自身の灰と灼熱から、それは、この幽霊は、わたしのところへやって来たのだ。そして、まことに!それは彼岸からわたしのところへやって来たのではないのだ!
    ・・・・・『ツァラトゥストラ』上 ちくま学芸文庫 p56より引用

    神や背後世界というのは、人間が創造したもの(考え出したもの)である。
    ということが述べられていると思います。
    ここでの「幽霊」とは、ツァラトゥストラ自身が苦悩と熱望から作り上げた「神」を指すのだと考えます。

    ・・・・・
    9 何が起こったと思うか、わたしの兄弟たちよ? わたしは、苦悩する者としての自分を、超克した。わたしはわたし自身の灰を山へ運んで行った。
    わたしは自分のために、或るより明るい炎を考案した。すると、見よ!、そのとき、幽霊はわたしから退散したのだ!
    ・・・・・同書p56より引用

    序説2-3にも、山の老人(聖者)の言葉として「あのとき、きみはきみの灰を山へ運んで行った」とあり、「自分の灰を山へ運ぶ」というのは、苦悩する自己を超克することの譬えとして使用されています。

    また、「明るい炎」というのは、山中での思索生活によって得た超人思想を指すものとされています。

    苦悩する自己を超克した結果として超人思想を得ることができ、「神は死んだ」という言葉に表されるように神の存在を信じなくなった、ということが書かれています。

    (同書 注釈p279、p328 を参考にしました。) 


    ツァラトゥストラは、山籠もりをする前までは、神や背後世界についても完全に否定していたのではなく、そこには迷いがあったのだというのがわかりました。
    山籠もりによる思索によって、自己超克と神、背後世界の完全否定がセットで行われたことがわかります。

     
     今日はここまでにします。






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■14907 / inTopicNo.28)  Z 第一部 説話[3]
□投稿者/ みのり -(2021/07/13(Tue) 12:32:53)
    [3]背後世界論者たちについて

    背後世界とは、形而上学的世界のこと。
    そうした世界の存在を信じ、そこに意味や価値を見出す人々が背後世界論者。

    1〜6までで、ツァラトゥストラ(=ニーチェ)もかつて、「自分の妄想を人間の彼岸へ投げかけた」、そういう時期があったことが語られます。

    これはニーチェが、ワーグナー、ショーペンハウアーに心酔していた時期を指すようです。
    ( 『ツァラトゥストラ』上 ちくま学芸文庫 p328訳注を参考にしました。)

    ・・・・・
    4 苦悩している者にとって、自分の苦悩から目をそむけて、自分を失うことは、陶酔的な快楽である。かつてわたしには、世界は陶酔的快楽と自己喪失とであるように思われた。
    ・・・・・同書p56より引用

    苦悩から目をそむけて背後世界に陶酔する背後世界論者のように、かつてツァラトゥストラも(現実世界においてではあるけれど)陶酔的な快楽に浸り、自己を見失っていたことが語られていると思います。



     説話[3]は長めで、内容も難しそうなので、分けて読んでいきます。
    今日はここまでにします。
引用返信/返信 削除キー/
■14864 / inTopicNo.29)  Re[48]: Z 第一部 説話[2]
□投稿者/ みのり -(2021/07/11(Sun) 16:43:16)
    パニチェさん、レスありがとうございます。

    >ここで言う“眠り”とはニーチェによる背後世界の例えであり、生(覚醒時)よりも背後世界(眠り)を重視することの愚かさをクローズアップさせる章の前段だとパニチェは解釈しています。

    >この後に続く「背後世界論者たち」や「身体を軽蔑する者たち」への批判の序章みたいなものかな、と。

    私もおなじようなことを読んでいて考えました。^^

    >>33 徳のこの説教者のような者、だがこれほど正直であるとはかぎらない者が、今日でもなお、若干いることはいるが、しかし、彼らの時は過ぎてしまったのだ。かくて、彼らはもはや長く立ってはいない。彼らは、早くも横たわっているのだ。
    ・・・・・同書p54、55より引用<<

    このあたりなど、そうしたことを思わせます。


    日を改めて、また読み進めていきますね。

引用返信/返信 削除キー/
■14845 / inTopicNo.30)  Re[47]: Z 第一部 説話[2]
□投稿者/ パニチェ -(2021/07/11(Sun) 10:10:59)
    2021/07/11(Sun) 10:24:41 編集(投稿者)

    No14795に返信(みのりさんの記事)

