| 2021/07/09(Fri) 14:59:35 編集(投稿者)
[2]徳の諸講座について
今回のお話は、ニーチェのシニカルにしてユーモアセンス(たとえ話への)を感じるお話です。
ツァラトゥストラは人々から、眠りの徳についてうまく話す賢者の話を聞くよう紹介されます。 その賢者は人々にとても尊敬され、多大の報酬を与えられています。
・・・・・ 2 眠りに対する敬意と羞恥! それが第一に大切なことだ! そして、よく眠れないで夜中に目をさましている一切の者たちを、避けよ! ・・・・・ 『ツァラトゥストラ』上 ちくま学芸文庫 p51より引用
よく眠れるというのは一種の能力であり徳であるので、そのことに敬意を払うべきだ。 それに反して、よく眠れず夜中に目を覚ましているとすれば、そうした無力な疎外された自分を恥じるだけの繊細さを持つべきだ。 (同書 訳注p324 を参考にしました。)
・・・・・ 5 日に十度きみは自分自身を超克しなければならない。それは或る十分な疲労をもたらし、魂のケシ粒となるのだ。
6 他方また十度きみはきみ自身と和解しなくてはならない。というのは、超克は辛苦であり、そして和解しなかった者はよく眠れないからである。 ・・・・・同書p51より引用
「睡眠」というのはここでは「非創造性」の象徴であり、また、どっちつかずの日和見主義的な態度も意味する。
5,6にあるように、「超克」でさえも睡眠のための技術的手段として説く立場への批判(皮肉によって)がなされ、そういう立場は是認されるべきではないことが暗喩されている。 (同書 訳注p324 を参考にしました。)
このあたりの表現はとてもおもしろいです。
十分に深く眠ることの徳をえんえんと話す賢者に対して、ツァラトゥストラは「阿呆だ。」と心の中で思います。
・・・・・ 31 かつて人々は、徳の教師を求めたとき、とりわけ何を求めていたかを、わたしは今はっきりと理解する。人々は自分のためによき眠りを、またそれに加えるに、ケシの花のような諸徳を求めていたのだ!
33 徳のこの説教者のような者、だがこれほど正直であるとはかぎらない者が、今日でもなお、若干いることはいるが、しかし、彼らの時は過ぎてしまったのだ。かくて、彼らはもはや長く立ってはいない。彼らは、早くも横たわっているのだ。 ・・・・・同書p54、55より引用
ここについては訳注にないので、私なりの解釈をしてみます。
人々は長く、安楽につつがなく生を送るための徳を求めてきて、それは一時の幸福をもたらす薬(アヘン?)のようなものでもあった。 このような徳について説く説教者はまだいることはいるが、その役割はもうお終いなのだ。
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