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■12112 / inTopicNo.61)  Re[12]: 選ばれた人
  
□投稿者/ 勿忘草 -(2021/04/23(Fri) 19:49:49)
    knowing itselfさんこんばんは

    それにしても、予定説が、こんなに皆さんから批判を受けることになろうとは
    思ってもみませんでした。

    自分としては、むしろ、論理的だし、自力、つまり、自分の力ではなく神の御意思、恩寵が反映されることがはっきりしてて最高の教説だと思っていたのですが、とても残念でなりません。

    まあ、結果については、最後の審判が行われるときに明確になると思いますが、
    論理的に言って三位一体の神の愛が、最終的には、勝利すると感じています。

    > 予定説そのものが批判されているわけではなく、「二重」予定にして滅びも救いと同じレベルで、前もって決定されるとするなら、それはほとんどの教派から拒否されるでしょうね。

    なるほど、ただ、誰かを救うことを予定すると言う事は、当然の成り行きとして
    誰かを滅ぼすことになるのではないかなと思うんです。

    救済か絶滅かどちらか一方しか答えはないと思うのですが、如何でしょうか。

    >>「2.012 論理においては何ひとつ偶然ではない。あるものがある事態のうちに現れるならば、その事態の可能性はすでにそのものにおいて先取りされていなければならない。」

    > 仮に、あるものが現れることが何ひとつ偶然ではない、といえるとして、「二重」予定説までもがそこから帰結されるとする理由がわかりません。

    神が予定されているのだから、当然に二重予定なのではないのかなと思いました。
引用返信/返信 削除キー/
■12110 / inTopicNo.62)  Re[11]: 選ばれた人
□投稿者/ knowing itself -(2021/04/23(Fri) 19:20:17)
    勿忘草さん こんばんは

    > こんなに嫌われている説だったとは、信じられません。

    予定説そのものが批判されているわけではなく、「二重」予定にして滅びも救いと同じレベルで、前もって決定されるとするなら、それはほとんどの教派から拒否されるでしょうね。

    > というのも、自分は「論考」のウィトゲンシュタインの「論理」について突き詰めていくと
    >
    > 「2.012 論理においては何ひとつ偶然ではない。あるものがある事態のうちに現れるならば、その事態の可能性はすでにそのものにおいて先取りされていなければならない。」
    >
    > ここから、二重予定説が正しいものだと思った次第です。

    仮に、あるものが現れることが何ひとつ偶然ではない、といえるとして、「二重」予定説までもがそこから帰結されるとする理由がわかりません。
引用返信/返信 削除キー/
■12105 / inTopicNo.63)  Re[9]: 二重予定説
□投稿者/ toll -(2021/04/23(Fri) 07:25:52)

    勿忘草さん おはようございます

    こちら忘れてました
    僭越ながらちょっと言わせて下さい
    前後のある文節を切り離してくっ付けての論証
    無理矢理感がして意味が判らないです
    本当の信者も困るのではないでしょうか
    パニーチェさんやエフニさんのご意見は
    門外漢から見ても的を射てスッキリします
    パニーチェさんたちの交わりも再開させた方が良いようですよ





    No12083に返信(勿忘草さんの記事)
    > もし、神が誰が救われるか選ばれているのなら、私たちがキリストを選んで信じる自由意志はどうなるのでしょうか? 聖書は私たちは自由意志で選択できると言っています。私たちがしなくてはならないのは、ただイエスキリストを信じること、そうすれば救われると言っています。(ヨハネ3章16節;ローマ10章9−10節)聖書は、一度も、神が、神を信じる者を拒むとか、誰でも神を求める者を退けるとか言ってはいません。(申命記4章29節) どうしてか、神の神秘さのうちで、予定説は、神に引き寄せられた人と共に働いて(ヨハネ6章44節)、その人が信じて救われるのです。(ローマ1章16節) 神は救われる人をあらかじめ決めておられ、救われるためには、私たちはキリストを選ばなければならないのです。 この二つの事実は、同等に真理です。ローマ11章33節は、「ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、そのみちは、何と測り知りがたいことでしょう。」と宣言しています。
引用返信/返信 削除キー/
■12099 / inTopicNo.64)  Re[14]: 違和感
□投稿者/ エフニ -(2021/04/22(Thu) 23:34:09)
    ついでに論理学の初歩の初歩を説明しておく。

