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■12285 / inTopicNo.25)  Re[23]: 第三の天 愛満開 様へ
  
□投稿者/ toll -(2021/04/30(Fri) 18:24:03)
    No12275に返信(愛満開さんの記事)
    > tollさん、第三の天こちらの疑問にもお答えいただきありがとうございます。
    >
    > 御紹介のサイト「天国とはどんなところ?」ホントに素晴らしい回答だと思いました。
    >
    > 特に最後の「私達はその神の子羊に顔と顔を合わせて会えるのです。その神の子羊は、私達を愛し、私たちが永遠に天にてご臨在を楽しむことができるようにと、ご自分を犠牲にされたのです。」
    >
    > というところが、イエス様の十字架の贖罪の意味が読み取れるようで大変分かりやすかったです。
    >
    > これからも、いろいろお教えくださいね。



    “ 聖書の事は聖書に聴け ” が座右の銘になりましたので
    こういう感じかなとチョイスしてみました
    気に入って頂けて 嬉しいです^^
    引用しなかった箇所は
    信仰によらなければ判らないかなと引用しませんでした
    聖書が語るとおりに思えませんから^^


    こちらこそ
    知らないことばかりですか
    愛満開 様には信仰とはどういうものか
    お話の中で教えていただければと思います

引用返信/返信 削除キー/
■12276 / inTopicNo.26)  バチカン公会議
□投稿者/ パニチェ -(2021/04/29(Thu) 21:57:13)
    横レス失礼します。

    No12261に返信(knowing itselfさんの記事)

    > 動画でバロン司教がいっているのは、↑上記を前提にした上で、第2バチカン公会議ではキリスト教を信仰していない、キリスト教の外でも、救われる可能性を認めたということです。無神論者も救われうる。良心や善意思をもって真摯に生きた場合ですが。

    上記のような見解あるいは聖書解釈?の正誤は何を根拠、あるいは判断基準としてなされるのでしょうか。
引用返信/返信 削除キー/
■12275 / inTopicNo.27)  Re[22]: 第三の天
□投稿者/ 愛満開 -(2021/04/29(Thu) 21:38:34)
    tollさん、第三の天こちらの疑問にもお答えいただきありがとうございます。

    御紹介のサイト「天国とはどんなところ?」ホントに素晴らしい回答だと思いました。

    特に最後の「私達はその神の子羊に顔と顔を合わせて会えるのです。その神の子羊は、私達を愛し、私たちが永遠に天にてご臨在を楽しむことができるようにと、ご自分を犠牲にされたのです。」

    というところが、イエス様の十字架の贖罪の意味が読み取れるようで大変分かりやすかったです。

    これからも、いろいろお教えくださいね。
引用返信/返信 削除キー/
■12274 / inTopicNo.28)  Re[21]: キリスト教の外の救い 愛満開様へ
□投稿者/ 愛満開 -(2021/04/29(Thu) 21:27:43)
    tollさんこんばんは。

    「救済に関するカトリック教会本来の教えを私は知りたい。」
    のサイトの御紹介、大変、参考になりました。

    カトリックやプロテスタントもユダヤ教も所詮は人間が営む不完全な組織なのだと思います。
    とは言え、今は、神を信じて愛し続けることが幸福なのではないのかなと思っているところです。
引用返信/返信 削除キー/
■12269 / inTopicNo.29)  Re[21]: 第三の天
□投稿者/ toll -(2021/04/29(Thu) 20:14:13)
    No12265に返信(愛満開さんの記事)
    > パウロの第三の天ですが、第一の天は地球を取り巻く大気圏内であり、
    > 第二は宇宙。第三は霊的世界と思います。
    >
    > そして第三の天をイエス様が十字架上で言われたパラダイスと
    > 見なしてよいでしょうか。




    こういう事なんですねー
    おベンキョさせて頂きました^^

    パウロの天

    使徒パウロは、「第三の天にまで引き上げられました。」しかし、そこでの体験を明らかにすることは禁じられていました。(第2コリント12章1-9節)

    もし、第三の天が存在するのなら、他にもう二つの天が存在するはずです。第一の天は旧約聖書で一番多く「空」とか「大空」として出てくるものです。これは、雲があり、鳥が飛ぶ区域の天のことです。第二の天は星と星との空間/地球の大気圏外の宇宙、つまり星、惑星、その他の 天体物質の宿る場所のことです。(創世記1章14-18節)

    第三の天は、その場所がどこか示されてないのですが、神の住み家です。イエスは、本当のクリスチャンの住む場所を天に準備すると約束されました。(ヨハネ14章2節)天国は、神の救い主の約束を信じて死んで行った旧約時代の聖徒たちの行き先でもあります。(エペソ4章8節)キリストを信じる者はだれでも、滅びることなく永遠のいのちを持っています。(ヨハネ3章16節) .