    > [2]徳の諸講座について

    > ツァラトゥストラは人々から、眠りの徳についてうまく話す賢者の話を聞くよう紹介されます。
    > その賢者は人々にとても尊敬され、多大の報酬を与えられています。

    > ・・・・・
    > 2 眠りに対する敬意と羞恥! それが第一に大切なことだ! そして、よく眠れないで夜中に目をさましている一切の者たちを、避けよ!
    > ・・・・・
    > 『ツァラトゥストラ』上 ちくま学芸文庫 p51より引用
    >
    > よく眠れるというのは一種の能力であり徳であるので、そのことに敬意を払うべきだ。
    > それに反して、よく眠れず夜中に目を覚ましているとすれば、そうした無力な疎外された自分を恥じるだけの繊細さを持つべきだ。
    > (同書 訳注p324 を参考にしました。)
    >
    > ・・・・・
    > 5 日に十度きみは自分自身を超克しなければならない。それは或る十分な疲労をもたらし、魂のケシ粒となるのだ。

    > 6 他方また十度きみはきみ自身と和解しなくてはならない。というのは、超克は辛苦であり、そして和解しなかった者はよく眠れないからである。
    > ・・・・・同書p51より引用
    >
    > 「睡眠」というのはここでは「非創造性」の象徴であり、また、どっちつかずの日和見主義的な態度も意味する。
    >
    > 5,6にあるように、「超克」でさえも睡眠のための技術的手段として説く立場への批判(皮肉によって)がなされ、そういう立場は是認されるべきではないことが暗喩されている。
    > (同書 訳注p324 を参考にしました。)

    ここで言う“眠り”とはニーチェによる背後世界の例えであり、生(覚醒時)よりも背後世界(眠り)を重視することの愚かさをクローズアップさせる章の前段だとパニチェは解釈しています。

    この後に続く「背後世界論者たち」や「身体を軽蔑する者たち」への批判の序章みたいなものかな、と。
引用返信/返信 削除キー/
■14795 / inTopicNo.31)  Z 第一部 説話[2]
□投稿者/ みのり -(2021/07/09(Fri) 13:02:29)
    2021/07/09(Fri) 14:59:35 編集(投稿者)

    [2]徳の諸講座について

    今回のお話は、ニーチェのシニカルにしてユーモアセンス(たとえ話への)を感じるお話です。

    ツァラトゥストラは人々から、眠りの徳についてうまく話す賢者の話を聞くよう紹介されます。
    その賢者は人々にとても尊敬され、多大の報酬を与えられています。

    ・・・・・
    2 眠りに対する敬意と羞恥! それが第一に大切なことだ! そして、よく眠れないで夜中に目をさましている一切の者たちを、避けよ!
    ・・・・・
    『ツァラトゥストラ』上 ちくま学芸文庫 p51より引用

    よく眠れるというのは一種の能力であり徳であるので、そのことに敬意を払うべきだ。
    それに反して、よく眠れず夜中に目を覚ましているとすれば、そうした無力な疎外された自分を恥じるだけの繊細さを持つべきだ。
    (同書 訳注p324 を参考にしました。)

    ・・・・・
    5 日に十度きみは自分自身を超克しなければならない。それは或る十分な疲労をもたらし、魂のケシ粒となるのだ。

    6 他方また十度きみはきみ自身と和解しなくてはならない。というのは、超克は辛苦であり、そして和解しなかった者はよく眠れないからである。
    ・・・・・同書p51より引用

    「睡眠」というのはここでは「非創造性」の象徴であり、また、どっちつかずの日和見主義的な態度も意味する。

    5,6にあるように、「超克」でさえも睡眠のための技術的手段として説く立場への批判(皮肉によって)がなされ、そういう立場は是認されるべきではないことが暗喩されている。
    (同書 訳注p324 を参考にしました。)

    このあたりの表現はとてもおもしろいです。


    十分に深く眠ることの徳をえんえんと話す賢者に対して、ツァラトゥストラは「阿呆だ。」と心の中で思います。

    ・・・・・
    31 かつて人々は、徳の教師を求めたとき、とりわけ何を求めていたかを、わたしは今はっきりと理解する。人々は自分のためによき眠りを、またそれに加えるに、ケシの花のような諸徳を求めていたのだ!