    仮説や仮定は何でも立てられるものではない。

    仮定には「解」が存在しなければならない。

    すなわち、「解」の真理条件、検証可能条件が存在しない仮定(解の無い仮定)は、全て無意味な命題となる。

    例えば、「もし、天地創造前に救済される人間が、予定・決定されているならば」という命題は、論理学的に無意味な命題となる。
引用返信/返信 削除キー/
■12097 / inTopicNo.65)  Re[13]: 違和感
□投稿者/ エフニ -(2021/04/22(Thu) 23:23:09)
    論考は古典論理の話で、現在の述語論理や様相論理は、あらかじめ排除されている。

    その限りでの排中律の設定なのである。

    パニさんが言ったように、論考の写像理論は、後にウィト自身によって撤回されている。

    ここで、論考を読んでいれば誰でも了解している初歩の初歩を確認しておく。

    論考で張った論理空間は、あくまでも世界誕生後の世界の話で、天地創造以前の語り得ぬことの根拠が、論考になるということは、絶対にない。
引用返信/返信 削除キー/
■12095 / inTopicNo.66)  Re[12]: 違和感
□投稿者/ パニチェ -(2021/04/22(Thu) 22:41:01)
    2021/04/23(Fri) 06:27:27 編集(投稿者)

    こんばんは、勿忘草さん。レスありがとうございます。
    この手のレス交換はストレートに返信させてもらいますね。

    No12092に返信(勿忘草さんの記事)
    > 生命力と自由意思を重視したニーチェから見たらそうかもしれません。

    そんな単純な話ではないです。
    ニーチェの祖父は神学博士であり、アイレンブルグの管区総監督牧師の地位あり、父も将来を嘱望された牧師であったことはご存知でしょうか?

    > ただ、私は、ウィトゲンシュタインの論理哲学論考により推察していくと
    > 「2.011 事態の構成要素になりうることは、ものにとって本質的である。
    > これは、次の命題2.012と関わる内容です。
    > 2.012 論理においては何ひとつ偶然ではない。あるものがある事態のうちに現れるならば、その事態の可能性はすでにそのものにおいて先取りされていなければならない。」
    > とあり、論理空間を要素命題に分析し要素命題が二つならば論理式で命題を表すとしたときに、排中律でトートロジーと矛盾が成り立つ訳ですから、予定説とは、先取りされた論理であると考えられると思い予定説にこだわっているところです。

    「論考」の言説に振られている数字の意味はご存知でしょうか?
    勿忘草さんが切り文(そこだけ切り離して注目し独自解釈している言説)している言説は以下の文脈にあります。

    ***** 以下、「論理哲学論考」より引用(一部省略) *****

    1.世界とは実情であることがらの全てである。
    1.1世界は事実の総計であって、ものの総計ではない。
    1.2世界は諸事実に分解する。
    2. 実情であること、即ち事実とは、諸事態の存立である。
    2.01事態とは諸対象(事物、もの)の結合である。
    2.011事態の構成要素でありうることが、ものにとっての本質である。
    2.012論理においては何ひとつ偶然ではない。あるものがある事態のうちに現れるならば、その事態の可能性はすでにそのものにおいて先取りされていなければならない。

    *************** 引用終わり ***************

    上記の文脈をどのように読解されていますか?

    > ただ、人間の認識と自由意思のみが不幸からの脱却につながると思ってはいます。
    > 自由意思が無かったら神を信仰も出来ない訳ですから。
    > それから、「自由意志」は存在する(ただし、ほんの0.2秒間だけ)というサイトが
    > ありましたので上げておきます。
    > https://wired.jp/2016/06/13/free-will-research/

    restさんが昨年の3月12日に「哲学全般、科学(科学哲学)、仏教etc 6」のNo11384で上記サイトを紹介されてから、現在もおくたがわさんと私でこの実験についてのレス交換をしています。

    結論だけ言えば私はある根拠というか確信をもとに自由意志を認めますが、この実験だけでは自由意志を認める根拠にはならないということです。
    興味があればロムして下さい。

引用返信/返信 削除キー/
■12094 / inTopicNo.67)  Re[12]: 違和感
□投稿者/ toll -(2021/04/22(Thu) 21:22:15)