    使徒ヨハネは、天にある都を見てそれを記録するという特権に預かりました。(黙示録21章10―27節)ヨハネは、天(新しい地)には神の栄光(黙示録21章11節)、つまり神ご自身の臨在があるということを目撃しました。天国には、夜がなく、主ご自身が光なので、太陽も月も要らないのです。(黙示録22章5節)

    天の都は高価な宝石と混じりけのないガラスのような碧玉の輝きで満ちています。天には十二の門(黙示録21章12節)と十二の土台石があります。(黙示録21章14節)エデンの園の楽園が復旧されて、いのちの水の川が流れ、いのちの木ももう一度その実を毎月実らせるようになります。その木の葉は諸国の民を癒します。(黙示録22章1-2節)ヨハネの天国の叙述がどんなに雄弁であっても、天国の現実を表現するのは有限な人間の能力をはるかに超えたことです。(第1コリント2章9節)

    ttps://www.gotquestions.org/Japanese/Japanese-heaven-like.html


引用返信/返信 削除キー/
■12268 / inTopicNo.30)  Re[20]: キリスト教の外の救い 愛満開様へ
□投稿者/ toll -(2021/04/29(Thu) 20:10:09)
    No12259に返信(愛満開さんの記事)
    > tollさんこんにちは。
    >
    >>英語が判って内容(カトリックの司祭さんのようですが)も理解できる
    >>英語も判らない、三位一体も判らない私などは
    >>クリスチャンにはなれないですね^^
    >
    > そんなことは、ありません。
    > 信仰心があれば大丈夫だと思います。
    >
    > 動画の内容は、カトリックの救いの見解についてでしたが、司会者は、誰が天国に入って誰が入らないのかを知ることは嫌なこと余りにも宗教的だと述べています。
    > これは、予定説のことも想定しているのでしょうか。
    >
    > カトリックでは、第2バチカン公会議のとおり世界を救うために神が与えられた一人息子のキリストの贖罪により永遠の生命が与えられるのだと言う見解です。
    >
    > 今のところ、この明示的なキリスト教の信仰により救われること、恵は、来臨するキリストから来ていますが、それは、あなたの良心によって受け取られる。
    > あなたが良心に従っているのなら、神の律法の戒めも遵守することが出来るのです。
    >
    > そして、神の恩寵は、キリストにより人類に提供してきた救済される道なのです。
    >
    > ユダヤ教の伝統的な見解では、非常に行動ベースの宗教であり行動が伴わないと天国へのポイントは稼げないというものです。
    >
    > それに対してカトリックでは、愛に基づく神です。愛の神だから神の一人息子により世界を愛されていることを重要視しています。
    >
    > 神の愛は、今、受け入れなければならないのでしょうか。
    > もちろん、キリストによる信仰は、一つの行為、コースとして受け入れることを
    > 神は申し出されるのです。
    >
    > トマスアクィナスは、信仰は扉であるといいます。
    > 信仰がなければ、霊的な生活には入ることが出来ません。
    > 今、神の愛への信頼によって完全になるように求められています。
    >
    > そして、愛は、あなたの中で愛に目覚めさせるのです。
    > 恩寵の恵みは、まず、信仰によって受け入れられる。
    > ルターは、その点では、正しかった。
    >
    > 私たちは、完全に生きること(幸福)を望んでいるので、
    > 神は、肉体と魂に応えるために愛のすべてを提供します。
    >
    > それは、道であり恩寵なのです。
    > 神の恩寵と人の信仰の協力作用により、この恵みは実現します。
    >
    > 人生に現れる恵みと愛とが救いの一貫して一つのことを表し、この方法で、
    > 私を天に引き上げるのです。
    >
    > パウロの言う天国とは何ですか。
    > 聖書では、パウロは「第三の天にまで引き上げられました。」
    > しかし、そこでの体験を明らかにすることは禁じられていました。
    > (第2コリント12章1-9節)
    >
    > 希望と偉大な愛のあるところで天国への希望は、純粋な信仰によります。
    >
    > 天国とは、愛の行為であり、恩寵の恵みとの協力によるものであり、
    > これが、カトリックの道です。
    >
    >
    >
    >
    >
    >
    >
    >
    >
    >
    >
    >
    >
    > が愛を信じること、特に神からのグレース(恩寵)と(人間からの)協力これは、自由意思による信仰の両方が大切だと述べていたようです。
    >
    > つまり、予定説のように予め決まった恩寵だけではなく、人間からの働きかけである信仰との協力、共同作業が必要なのだと思います。
    >
    > この協力とは、三位一体の神がそうであるように、神と人との愛の交流だと思います。



