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Re[19]: キリスト教の外の救い 愛満開様へ
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□投稿者/ 愛満開 -(2021/04/29(Thu) 12:59:56)
| tollさんこんにちは。
> 英語が判って内容(カトリックの司祭さんのようですが)も理解できる > 英語も判らない、三位一体も判らない私などは > クリスチャンにはなれないですね^^
そんなことは、ありません。 信仰心があれば大丈夫だと思います。
動画の内容は、カトリックの救いの見解についてでしたが、司会者は、誰が天国に入って誰が入らないのかを知ることは嫌なこと余りにも宗教的だと述べています。 これは、予定説のことも想定しているのでしょうか。
カトリックでは、第2バチカン公会議のとおり世界を救うために神が与えられた一人息子のキリストの贖罪により永遠の生命が与えられるのだと言う見解です。
今のところ、この明示的なキリスト教の信仰により救われること、恵は、来臨するキリストから来ていますが、それは、あなたの良心によって受け取られる。 あなたが良心に従っているのなら、神の律法の戒めも遵守することが出来るのです。
そして、神の恩寵は、キリストにより人類に提供してきた救済される道なのです。
ユダヤ教の伝統的な見解では、非常に行動ベースの宗教であり行動が伴わないと天国へのポイントは稼げないというものです。
それに対してカトリックでは、愛に基づく神です。愛の神だから神の一人息子により世界を愛されていることを重要視しています。
神の愛は、今、受け入れなければならないのでしょうか。 もちろん、キリストによる信仰は、一つの行為、コースとして受け入れることを 神は申し出されるのです。
トマスアクィナスは、信仰は扉であるといいます。 信仰がなければ、霊的な生活には入ることが出来ません。 今、神の愛への信頼によって完全になるように求められています。
そして、愛は、あなたの中で愛に目覚めさせるのです。 恩寵の恵みは、まず、信仰によって受け入れられる。 ルターは、その点では、正しかった。
私たちは、完全に生きること(幸福)を望んでいるので、 神は、肉体と魂に応えるために愛のすべてを提供します。
それは、道であり恩寵なのです。 神の恩寵と人の信仰の協力作用により、この恵みは実現します。
人生に現れる恵みと愛とが救いの一貫して一つのことを表し、この方法で、 私を天に引き上げるのです。
パウロの言う天国とは何ですか。 聖書では、パウロは「第三の天にまで引き上げられました。」 しかし、そこでの体験を明らかにすることは禁じられていました。 (第2コリント12章1-9節)
希望と偉大な愛のあるところで天国への希望は、純粋な信仰によります。
天国とは、愛の行為であり、恩寵の恵みとの協力によるものであり、 これが、カトリックの道です。
が愛を信じること、特に神からのグレース(恩寵)と(人間からの)協力これは、自由意思による信仰の両方が大切だと述べていたようです。
つまり、予定説のように予め決まった恩寵だけではなく、人間からの働きかけである信仰との協力、共同作業が必要なのだと思います。
この協力とは、三位一体の神がそうであるように、神と人との愛の交流だと思います。
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