    33 徳のこの説教者のような者、だがこれほど正直であるとはかぎらない者が、今日でもなお、若干いることはいるが、しかし、彼らの時は過ぎてしまったのだ。かくて、彼らはもはや長く立ってはいない。彼らは、早くも横たわっているのだ。
    ・・・・・同書p54、55より引用

    ここについては訳注にないので、私なりの解釈をしてみます。

    人々は長く、安楽につつがなく生を送るための徳を求めてきて、それは一時の幸福をもたらす薬(アヘン?)のようなものでもあった。
    このような徳について説く説教者はまだいることはいるが、その役割はもうお終いなのだ。

引用返信/返信 削除キー/
■14773 / inTopicNo.32)  千と千尋の神隠し
□投稿者/ みのり -(2021/07/08(Thu) 12:51:23)
    ちょっと休憩投稿。^^

    スタジオジブリのアニメで有名な「千と千尋の神隠し」が来年、舞台作品になるそうです。
    湯婆婆役は、アニメでの声優もしていた夏木マリさん。
    アニメの時はまだ49歳だったそうです。

    私が子供の頃、夏木さんはスタイルのいいセクシーなお姉さんで歌手というイメージだったなぁ。
    それが「夜行観覧車」というドラマで、高級住宅地をしきるセレブ主婦のボス役で、それが上手くて合っていたし、すごいなと思ったのが数年前かな。

    Eテレ「世界の哲学者に人生相談」のメルロポンティの回で、「身体性の重視」ということで(夏木さんは自分で創作するダンスを舞台でしている関係で出たようでした。)出ていらしたこともあったなぁ。

引用返信/返信 削除キー/
■14772 / inTopicNo.33)   Z 第一部 説話[1]
□投稿者/ みのり -(2021/07/08(Thu) 12:34:29)
    [1]三つの変化について

    ・・・・・
    1 わたしはきみたちに精神の三つの変化を挙げてみせよう。すなわち、精神がラクダになり、そしてラクダがシシになり、そして最後にシシが子供になる次第を。
    ・・・・・『ツァラトゥストラ』上 ちくま学芸文庫 p47より引用

    人間の精神が変化する三つの段階について、ツァラトゥストラが説話します。
    この三段階の変化というのは人間の誰しもが必ず通過するものとして語られているのではなく、段階を経て変化することを一種の理想的な姿、在り方として描いているのだろう、と思いました。

    ・・
    ニーチェにとって人間存在は根源的には身体に他ならないが、精神の意義を否定しているわけではなく、精神を身体に基礎づけ、それを人間存在の自覚機能として根源的に把握し直そうとした。
    ・・(同書 訳注p315 を参考にしました。)

    ・・
    精神と身体(あるいは認識と生)が真の自己としての最終的な統合の状態を実現すること、これが精神の三つの変化の最後の段階(子供の段階)なのである。
    ・・(同書 訳注p316 を参考にしました。)

    ・・・・・
    2 内に畏敬を宿す精神、強くて、重荷に耐える精神にとっては、多くの重いものがある。この精神の強さは、重いものを、最も重いものを欲しがるのだ。
    ・・・・・同書 p47より引用

    ・・
    最初の駱駝(ラクダ)に喩えられる段階。
    ここでは、他者への、また伝統的な価値観への、特に道徳への服従が必要となる。
    これが徹底されることで次の段階への転換の動機が熟成する。
    ・・(同書 訳注p316 を参考にしました。)

    ここは、畏敬を秘めた服従の段階と言えるのだろう、と思います。
    徹底して自己を捨て服従することが最初の段階である、ということ。


    ・・・・・
    12 だが、この最も寂寥たる砂漠において、第二の変化が起こる。ここで精神はシシになるのだ。彼はみずからの自由をかちとろうとし、自分自身の砂漠において主であろとするのだ。
    ・・・・・同書p48より引用

    自分自身の砂漠において主であろとするのだ。この一文がとてもいいなと思います。
    砂漠を重い荷を背負い黙々と進む駱駝の、自己の精神に対して否定が生まれ獅子の精神へと上がる。

    「汝なすべし」と鱗の一枚一枚に書かれた大きな竜が現われ、獅子の精神などいらないではないか、駱駝のままで十分だろうと言います。

    ・・・・・
    16 これらのうろこには、千年の諸価値が輝いている。そして、あらゆる竜の中でも最も強大なこの竜は、次のように語る。「諸事物のあらゆる価値 ─ それがわが身に輝いている。」
    ・・・・・同書p49より引用

    新しい価値など創造するな、私が持っているおびただしい諸価値に従っていればいいのだ、と竜は迫ります。

    しかし、獅子の精神は、「われ欲す」の精神。
    それは、自らが自身で価値を創造していく精神です。
    自分で決める、このことが大切。

    (この場面など、迫力ある映画の場面で観たら楽しいだろうな、と想像してしまいます。)