    愛満開 様 こんんばんわ

    わざわざ訳して下さったのですね
    ありがとうございました
    司教さんだとのこと( by トピ主さん)

    難しいんですけど
    そういう事かと心に留めておきます

    ネット調べでは
    あの動画は
    カトリックの最先端をいくバロン司教さんと
    アメリカの保守派政治コメンテーターであるベン・シャピロが
    シャピロのトーク?ショーでの対話だそうですね
    ユダヤ教徒のシャピロへのカトリック司教さんの回答について
    このブログの主さんは
    こんな風に見ているんですね
    興味深いです

    ttp://japanesebiblewoman.hatenadiary.com/entry/2018/12/24/172830

引用返信/返信 削除キー/
■12265 / inTopicNo.31)  第三の天
□投稿者/ 愛満開 -(2021/04/29(Thu) 17:00:28)
    パウロの第三の天ですが、第一の天は地球を取り巻く大気圏内であり、
    第二は宇宙。第三は霊的世界と思います。

    そして第三の天をイエス様が十字架上で言われたパラダイスと
    見なしてよいでしょうか。
引用返信/返信 削除キー/
■12263 / inTopicNo.32)  Re[21]: キリスト教の外の救い 愛満開様へ
□投稿者/ 愛満開 -(2021/04/29(Thu) 16:48:35)
    knowing itselfさん御指摘と解説ありがとうございます。

    >>カトリックでは、第2バチカン公会議のとおり世界を救うために神が与えられた一人息子のキリストの贖罪により永遠の生命が与えられるのだと言う見解です。
    >
    > 動画でバロン司教がいっているのは、↑上記を前提にした上で、第2バチカン公会議ではキリスト教を信仰していない、キリスト教の外でも、救われる可能性を認めたということです。無神論者も救われうる。良心や善意思をもって真摯に生きた場合ですが。
    >
    >>神の恩寵と人の信仰の協力作用により、この恵みは実現します。
    >
    >>天国とは、愛の行為であり、恩寵の恵みとの協力によるものであり、
    >>これが、カトリックの道です。
    >
    > 良心的で善意思の異教徒や無神論者でも救われるとしても、キリストの恩寵とは別に、いくつかの道を認めるのではなく、キリストの恩寵に応答したといえるような生き方をした人は、キリストについて聞いたことすらなくても救われうる、ということです。
    >
    > ユダヤ教徒の質問者が、アクトベースト、フェイスベーストと切り出したのに対して、いやカトリックは愛ベーストと答えたのは、そういう意味だと思います。プロテスタントや浄土真宗はやはりフェイス(信仰・信心)basedだと思いますが、カトリックはフェイスのみにはならないのですね。逆にこれが多宗教や無神論をも包摂できる寛容さにもつながるのでしょう。

    それから、パウロの言う天国とはどういうことなのでしょうか。
    よろしかつたらご説明いただけると幸いです。


引用返信/返信 削除キー/
■12261 / inTopicNo.33)  Re[20]: キリスト教の外の救い 愛満開様へ
□投稿者/ knowing itself -(2021/04/29(Thu) 15:06:01)
    愛満開さんへ 横レス失礼します

    > カトリックでは、第2バチカン公会議のとおり世界を救うために神が与えられた一人息子のキリストの贖罪により永遠の生命が与えられるのだと言う見解です。

    動画でバロン司教がいっているのは、↑上記を前提にした上で、第2バチカン公会議ではキリスト教を信仰していない、キリスト教の外でも、救われる可能性を認めたということです。無神論者も救われうる。良心や善意思をもって真摯に生きた場合ですが。

    > 神の恩寵と人の信仰の協力作用により、この恵みは実現します。

    > 天国とは、愛の行為であり、恩寵の恵みとの協力によるものであり、
    > これが、カトリックの道です。

    良心的で善意思の異教徒や無神論者でも救われるとしても、キリストの恩寵とは別に、いくつかの道を認めるのではなく、キリストの恩寵に応答したといえるような生き方をした人は、キリストについて聞いたことすらなくても救われうる、ということです。