    こんばんわ
    また横レスになりますね


    No12092に返信(勿忘草さんの記事)
    > パニチェさんこんばんは。
    >
    > >>ただ、もし、救われているのなら、それにふさわしい行いをするはずだと
    > >>予定説を信じると、こうした焦燥感にかられて、まじめな生活を送るはずなので、仕事に精を出すと言う事になり、それが資本主義の原動力にもなると言う事のようです。
    >>
    >>全くそうは思いませんし、もの凄い違和感があります。
    >>例えば目の前に落ちているゴミを拾うのに天国や神の国、最後の審判や予定説なんて必要ありません。
    >>
    >>むしろ何らかの見返りや脅迫観念、あるいは打算ありきの行為は煩悩の汚れのある行為であり純真無垢ではありえないってのが仏教的な教説ですし、ニーチェ的には自らの意志で自らを律する君主道徳の対極にある奴隷道徳です。
    >
    > 生命力と自由意思を重視したニーチェから見たらそうかもしれません。
    >
    > ただ、私は、ウィトゲンシュタインの論理哲学論考により推察していくと
    >
    > 「2.011 事態の構成要素になりうることは、ものにとって本質的である。
    >
    > これは、次の命題2.012と関わる内容です。
    >
    > 2.012 論理においては何ひとつ偶然ではない。あるものがある事態のうちに現れるならば、その事態の可能性はすでにそのものにおいて先取りされていなければならない。」
    >
    > とあり、論理空間を要素命題に分析し要素命題が二つならば論理式で命題を表すとしたときに、排中律でトートロジーと矛盾が成り立つ訳ですから、予定説とは、先取りされた論理であると考えられると思い予定説にこだわっているところです。
    >
    > ただ、人間の認識と自由意思のみが不幸からの脱却につながると思ってはいます。
    >
    > 自由意思が無かったら神を信仰も出来ない訳ですから。
    >
    > それから、「自由意志」は存在する(ただし、ほんの0.2秒間だけ)というサイトが
    > ありましたので上げておきます。
    >
    > https://wired.jp/2016/06/13/free-will-research/



    「自由意志」

    宗教的にはこういう感じですかね
    お目を通さない選択の自由もあります^^



    善悪を知る木

     アダムが罪を犯す以前、彼は神のロボットのような存在ではなかった。彼は、エデンの園の管理者であった。神はまた彼に非常に重要な役目を与えられた。それは、神が創造した動物たちのすべてに相応しい名前をつけることであった。「人がそれを呼ぶと、何であれ、それがその生き物の名となった」と記されている。神は、アダムを信頼し、そのような仕事を彼に任せられたのであり、そのようにアダムは、高度の知恵と判断力を神から与えられていた。しかし、神は彼に言われた、「あなたは園のどの木からでも思いのまま食べて良い。しかし、善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ」と。
     アダムが持っていなかったただ一つのもの、それは「善悪の判断能力」であった。神は、それをアダムに与えられなかった。しかし神は、アダムがその能力を得る可能性をエデンの園に置かれ、そうしておいて、アダムにそれを禁じられたのである。それは、アダム自らがその能力すなわち「善悪の判断」を神に委ねることを望んでおられたからである。
     キリスト信者は、聖書を自分の手に取って読み、それを理解し、それが神の言葉だと確信したゆえに、そこに書かれていることを信じた者たちである。しかしもし彼がその後、そこから一歩も先へ進まないならば、つまりもし彼が、その最初の状態、すなわち彼が最初に信仰を得たときのように、聖書に書かれていることを理解し、それに心から喜んで同意することにより、信仰を保ち続けているとするならば、彼は、罪を犯した後のアダムと何ら変わるところがないと私は言いたい。神は彼から、エデンの園の祝福を取り去り、彼の信仰は、命の無いものとなるに違いない。それは神が、「あなたは必ず死ぬ」と言われたからである。
     だから私たちが真の信仰者となるためには、神に「善悪の判断」をお返しする必要がある。つまり、彼が信仰者である理由はもはや、彼のものではなく、神のものである。神が彼を選ばれた(新しく創造された)からである。それゆえ今後、どのような新たな事実の出現も、彼の信仰を揺るがすものとは成り得ない。彼は、もはや「善悪の判断」をしないと決めたからである。ここに至って、彼は真のキリスト者となるのであり、それ以外に彼が自分の信仰の内に安らぐ術はないのである。
     そして、彼が「善悪の判断」を放棄することは、彼の人生における彼の可能性の芽を摘み取るものでは決してない。堕罪前のアダムが神から豊かな能力を与えられていたのと同様に、彼にはすべての能力がそのまま残される。そればかりか、そのことにより、彼には無限の可能性が与えられる。それは、神の言葉聖書にたたえられた無限の知恵であり、正にそれが彼に開かれ始めるのである。ドイツの神秘思想家マイスター・エックハルトは言った、「誠に驚くべきことである。聖書の内容はこんなにも豊かであるのに、だれひとりとして、その一語さえも説明がつかないとは」。そのように、現代の私たちには、聖書の中の一語さえも解釈できないのである。
     しかしその彼が「善悪の判断」を放棄するとき、聖書は彼にとって、これまでとはまったく別のものとなる。彼は、聖書から神の知恵を直接に汲み取り、それによって育つ若木にされるからである。もはや彼自身の善悪判断が聖書の言葉を曇らせることはない。彼は、聖書からキリストすなわち神の知恵を直接に受け取るもの、すなわち神の子になるからである。