    ・・・・・
    22 この精神はかつて「なんじ、なすべし」を自分の最も神聖なものとして愛した。いまや彼は、自分の愛からの自由を強奪するために、最も神聖なもののうちにすらも、妄想と恣意とを見出さなくてはならない。この強奪のために、シシが必要なのだ。
    ・・・・・同書p49〜50より引用


    獅子の精神はさらに子供の精神へと段階を進みます。

    ・・・・・
    子供は無邪気そのものであり、忘却である。一つの新しい始まり、一つの遊戯、一つの自力でころがる車輪、一つの第一運動、一つの神聖な肯定である。
    ・・・・・同書p50より引用

    幼子こそが超人として喩えられる者になります。

    獅子はまだ「自らが成さねばならない」という硬さや「自分」があるのに対して、子供は世界に融けこみながらも自由自在に創造をします。
    (ここは、私の感想です。)


    何かを極めようとする時。最初は伝統や師から学び受け継ぎ、次に、そこで体得したものを発展的に否定し、独自の創造ができるようになる。
    精神変化の三段階は、こうした一連の流れにも通じるものがあると感じました。


引用返信/返信 削除キー/
■14768 / inTopicNo.34)  充実した読書会に感謝!
□投稿者/ パニチェ -(2021/07/07(Wed) 20:58:53)
    2021/07/07(Wed) 22:34:32 編集(投稿者)

    こんばんは、田秋さん、みのりさん。

    No14741に返信(田秋さんの記事)
    > 日フィル、ツァラトゥストラは色んな指揮者で何度もやってて、録音もしてるんでしょうが、CDとしての商品価値が無かったんでしょうねえ。CDというのは皆さん家で冷静に聴きますからね、特にミストーンがあったりすると他が良くても没になるんだと思います。
    > 大昔、CD選考委員というのをやり、3〜4種類のコンサートの録音を聴き比べしたことありますが、演奏中は一番面白くなかったけれど一番ミスの少なかった演奏がCDとして一番良いと思ったことあります。

    深いですね。演奏中面白くなかったというのは全体性に溶けこんで没我となるみたいな感覚なんでしょうかねぇ〜。
    素人の私には想像しにくいです。^^

    No14749に返信(みのりさんの記事)
    > ニーチェにお詳しいパニチェさん、そして、日本フィルハーモニー交響楽団で「ツァラトゥストラはかく語りき」を演奏された田秋さんもいらっしゃるニーチェクラブはなんて豪華なんだろう、と。
    > ちっとも豪華ではない私ですが(^▽^;)、第四部終わりまで成し遂げたいと思っています。

    田秋さんはその道のプロ中のプロですが、私は単なるアマチュアのニーチェファンに過ぎません。皆さんと一緒に勉強できて楽しく充実した時間を過ごせており感謝です。^^

引用返信/返信 削除キー/
■14750 / inTopicNo.35)  Z 第一部 説話[1]
□投稿者/ みのり -(2021/07/07(Wed) 14:38:21)
    [1]三つの変化について

    ・・・・・
    1 わたしはきみたちに精神の三つの変化を挙げてみせよう。すなわち、精神がラクダになり、そしてラクダがシシになり、そして最後にシシが子供になる次第を。
    ・・・・・『ツァラトゥストラ』上 ちくま学芸文庫 p47より引用

    この最初の説話は、第一部の説話全体にとって、主題展開に必要な基本的骨子を述べたものとして特に重要なものになるそうです。
    (訳注p315 を参考にしました。)

    以前、パニチェさんからお聞きした部分でもあり、おおよそについての理解はあるかな、という感じではあるのですが、自分で読んでみるというのは大切です。
    ということで、ここについては次回見ていこうと思います。

    今日はここまでにします。


引用返信/返信 削除キー/
■14749 / inTopicNo.36)  田秋さんへ
□投稿者/ みのり -(2021/07/07(Wed) 14:13:24)
    >おはようございます、みのりさん
    >精力的にお読みですね。頑張ってついていきます。

    ありがとうございます。^^

    ニーチェにお詳しいパニチェさん、そして、日本フィルハーモニー交響楽団で「ツァラトゥストラはかく語りき」を演奏された田秋さんもいらっしゃるニーチェクラブはなんて豪華なんだろう、と。
    ちっとも豪華ではない私ですが(^▽^;)、第四部終わりまで成し遂げたいと思っています。
引用返信/返信 削除キー/

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