    ユダヤ教徒の質問者が、アクトベースト、フェイスベーストと切り出したのに対して、いやカトリックは愛ベーストと答えたのは、そういう意味だと思います。プロテスタントや浄土真宗はやはりフェイス(信仰・信心)basedだと思いますが、カトリックはフェイスのみにはならないのですね。逆にこれが多宗教や無神論をも包摂できる寛容さにもつながるのでしょう。


引用返信/返信 削除キー/
■12259 / inTopicNo.34)  Re[19]: キリスト教の外の救い 愛満開様へ
□投稿者/ 愛満開 -(2021/04/29(Thu) 12:59:56)
    tollさんこんにちは。

    > 英語が判って内容(カトリックの司祭さんのようですが)も理解できる
    > 英語も判らない、三位一体も判らない私などは
    > クリスチャンにはなれないですね^^

    そんなことは、ありません。
    信仰心があれば大丈夫だと思います。

    動画の内容は、カトリックの救いの見解についてでしたが、司会者は、誰が天国に入って誰が入らないのかを知ることは嫌なこと余りにも宗教的だと述べています。
    これは、予定説のことも想定しているのでしょうか。

    カトリックでは、第2バチカン公会議のとおり世界を救うために神が与えられた一人息子のキリストの贖罪により永遠の生命が与えられるのだと言う見解です。

    今のところ、この明示的なキリスト教の信仰により救われること、恵は、来臨するキリストから来ていますが、それは、あなたの良心によって受け取られる。
    あなたが良心に従っているのなら、神の律法の戒めも遵守することが出来るのです。

    そして、神の恩寵は、キリストにより人類に提供してきた救済される道なのです。

    ユダヤ教の伝統的な見解では、非常に行動ベースの宗教であり行動が伴わないと天国へのポイントは稼げないというものです。

    それに対してカトリックでは、愛に基づく神です。愛の神だから神の一人息子により世界を愛されていることを重要視しています。

    神の愛は、今、受け入れなければならないのでしょうか。
    もちろん、キリストによる信仰は、一つの行為、コースとして受け入れることを
    神は申し出されるのです。

    トマスアクィナスは、信仰は扉であるといいます。
    信仰がなければ、霊的な生活には入ることが出来ません。
    今、神の愛への信頼によって完全になるように求められています。

    そして、愛は、あなたの中で愛に目覚めさせるのです。
    恩寵の恵みは、まず、信仰によって受け入れられる。
    ルターは、その点では、正しかった。

    私たちは、完全に生きること(幸福)を望んでいるので、
    神は、肉体と魂に応えるために愛のすべてを提供します。

    それは、道であり恩寵なのです。
    神の恩寵と人の信仰の協力作用により、この恵みは実現します。

    人生に現れる恵みと愛とが救いの一貫して一つのことを表し、この方法で、
    私を天に引き上げるのです。

    パウロの言う天国とは何ですか。
    聖書では、パウロは「第三の天にまで引き上げられました。」
    しかし、そこでの体験を明らかにすることは禁じられていました。
    (第2コリント12章1-9節)

    希望と偉大な愛のあるところで天国への希望は、純粋な信仰によります。

    天国とは、愛の行為であり、恩寵の恵みとの協力によるものであり、
    これが、カトリックの道です。













    が愛を信じること、特に神からのグレース(恩寵)と(人間からの)協力これは、自由意思による信仰の両方が大切だと述べていたようです。

    つまり、予定説のように予め決まった恩寵だけではなく、人間からの働きかけである信仰との協力、共同作業が必要なのだと思います。

    この協力とは、三位一体の神がそうであるように、神と人との愛の交流だと思います。
引用返信/返信 削除キー/
■12256 / inTopicNo.35)  Re[20]: キリスト教の外の救い 愛満開様へ
□投稿者/ toll -(2021/04/29(Thu) 12:03:18)
    No12242に返信(愛満開さんの記事)
    > tollさんこんばんは。はじめまして。