    ttp://joseph-daniel.cocolog-nifty.com/testimony/2020/11/post-03cacc.html

    ーーーーーーー

引用返信/返信 削除キー/
■12093 / inTopicNo.68)  Re[11]: 選ばれた人
□投稿者/ toll -(2021/04/22(Thu) 21:15:56)

    横レス失礼します



    No12089に返信(勿忘草さんの記事)
    > knowing itselfさんこんばんは。
    >
    > 予定説についてWikipediaには、次のように記述されていました。
    >
    > 「予定説を支持する立場からは、予定説は聖書の教えであり正統教理とされるが、全キリスト教諸教派が予定説を認めている訳ではなく、予定説を認める教派の方がむしろ少数派である。
    >
    > 予定説はキリスト教の全ての教派で受け入れられている訳ではなく、プロテスタントの幾つかの教派で受け入れられてはいるものの、最大の信徒数をもつローマ・カトリック教会や、東方教会で最大の教派である正教会では受け入れられていない教説である。
    >
    > 予定説は正教会には全く受け入れられていない。
    > 既に17世紀の1672年にエルサレム総主教ドシセオス2世が召集したエルサレム公会で、他のカルヴァン主義の教説(信仰義認など)とともに予定説は否定された。なお、この公会においては、カルヴァン主義のみならずローマ・カトリックとも距離が取られている。
    >
    > 正教会における救いの概念については共働を参照
    > カトリック教会では予定説は、トリエント公会議で異端として排斥された。」
    >
    > なにか、もう、メタメタです。
    > こんなに嫌われている説だったとは、信じられません。


    何ヶ月もの探求 ご苦労様でした
    私も含めてかと思うのですが
    Wiki も見るのじゃないかしら
    最後に見てコロッと納得ですか?^^


    > というのも、自分は「論考」のウィトゲンシュタインの「論理」について突き詰めていくと
    >
    > 「2.012 論理においては何ひとつ偶然ではない。あるものがある事態のうちに現れるならば、その事態の可能性はすでにそのものにおいて先取りされていなければならない。」
    >
    > ここから、二重予定説が正しいものだと思った次第です。


    パニーチェさんのレス スルーでしたよね
    もう一度お読みになられたら?^^


    ■11996
    No11989に返信(勿忘草さんの記事)
    > ウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」に影響されたところが大きいです。

    > 「2. 012 論理では、なに ひとつ偶然 な もの は ない。
    >  事物 が 事態 の なか に 登場 する 可能性 が ある なら、
    >  事物のなかに事態の可能性がすでに先取りされているにちがいない。」

    上記は前期(論理哲学論考)の言語を世界の写像として考察した写像理論の文脈にあり後期(哲学探究)では破棄されたと私は解釈しています。

    > この辺が、影響されたところです。
    > 勿論、スピノザもエチカ第一部定理29で
    > 「自然のうちには何一つ偶然的なものはなく」
    > 「一切は神の本性の必然性から一定の存在と作用へと定められ,
    > すべての存在者において何一つ偶然的なものはない」
    > と述べてるところから世界は、全て論理出てきていて、
    > 微塵も偶然なものはないところから、予定説にひかれていきました。

    以下の私の横レスは不躾だとは思いますがこの手のレス交換は忖度や気遣いなどは棚上げしてレス交換したいので、ご寛容のほどを。。。

    先のニーチェに関する投稿も含めて、上記は確証バイアスとか牽強付会的なカキコだと思います。
    どういうことかと言うとはじめに結論(予定説)がありきで、これに合致するような他者の言葉や自己流解釈をした上でこれらを集めることで、予定説の確証としているのではないか?ということです。

    救済される人と救済されない人は人間には分からないにもかかわらず予定説(二重予定説も含めて)にどのような意味や価値を認められるのでしょうか?