    >>■No12083
    >>□投稿者/ 勿忘草 -(2021/04/22(Thu) 17:11:15
    >>
    > >>もし、神が誰が救われるか選ばれているのなら、私たちがキリストを選んで信じる自由意志はどうなるのでしょうか?
    >>
    >>聖書は私たちは自由意志で選択できると言っています。
    >>
    >>私たちがしなくてはならないのは、ただイエスキリストを信じること、そうすれば救われると言っています。(ヨハネ3章16節;ローマ10章9−10節)
    >>
    >>聖書は、一度も、神が、神を信じる者を拒むとか、誰でも神を求める者を退けるとか言ってはいません。(申命記4章29節)
    >>
    >>どうしてか、神の神秘さのうちで、予定説は、神に引き寄せられた人と共に働いて(ヨハネ6章44節)、その人が信じて救われるのです。(ローマ1章16節)
    >>
    >>神は救われる人をあらかじめ決めておられ、救われるためには、私たちはキリストを選ばなければならないのです。
    >>
    >>この二つの事実は、同等に真理です。
    >>
    >>ローマ11章33節は、「ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。
    >>そのさばきは、何と知り尽くしがたく、そのみちは、何と測り知りがたいことでしょう。」と宣言しています。
    >>
    >
    > 聖書が 予定説を 語っているなら 私は聖書に従いたいのですが、納得できない点があります。
    >
    > 神様は 人類を救うためにあらかじめ計画をたてました。 その壮大な 計画は 一人一人の 役割によって 進められます 。
    > 全ての人が何かしらの役割を与えられていると思います。ですから神様はその役割に応じて、必要な能力 を与えてくれるのです。
    > これは救われた人だけではありません。
    > 救われてない人も 含めて全ての人を通して、神は 計画を進めています。
    >
    > そして、神様の恵みを 自分の自由意思で 信じる人達を 救うということです。
    >
    > なので、救いの選びは神様の恩寵を自分の自由意思で 信じる人達のことです。
    >
    > 「A さん、 B さん 、C さん は救うけれど、 Dさん Eさん は救わない」
    >
    > という二重予定説が 主張するような 選びではない のです。
    >
    > また、「一旦新生しても、最後まで主イエスに留まる信仰」の継続が必要です。
    > 予定説のように、「一旦救われたら、何がなんでも天国に行ける」というわけでもありません。



    愛満開 様 お返事ありがとうございます


    トピ主様 と かの探求氏様が
    時間を掛けて話し合われてきた「予言説」について
    (お二人の遣り取りは多少はロムされたと思いますが)
    簡潔にまとめて下さり ありがとうございます


    かの探求氏様の独自の究明は構わないにせよ
    正規の聖書の解説書は敬遠し
    しかし 動画発信でお気に入りの解説は採用して
    思いたいように思うような やり方をしているように見えて
    ちょっと心配になりました

    ここのトピ主様が
    “ 聖書の事は 聖書に聴く ” と仰ったように
    解釈の仕方に足りないものがあるような気がしました


    聖書の中に連ねられてる“ 神の視線 ” とでもいうのでしょうかね


    「 救いとは信仰の問題なのです。これは人々の神への選択であり、神が人々を選ぶというものではありません。神の御心には、どのような疑問もありません。神は全人類を救うことをお選びになり、達成されるために御子をお与えになりました。」( ↓下記のサイトからの引用)

    「不条理な悪意ある決断を貫き通す神」という概念は、
    新約思想全体の趣旨と矛盾すると言われているようです

    だから正統派の教派から異端とされているのであって
    嫌われているという短絡的な事ではないのでしょうね
    かの人には
    異端 という言葉の意味も 広義に知って欲しいと思いますが
    もう熱は醒めてしまったでしょうかね
    愛満開 様のご意見を読んで貰えたら良いなと思います

    “ 聖書の事は聖書に聴く ”

    かの人には
    この意味も正しく知って欲しいと思いますね

    ご意見 ありがとうございました




    こちらのサイトの主題にも
    かの人が求めていた答えがあるかと引用してみました


    ttp://www.thebible.jp/神から選ばれる-予定説の教義への考察.htm

    【選ばれた民という御言葉はなにを意味するのでしょうか?】

    選ばれるとは、誰かがあなたを選んだ、つまりあなたがその人の的という意味になります。これまで見てきたように、全人類が救われることが神が宣言された御心であり、そのために神は御子の命をもって必要な支払いをなさいました。今、神は全人類が救われることをお望みです。つまり、神の選択は全人類が救われることなのです。逆に、もしこれが神のご選択ならば、神の全人類に対する御心とは、また救いにおいて、すべての人々はどのような立場に置かれているのでしょうか?選ばれたものとなっているのです。言葉を変えますと、御言葉がわたしたちを選択し、選ぶと言うとき、それは選ばれなかった人との関係性をもって選ばれたという意味ではありません。すべての人々が救われることを選ばれました。これが主の選択であり、全人類に対する神の御心です(全員が神の申し出を受けるわけではないことは、明白ではありますが)。御言葉がわたしたちを選ばれた、というとき、それは救いの対象として選ばれたということになります。救いは神の選択、全人類にたいする神の御心です。全人類が救いの対象に選ばれているのです。しかしながら、その全員がこの申し出を受け入れるわけではなく、その結果として神の救いから外れる人も出て来ます。その人が救いから外れたのは、神がそのようにお選びにならなかったからではありません。神の選択を拒絶した人々が、自分でそうなることを選択したのです。神が救われない人々を選択して、わたしたちを救うとされたのではありません。わたしたちが救われたのは、神がすべての人々へ与えた選択を、わたしたちが受け入れたからなのです。 このように、救いとは信仰の問題なのです。これは人々の神への選択であり、神が人々を選ぶというものではありません。神の御心には、どのような疑問もありません。神は全人類を救うことをお選びになり、達成されるために御子をお与えになりました。

    ヨハネによる福音書第3章16節から18節
    「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。(以下は略)」


引用返信/返信 削除キー/
■12244 / inTopicNo.36)  Re[19]: アガペー
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/04/28(Wed) 20:43:09)
    「アガペー」って日本語で「神の愛」っていう見たい。

    ん〜ん、キリストさんの教え?

    ウィキから、
    《・古典ギリシア語での愛
    このような神の無限の愛、人間に対し普遍的に提供される「愛」を表現するため、『新約聖書』の福音書記者たちは、ギリシア語の αγαπηという言葉を選んだ。選んだというのは、ギリシア語には「愛」を表現する言葉が基本的には四つあり、
    エロース (ερως、性愛) 、
    フィリア (φιλια、隣人愛) 、
    アガペー (αγαπη、自己犠牲的な愛) 、
    ストルゲー (στοργή、家族愛)、
    である。
    エロースは古代ギリシアにおける神聖な神であり、また「性愛」や「肉体の愛」を典型的に意味した。エロースは文化人類学的にも良く知られるように、女性の生殖は神秘であり驚異であり、神聖なものであった為、神と見做されたのであり、それ故、生殖の前提となる肉体の交渉での愛を必ず含意した。情欲的な愛、自己中心的な愛を意味し、聖書では用いられていない。フィリアは、親子、兄弟、友人間の人間的ではあるが麗しい愛を表すのに用いられている。
    ・神の愛としてのアガペー
    ヘブライの伝統を引く原始キリスト教の信徒たちは、後の教父たちがギリシア哲学(特にプラトン哲学)を援用したとはいえ、初期には、ギリシア的伝統や、ローマの伝統とは別の形で彼らの信仰を表現したいと考えたと思える。また「神の愛」は、エロースの愛のような「肉体の愛」ではなく、「魂・霊の愛」であると考えられたので、「フィリア」か「アガペー」がより適切であった。「フィリア」は、友情や友愛の意味を持ち、この言葉がキリスト教の「愛」を示す言葉として選択されても不自然ではなかった。しかし「アガペー」は家族愛のような意味を持ち、それ以外に、特に限定された強い用例のある「愛」ではなかったので、原始キリスト教の福音書記者たちやパウロスは、この言葉を「神の愛」を意味する言葉に採択したと考えられる。英語の古カトリック訳では、love と訳すと「エロース」によって表される情欲的な愛と誤解されることを避けて、チャリティー (英: charity、羅: caritas、カリタス) の訳語を当てている。その後、charity の意味に変化が起こって、現在では「慈善」の意味で用いられるようになったので、ティンダル訳では「アガペー」の訳語として love が用いられるようになった。》

    わたしの参考書から、
    アガペー[agape](神の愛)
    《キリスト教における愛の中核をなす概念で、キリストの愛として『新約聖書』に示された思想。一般にギリシア的であるエロスと対比される。自己犠牲的、非打算的な愛であり、無差別、平等の敵をも愛するほど徹底した愛である。神が罪ある人間に対して、自己を犠牲にした憐みある行動と考えられる。〔資料〕「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」〔資料〕「一粒の麦が地に落ちて死ななければ唯一つである。もし死んだのなら、多くの実を結ぶであろう」〔資料〕「天の父は、悪いものの上にも良い者の上にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らしてくださる」》

    問題としてるのは、”キリストさんが言う”「愛」の意味なの?



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