    PS.言うまでもないとは思いますが私は個人の信仰を否定したり批判するつもりは全くありません、念のため。。。。

    ーーーーーーー


引用返信/返信 削除キー/
■12092 / inTopicNo.69)  Re[11]: 違和感
□投稿者/ 勿忘草 -(2021/04/22(Thu) 21:14:47)
    パニチェさんこんばんは。

    >>ただ、もし、救われているのなら、それにふさわしい行いをするはずだと
    >>予定説を信じると、こうした焦燥感にかられて、まじめな生活を送るはずなので、仕事に精を出すと言う事になり、それが資本主義の原動力にもなると言う事のようです。
    >
    > 全くそうは思いませんし、もの凄い違和感があります。
    > 例えば目の前に落ちているゴミを拾うのに天国や神の国、最後の審判や予定説なんて必要ありません。
    >
    > むしろ何らかの見返りや脅迫観念、あるいは打算ありきの行為は煩悩の汚れのある行為であり純真無垢ではありえないってのが仏教的な教説ですし、ニーチェ的には自らの意志で自らを律する君主道徳の対極にある奴隷道徳です。

    生命力と自由意思を重視したニーチェから見たらそうかもしれません。

    ただ、私は、ウィトゲンシュタインの論理哲学論考により推察していくと

    「2.011 事態の構成要素になりうることは、ものにとって本質的である。

    これは、次の命題2.012と関わる内容です。

    2.012 論理においては何ひとつ偶然ではない。あるものがある事態のうちに現れるならば、その事態の可能性はすでにそのものにおいて先取りされていなければならない。」

    とあり、論理空間を要素命題に分析し要素命題が二つならば論理式で命題を表すとしたときに、排中律でトートロジーと矛盾が成り立つ訳ですから、予定説とは、先取りされた論理であると考えられると思い予定説にこだわっているところです。

    ただ、人間の認識と自由意思のみが不幸からの脱却につながると思ってはいます。

    自由意思が無かったら神を信仰も出来ない訳ですから。

    それから、「自由意志」は存在する(ただし、ほんの0.2秒間だけ)というサイトが
    ありましたので上げておきます。

    https://wired.jp/2016/06/13/free-will-research/



引用返信/返信 削除キー/
■12090 / inTopicNo.70)  Re[10]: 神と人
□投稿者/ 勿忘草 -(2021/04/22(Thu) 20:22:06)
    悪魔ちゃんさんこんばんは。

    > ごめんね、もう少しキリストさんが私に”教え”ようとすることなんだけど。
    >
    > 勿忘草さん、ごめんね。
    >
    > ■12083 にある「聖書」っていう書物の中に出てくる、「ヨハネ」っていうの、やっぱ、「人」でいいのかしら?

    何も謝らなくていいですよ。

    ヨハネは、弟子ですね。もちろん人間です。
引用返信/返信 削除キー/
■12089 / inTopicNo.71)  Re[10]: 選ばれた人
□投稿者/ 勿忘草 -(2021/04/22(Thu) 20:03:01)
    knowing itselfさんこんばんは。

    予定説についてWikipediaには、次のように記述されていました。

    「予定説を支持する立場からは、予定説は聖書の教えであり正統教理とされるが、全キリスト教諸教派が予定説を認めている訳ではなく、予定説を認める教派の方がむしろ少数派である。

    予定説はキリスト教の全ての教派で受け入れられている訳ではなく、プロテスタントの幾つかの教派で受け入れられてはいるものの、最大の信徒数をもつローマ・カトリック教会や、東方教会で最大の教派である正教会では受け入れられていない教説である。

    予定説は正教会には全く受け入れられていない。
    既に17世紀の1672年にエルサレム総主教ドシセオス2世が召集したエルサレム公会で、他のカルヴァン主義の教説(信仰義認など)とともに予定説は否定された。なお、この公会においては、カルヴァン主義のみならずローマ・カトリックとも距離が取られている。

    正教会における救いの概念については共働を参照
    カトリック教会では予定説は、トリエント公会議で異端として排斥された。」

    なにか、もう、メタメタです。
    こんなに嫌われている説だったとは、信じられません。

    というのも、自分は「論考」のウィトゲンシュタインの「論理」について突き詰めていくと

    「2.012 論理においては何ひとつ偶然ではない。あるものがある事態のうちに現れるならば、その事態の可能性はすでにそのものにおいて先取りされていなければならない。」

    ここから、二重予定説が正しいものだと思った次第です。



引用返信/返信 削除キー/
■12085 / inTopicNo.72)  Re[9]: 神と人
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/04/22(Thu) 18:47:32)
    ごめんね、もう少しキリストさんが私に”教え”ようとすることなんだけど。

    勿忘草さん、ごめんね。

    ■12083 にある「聖書」っていう書物の中に出てくる、「ヨハネ」っていうの、やっぱ、「人」でいいのかしら?

引用返信/返信 削除キー/

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